堀 裕嗣✕宇野弘恵 キャッチボール連載独自開発教材でつくる 渾身の「三つ星道徳授業」#11 「私たちの学校」 by 宇野弘恵

魅力的なオリジナル教材を続々と開発し、最先端の道徳授業実践を蓄積し続ける堀先生と宇野先生が交互にそれぞれの自信作を公開。さらには相手の教材開発と授業づくりについて解説し合う連載です。イメージしながら読むだけで感情と思考が大きく揺さぶられる傑作揃いです。
執筆/宇野弘恵(北海道公立小学校教諭)・解説/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)
目次
1 授業の実際
C/主として集団や社会との関わりに関すること【よりよい学校生活、集団生活の充実】
対象学年/高学年以上
① 昭和19年の学校と出会う
古い木造校舎の写真を提示します。写真には「1944(昭和19)年頃の小学校」とだけ添えます。
教室には、今ではあまり見かけなくなった円筒形のストーブがありました。冬になると、子どもたちはストーブの周りに集まって温まりました。
時は昭和19年。太平洋戦争の真只中です。若い男性は次々と戦地へ行き、着るものも日用品も少なくなっていました。女性はおしゃれを楽しむことも難しく、毎日おなかいっぱい食べることさえできない時代でした。
こうした当時の様子を、写真を一枚ずつ提示しながら静かに説明します。
当時は、今のような学校給食はなく、子どもたちは弁当を持って学校へ来ていました。弁当の中身は、いもやかぼちゃ、それに少しのご飯。中には、弁当を持ってくることのできない子もいました。そんな子どもたちに胸を痛めた先生がいました。
「堀田先生です」
といって、若い頃の堀田綾子先生の写真を提示します。

堀田先生は、子どもたちが持ち寄った具材を鍋に入れ、教室のストーブの上でみそ汁をつくりました。学級の子どもは60人。具材を持ってきた子も、持ってくることのできなかった子も、みんなで毎日おいしく食べたそうです。
今では、教室のストーブの上で調理をすることなど考えられません。しかし、目の前には、弁当を持ってくることのできない子がいました。堀田先生は、その子たちのために、自分にできることを考えたのです。
その様子を見た別の先生が、
「それ、いいね」
「うちの学級の子にも食べさせたい」
と言いました。堀田先生の学級で始まったみそ汁づくりは、やがてほかの学級へ、そして全校へと広がっていきました。学校全体の取組となったのです。日本の学校給食の先駆けともいえる実践です。
堀田先生の学校は、どんな学校だと思いますか。
子どもたちには、まず自分の考えを書かせます。その後、交流します。
・困っている人を放っておかない学校
・先生たちが子どものことを大切にしている学校
・よいと思ったことをみんなでやってみる学校
・一人の考えを学校全体に広げられる学校
など、ポジティブな考えがたくさん出されます。
「先生たちの仲がよい学校だね」
「こういう学校、いいなあ」
という感想も聞かれました。
② 鳴らないベルについて考える
続いて、同じ学校で起きたもう一つの出来事を紹介します。
昭和19年頃の学校では、毎朝、全校朝礼が行われていました。全校朝礼とは、学校中の子どもと先生が校庭や運動場に集まり、校長先生の話などを聴く集会です。どの学校も、朝礼が始まる合図のベルを鳴らしていました。
ところが、堀田先生が勤めていた学校では、そのベルを鳴らしませんでした。ベルがなかったのではありません。ベルはあるのに、鳴らさないのです。子どもたちは、時間になると、ばらばらと集まってきました。

堀田先生が以前勤めていた学校では、ベルの合図で子どもたちは走って集合し、すぐにびしっと並んでいました。それに比べ、ベルも鳴らず、子どもたちが時間を見計らって集まってくる様子を見て、堀田先生は「だらしない」と思いました。
しかも、先生方は子どもたちから離れたところにいて、号令一つかけません。教師は子どもの前に立ち、一人ひとりの顔色や目の輝きを見て、「気をつけ」と号令をかけ、きちんと整列させるべきではないか。堀田先生はそう考えていました。
そこで堀田先生は、このことを横澤校長先生に伝えました。すると横澤校長先生は、朝礼でベルを鳴らさないのは、前任で初代校長の芦田校長先生のときからだと話します。つまり、この学校では、開校当時から一度もベルが鳴らされたことはないというのです。

芦田校長先生は、どんな考えで始まりの合図を鳴らさなかったと思いますか。
