堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s Bar 一杯分だけ、話そうか。#24 「平成狸合戦ぽんぽこ」とタワマン~人口減少社会の果てに

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による連載第24回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。
執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)
目次
1.追われゆく狸
1935年10月29日、あるクリエイターがこの世に生を受けた。『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『かぐや姫の物語』など、数々のアニメーション映画を残した監督である。
高畑勲。
その作品群の中に一本、なんとも奇妙な映画がある。
『平成狸合戦ぽんぽこ』。
公開されたのは1994年7月16日。舞台は東京の多摩丘陵である。高度経済成長によって東京の人口が急増し、その住宅不足を解消するために多摩ニュータウンの開発が進められている。山が削られ、森が切り開かれ、道路が通される。当然、そこに棲んでいた狸たちは生活の場を失っていく。
このままでは自分たちの山がなくなる。
そこで狸たちは人間に戦いを挑む。古くから狸に伝わる「化け学」を復活させ、工事現場に化け物を出現させ、事故を起こし、人間たちを恐怖に陥れる。四国から化け学の長老まで呼び寄せ、「妖怪大作戦」なる一大作戦を敢行する。
しかし、人間は強い。いや、人間一人ひとりが強いのではない。狸たちがいくら人間を驚かせても、ブルドーザーは翌日にはまた動き出す。工事を止めても、別の業者がやってくる。死者まで出して決行した妖怪大作戦さえ、テーマパークの宣伝だと思われてしまう。狸たちが命懸けで起こした怪異まで、人間はあっという間に消費してしまうのである。
狸たちは敗れる。山は削られ、団地が建ち、道路が通り、多くの人間たちがやってくる。化けることのできる狸は人間の姿になって人間社会に紛れ込み、化けられない狸たちはわずかに残された緑地で暮らしていく。
こうしてあらすじだけ書けば、「自然を破壊する人間」と「自然を守ろうとする狸」の物語に見える。しかし、そんな単純な話ではない。なぜなら、この映画を観て狸たちに同情している私たちの多くもまた、狸たちを追い出した側の人間だからである。
2.追い出した側の涙
私はこの映画が大好きである。
この映画に泣ける。DVDを買い求め、数年に一度は必ず観る。ラストシーンではかつての仲間たちが現れるとわかっているにもかかわらず、どうしてもドキドキしてしまう。その姿が見えた途端に私の涙腺は崩壊する。何度でも何度でもそれを繰り返す。
私は小学校高学年から中学校2年までの数年間、札幌市の真駒内に住んでいたことがある。真駒内は、戦後の札幌が膨張していく過程でつくられた街だ。1960年代から宅地開発が進み、1972年の札幌オリンピックを経て、大規模な住宅地へと姿を変えていった。私が真駒内に住んだのは、ちょうどそれが完成した頃だ。私はそこで、何の疑問も抱かずに楽しく過ごしていた。
しかしその場所は10年ほど前に、急激に開発された街だった。もちろん私自身が山を削ったわけではないのだから、責任を感じる必要はないのかもしれない。木を一本切ったわけでもない。ブルドーザーを運転したわけでもない。しかし、山を削り、森を切り開いてつくられた住宅地に住み、舗装された道路を歩き、新しくつくられた学校に通い、新しくできた商店で菓子を買った。私たち家族がそこで暮らすために、その土地にいた何者かが場所を明け渡したはずである。おそらく狸もいた。キツネもいた。鳥もいた。虫もいた。名前さえ知らない草木もあっただろう。
だから私は、いわば狸たちを追い出した側の人間である。
そして大人になった私は、「平成ぽんぽこ」を観て泣いている。
考えてみれば、ずいぶんと身勝手な話である。自分たちが住む場所が必要だったときには山を削った。森を切った。動物たちにはどいてもらった。それを「開発」と呼び、「発展」と呼び、「豊かさ」と呼んだ。ところが、自分たちの住む場所が確保され、生活が便利になり、もう山を削る必要がなくなった途端、今度は失われた自然を惜しみ始める。狸たちの立場に立って、人間とはなんと身勝手な生き物なのかと涙を流す。
しかし、おそらく『平成狸合戦ぽんぽこ』のおもしろさは、そこにある。
この映画には、人間を断罪して終わる単純さはない。狸たちに山を返せと言われても、そこにはすでに人間の生活がある。団地には家族が暮らし、学校には子どもたちが通い、商店では誰かが働いている。それらをすべて壊して森に戻せばよい、とも言えない。
人間は狸を追い出して生きてきた。
そして、そのことを忘れたころになって、追い出