・近所迷惑だから
・ベルを鳴らさなくても時間を見て分かるから
・ベルが重くて鳴らすのが大変だったから
多くの子どもたちは、物理的な理由や苦情を恐れての配慮と考えました。どれも一理ありとしたうえで、横澤校長先生が語った芦田校長先生の考えを提示します。
「芦田先生は、人間は号令で動かせるものじゃないと固く信じている人です。人間が人間を号令で動かすという、その姿勢が嫌いなんです。号令で威嚇されて動く人間になってもいけない。自主的に動くのが人間でなければいけない、というわけです。先生たちは、じっと生徒の後ろから見守っていればよい。それが、本校の朝礼です」
昭和19年は、太平洋戦争の真只中でした。国のために行動することが何よりも優先されました。自分で考えることよりも、命令や号令に従うことが強く求められていた時代です。その厳しい中にあって、芦田校長先生は「合図を鳴らさないのは、自分で考えて判断し、必要なことやよいと思うことをできる人間に育てたいからだ」と言いました。みなさんは、芦田校長先生の考えをどう思いますか。
・子どもを人間として大事にしていた
・先生に言われないと動けない人にはなってほしくなかった
・自分で考えて行動できるって、なんか信頼されている気がする
・やさしいけど、実はすごく厳しい感じもする
この他、「芦田校長先生は、信念のある人で強い人だ」という人物への評価や「なんか、すごい」という言葉にならない思いもありました。この時代背景に於いても、「人は自分の考えで動くものだ」という考えを貫いたすごさに子どもたちは心を動かされていました。
③ 92年間続く学校の願いを捉える
「実は、この学校では、開校92年(授業当時)たった今でも、開始の合図(チャイム)は鳴らされていません。それは、この学校です」
と言って、現在の旭川市立啓明小学校の写真を提示します。子どもたちからは、ええーっ!という大歓声が上がりました。
「すっげえ!俺たちの学校、凄くない!?」
と、興奮状態でした。教室が落ち着いた頃、次のように問います。
啓明小学校でチャイムを鳴らさない理由を聞いて、どんなことを考えましたか。
自分たちの学校のことです。中には、チャイムがなくて不便と感じている子もいました。ですから、チャイムが鳴らされない理由についてじっくり考えてほしいと思いました。そこで、まずは少し時間を取って自分の考えを書かせ、その後、交流します。
・そんなに昔からチャイムがなかったことも知らなかったけど、その理由を知ってさらに驚いた。
・戦争の時代に、それでも自分で考えることを大事にしてきたこの学校はすごい。
・普段から、宇野先生が「自分で考えて行動しなさい」と言っていることと繋がった。
・自分で考えて自立した人間になるように育てられているのなら、自分もそうなろうと努力しなきゃと思った。
・時計を見て行動するって大したことでもないのに、それは自分で考えて行動することや自分の考えで行動すると同じことなんだ。小さなことでも自分で考えて行動する。大事にしたい。
④ 堀田先生の生き方から考える
ここで、堀田綾子先生について紹介します。
堀田綾子先生は、1922(大正11)年、北海道旭川市に生まれました。旭川高等女学校を卒業後、17歳で歌志内小学校の教員となり、19歳のときにこの旭川市立啓明小学校に勤めました。この堀田綾子先生が、後の作家、三浦綾子さんです。


この色紙を提示すると、みんな一斉に
「あー!」
と叫びました。職員室前の廊下に飾ってあるので、日常的に目にしているのです。
三浦綾子さんは、終戦の翌年に教職を退き、その後、作家としての人生を歩みました。このチャイムのことを含めた教師時代のことは、自伝『石ころのうた』(角川文庫)に記されています。
当時の教え子の宮田さんは、堀田先生について、次のように語っています。
「3、4年の担任が堀田先生でした。厳しい指導で知られ、計算問題や教科書の書き写しなどの宿題をたくさん出されました。教え方が上手で、作文では『書き出しは、読んだ瞬間に「おやっ」と思わせる文章が大事です』と教えてくれました」
厳しい先生だったことが分かります。しかし、宮田さんの記憶には、別の堀田先生の姿も残っています。
「登校中に『一緒に学校に行きましょう』と手をつないでくれたこともありました。すごく温かい手で、いつも笑顔だったのが印象に残っています。厳しさと同時に優しさがある人でした。
食糧難の時代だったので、各家庭から野菜やみそを持って来させ、ストーブにかけた大鍋でみそ汁をつくってくれました。堀田先生は、おかずがない子に自分の弁当のおかずをいつも分けてあげていました」
堀田先生自身は、当時の指導を、「なるべく漢字を正確に」「一字でも多く覚えさせるように」と、書き取りをよくさせたと振り返っています。「何だ、こんな字も覚えていないのか」と人に嗤われないようにさせたかったのだといいます。
また、「先生に習ったら、勉強したくなるわ」と子どもたちに言われたことにも触れ、自分があまりに厳しかったために、生徒の印象に強く残っているのだろうと記しています。
厳しく教えることも、手をつなぐことも、みそ汁をつくることも、堀田先生にとっては、目の前の子どもを大切にすることだったのでしょう。
最後に、次の言葉を提示します。
「私たちの知らない歴史。私たちがつくる歴史」
私たちの学校にも、私たちがまだ知らない歴史があります。そして、今、自分たちが学校で考え、選び、行動していることも、いつか学校の歴史になります。みなさんは、この学校にどんな「歴史」をつくるのでしょうか。
この言葉を静かに提示して、授業を終えます。
2 この授業をつくるにあたって
前任校・旭川市立啓明小学校にはチャイムがありませんでした。私にとっては初めてのノーチャイム校でした。私自身がうっかりしてしまったり、遅れてくる子に指導しなくてはならなかったりして、不便さを感じたこともありました。でも、
「うちの学校の子たちは自分で時計を見て行動しているの、すごいわよねえ」
という先生もいて、そんな見栄のためならチャイム鳴らしてよと思ったものでした。また、
「この学校のノーチャイムは俺が子どもの頃からだったよ。何か知らないけど、それは伝統で、そう簡単に変えられないことらしいよ」
との卒業生でもあった同僚の話に、大義名分のためにノーチャイムなんて!!と憤ったこともありました。そんなふうに、私はノーチャイムに不満を抱きながらも、チャイムを鳴らさない理由を深く考えようとしていませんでした。
あるとき、堀さん主催の道徳セミナーで「戦争」がテーマとなりました。確か、ウクライナ戦争が始まった年に、戦争について再考しようという意図だったと記憶しています。私は女性の文化人を扱おうと思っていて、ああ、そうだ、三浦綾子がいると思い立ち『石ころのうた』を手に取ったのでした。
三浦作品は10代の頃に随分と読みました。だから、書庫に行くとすぐに『石ころのうた』は見つかりました。すっかり茶けてしまった文庫本を読み始めると、なんとうちの学校(啓明小学校)のことが書いてあるではありませんか!しかも、ノーチャイムの理由まで。三浦綾子が勤務校で教鞭を取っていたことはもちろん知っていましたし、同じ学校で働けることを誇りにも思っていました。しかし、まさか、こんなにたくさんのエピソードが綴られていたとは。
初代校長の芦田先生のお考えを知り、私は胸が熱くなりました。こんなにも崇高な理念のもとにチャイムが鳴らされていなかったのか。人間を道具としてではなく一人の人間として尊ぶ。それは、命令によって意のままに動かすのではなく、自分の意思で動くこと。自分の考えをもち、自分の考えで動くこと。それが、教育の根本である。そう言われているように感じ、襟を正されたような気持ちにもなりました。
芦田先生がこうした教育を行っていたのは、戦争へと向かう時代でした。国のために行動することが何よりも優先され、人々には自分で考えることよりも、命令や号令に従うことが強く求められていました。そんな時代に、「人間は号令で動かせるものではない」と考え、子どもを自分の意思で動く一人の人間として育てようとしたのです。戦争について考えようとして手に取った一冊の本から、私は、人間を命令で動かそうとすることと教育との関係を突き付けられたように思いました。
また、開校当時からチャイムは鳴らされておらず、それが今もなお継承されていることにも驚きました。それは、2代目校長の横澤先生をはじめ、それに続く校長先生が、芦田先生の理念に賛同したことを意味します。つまり、啓明小学校では、開校以来ずっと「人をひとりの人間として尊ぶ」という理念を守り続けてきたということです。これは、不便だなどという不埒な理由でチャイムを鳴らしてはいけない。そして、チャイムが鳴らない理由を子どもたちにも考えさせなければならない。そう思いました。
そうして生まれたのがこの授業です。当時担任していた6年生にこの授業をすると、教室がかつてないほどの熱い空気に包まれました。熱気というのとは少し違って、なんというか、満足感とか誇らしさとかという気持ちで満たされた感じでした。自分たちの学校が本に記されていたことや、素晴らしい理念のもとに続いてきた学校であることに心を動かされたのです。一度も途切れることがなく理念を守り続けた歴史を知ることで、この学校がたくさんの人の思いで続いてきたことにも胸を熱くしていました。
校内研修で模擬授業として行ったときも同様の空気になりました。感動して涙が出てきたという先生もいました。生の歴史には、そうした力があるのです。
学校の歴史というと、開校した年や校舎が建てられた年、学校行事の始まりなどを思い浮かべがちです。しかし、学校には、年表には書かれない歴史があります。子どもたちにどんな人に育ってほしいと願ってきたか、何を大切にしてきたかという歴史です。こうした生の歴史を知ることで学校への愛着が湧き、学校を大切に思う気持ちが生まれるものだと思います。
この授業は、啓明小学校でしかできない授業です。まして、本にまで記されているなんて、かなり稀なことです。ですから、この授業のような授業をつくるのは容易いことではないかもしれません。しかし、地域に足を運ぶ、学校に保管されている沿革誌や文集などに当たることで、それまで知らなかった「歴史」に出合うことができるかもしれません。
自分の学校が好きだ。よい学校だと思う。こんな思いで学校に通うことができるなら、それだけで幸せです。私たちだって、嫌いな職場では楽しく仕事はできませんから。自分の学校が好きだ。こんな学校に通っていることが嬉しい。誇りだ。そう思える授業を一つ、つくってみませんか。それは子どもたちだけではなく、そこで働く自分の幸せのためでもあるはずです。
堀 裕嗣による授業解説
この授業は、学校の歴史を学ぶ授業ではない。学校の歴史を通して、「学校とは何か」「教育とは何か」、そして「自分たちはこの学校でどのような人間として育とうとしているのか」を考える授業である。
一般に「よりよい学校生活、集団生活の充実」を扱う道徳授業では、現在の学校生活に目が向きやすい。「自分たちの学校のよいところは何か」「もっとよい学校にするために何ができるか」と問えば、子どもたちは「あいさつをする」「掃除を頑張る」「下級生に優しくする」「みんなで協力する」などと答える。もちろん、それらは間違いではない。しかし、それだけでは学校を「自分たちが現在利用している場所」としてしか捉えられない。学校には、自分たちが入学するずっと前から、そこで子どもを育ててきた人たちがいる。その人たちが何を願い、何を守り、何を次の世代へ渡そうとしてきたのか。その時間の厚みの中に現在の自分たちを置いたとき、学校を見る目は変わる。
宇野先生の授業がおもしろいのは、まさにそこに子どもたちを連れていくところにある。また、このような歴史をもつ学校に勤められた宇野先生を、ちょっと羨ましくも思う。
授業は1944(昭和19)年頃の古い木造校舎から始まる。太平洋戦争の最中である。食糧事情は厳しく、弁当を持ってくることさえできない子どもがいた。そこで堀田綾子先生は、子どもたちが持ち寄った具材を使い、教室のストーブでみそ汁をつくった。やがてその取組は一学級から他学級へ、そして学校全体へと広がっていく。
ここで重要なのは、宇野先生がすぐに「この先生の行動をどう思いますか」と問わないことである。問うのは「堀田先生の学校は、どんな学校だと思いますか」である。子どもたちの視線を一人の教師の美談に固定せず、その教師の行為を受け止め、広げていった「学校」という集団へ向けている。「困っている人を放っておかない学校」「よいと思ったことをみんなでやってみる学校」「一人の考えを学校全体に広げられる学校」という子どもたちの言葉は、その問いによって生まれている。
しかし、この段階で授業を終えれば、「昔のすばらしい学校のお話」で終わってしまう。この授業の本当のおもしろさはここからである。
次に提示されるのが、「鳴らないベル」である。
当時、多くの学校では全校朝礼の開始をベルで知らせ、子どもたちはその合図で集合していた。しかし、この学校ではベルがあるのに鳴らさなかった。子どもたちは自分で時間を見計らって集まってくる。教師も前に立って号令をかけない。若き日の堀田先生は、それを「だらしない」と感じる。教師が子どもの前に立ち、号令をかけ、きちんと整列させるべきだと考える。
この「だらしない」という感覚が実にいい。
現在の子どもたちにも、教師にも、十分に理解できる感覚だからである。時間になってもベルが鳴らない。子どもがばらばらと集まってくる。教師も号令をかけない。それを見れば、「きちんとさせた方がいい」と考えるのはむしろ自然である。つまり、この授業は最初から理念を正解として提示しない。いったん常識の側に立たせてから、その常識を揺さぶる。
初代校長の芦田先生がベルを鳴らさなかった理由は、「人間は号令で動かせるものじゃない」という信念にあった。号令によって威嚇されて動く人間ではなく、自主的に動く人間を育てたい。教師は子どもの後ろから見守っていればよい。そんなふうに考えている。
ここには、「自主性を大切にしましょう」といった一般論とはまったく異なる教育思想がある。
ベルを鳴らさないということは、子どもに自由を与えることだけを意味しない。自分で時計を見ることを要求する。いま何をすべきかを自分で判断することを要求する。誰かに知らせてもらわなくても動くことを要求する。つまり、子どもを管理しない代わりに、子ども自身に判断を引き受けさせるのである。
だから、子どもの「やさしいけど、実はすごく厳しい感じもする」という反応は、この教育思想の核心を捉えている。自由にさせることと、放任することとは違う。指示を減らすことと、子どもに求めるものを減らすこととも違う。むしろ指示しない教育は、場合によっては指示する教育以上に子どもへ厳しい要求を突きつける。「自分で考えなさい」「自分で判断しなさい」「そして自分で動きなさい」という要求だからである。
しかも、それが1944年という時代に行われていたことに驚きがある。国全体が統制を強め、人々に命令への服従を求めていた時代に、学校では「人間は号令で動かせるものではない」と考えていた教師がいた。宇野先生自身も、この時代背景の中で芦田先生の思想を捉えている。ここで「ベルを鳴らさない」という小さな学校文化が、単なる学校運営上の工夫ではなく、人間をどう見るかという思想として立ち上がってくる。
そして、この授業にはさらに大きな仕掛けがある。
ここまで子どもたちは、この学校を「昔のどこかの学校」として考えている。ところが、宇野先生は突然、「この学校では、開校92年たった今でも、開始の合図は鳴らされていません」と告げ、現在の旭川市立啓明小学校の写真を提示する。
自分たちの学校なのである。
ここで教材と学習者との距離が一気にゼロになる。
子どもたちは、毎日その学校に通っている。毎日チャイムが鳴らない生活を送っている。しかし、その意味を知らなかった。自分にとって単なる日常だったものが、実は90年以上前の一人の校長の人間観とつながっていたと知る。「すっげえ!俺たちの学校、凄くない!?」という子どもの声は、単なる驚きではない。自分がそれまで何気なく立っていた場所に、突然、歴史が現れた、その瞬間の言葉といえる。この転換によって、「学校の歴史」が過去の話ではなくなる。
自分で時計を見る。時間を考えて行動する。教師に言われる前に動く。それまで何でもなかった日常の行為に意味が生まれる。実際、子どもからは「時計を見て行動するってたいしたことでもないのに、それは自分で考えて行動することや自分の考えで行動すると同じことなんだ」という言葉が出ている。道徳授業で価値を理解するとは、本来こういうことなのだろう。「自主性とは何か」を言葉で説明できるようになることではない。それまで見えていなかった自分の日常が、別の意味を帯びて見えてくることである。
さらに宇野先生は、ここでも授業を終えない。
最初に登場した堀田綾子先生へ戻る。そして、この人物こそ後の作家・三浦綾子であることを明かす。子どもたちが日常的に目にしている校内の色紙ともつながり、遠い昔の人物がもう一度、自分たちの学校の日常へ戻ってくる。
ここで紹介される三浦綾子の教師像も、この授業を単純な「優しい先生の物語」にしない。教え子の記憶に残っているのは、たくさんの宿題を出し、厳しく指導する教師である一方、登校時には手をつなぎ、食糧難の中でみそ汁をつくり、おかずのない子には自分の弁当のおかずを分ける教師でもあった。
厳しく教えること。手をつなぐこと。みそ汁をつくること。
一見すると異なる行為が、「目の前の子どもを大切にする」という一点でつながっていく。ここでも大切なのは、特定の教師の行為を正解として教えていないことである。厳しく指導すればよいのでも、優しく接すればよいのでもない。目の前の子どもに何が必要なのかを自分で考え、自分の判断で行動する。考えてみれば、これは芦田先生が子どもたちに求めた人間像そのものである。
この授業には、一本の筋が通っている。
堀田先生は、弁当を持ってこられない子どもを前にして、自分にできることを考えた。芦田先生は、子どもを号令で動かすのではなく、自分で考えて動く人間に育てようとした。その理念を歴代の教師たちは引き継ぎ、90年以上にわたってチャイムを鳴らさなかった。そして現在、その学校にいる子どもたちもまた、チャイムを待たず、自分で時計を見て動いている。だから最後の「私たちの知らない歴史。私たちがつくる歴史」という言葉が効く。
歴史とは、過去にあった出来事の集積ではない。特に学校の歴史は、その学校で何を大切にしようとしてきたかという「価値の継承」でもある。しかも、継承するとは、昔のやり方をそのまま守ることではない。先人が何を願ってその行為を選択したのかを知り、現在の自分ならその願いをどのような行動として表すのかを考えることである。
その意味で、本授業の終末で「これから啓明小学校をよくするために何をしますか」といった行動目標を書かせなかったことにも意味がある。ここで「あいさつを頑張る」「時間を守る」などと書かせれば、90年を超える歴史の厚みが、一人ひとりの行動目標へと急速に縮んでしまう。「みなさんは、この学校にどんな『歴史』をつくるのでしょうか」と問いを残して終わるからこそ、子どもたちはその問いを抱えたまま翌日から同じ学校を歩くことになる。宇野先生らしい心憎い演出である。
宇野先生自身、この授業をつくる以前はノーチャイムを不便に感じ、ときには「そんな見栄のためならチャイム鳴らしてよ」とさえ思っていたという。ところが『石ころのうた』を読み、ノーチャイムの由来を知ったことで、同じ学校の同じ事実がまったく違って見えるようになった。
実は、ここにこの授業づくりから学ぶべき最も大切なことがあるように思う。
よい教材は、必ずしも遠くにあるわけではない。教師自身が毎日見ているものの中にある。ただし、毎日見ていることと、その意味を知っていることとは違う。なぜ、この学校ではこれをしているのか。なぜ、この行事は続いているのか。なぜ、この場所にこの言葉が掲げられているのか。なぜ、この地域ではこれを大切にしてきたのか。当たり前すぎて誰も問わなくなったものに、「なぜ」と問いを差し込む。そのとき、日常の風景の奥から教材が姿を現す。
宇野先生は、学校の歴史とは開校年や校舎の建築年、行事の開始年だけではなく、「子どもたちにどんな人に育ってほしいと願ってきたか、何を大切にしてきたかという歴史」でもあると書いている。この捉え方は、他校で同様の授業をつくる際にも重要な視点になるだろう。啓明小学校と同じエピソードを探す必要はない。その学校にしかない「人の願いの痕跡」を探せばよいのである。
そしてもう一つ、この授業は「学校を好きになりましょう」と子どもに要求していない。
学校への愛着や誇りは、教師が持ちなさいと指示して生まれるものではない。自分が暮らしている場所に、こんな人がいた。こんなことを考えた人がいた。その考えを受け継いできた人たちがいた。そして、自分もその長い時間の末端にいる。その事実を知ったとき、結果として学校を見る目が変わるのである。
学校を誇りに思わせる授業ではない。
誇りに思えるだけの学校の姿を、子どもたちの前に差し出す授業なのである。
その意味で、「私たちの学校」という題名は、この授業を最後まで受けた後で初めて意味をもつ。「私たち」とは、いま校舎にいる子どもと教師だけではない。90年以上前にそこで学んだ子どもたちも、芦田先生も、横澤先生も、若き日の三浦綾子も、その理念をつないできた歴代の教師たちも含まれる。そして、その長い「私たち」のいちばん新しいところに、いまの子どもたちがいる。
学校とは、校舎の名前ではない。そこで何を大切にするかを考え続けてきた人々の「時間」そのものなのだろうと思う。我々教師でさえなかなか考えることのできない、新たな境地に立たせてくれる授業である。

ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

うの・ひろえ。北海道公立小学校教諭。民間教育研修などに参加、登壇し、今日的課題や教員人生を豊かにすることを学んでいる。著書に『あと30分早く帰れる! 子育て教師の超効率仕事術』(学陽書房)、『スペシャリスト直伝!高学年担任の指導の極意』、『伝え方で180度変わる!未来志向の「ことばがけ」』、『生き方を考える!心に響く道徳授業』(以上明治図書出版)など多数。
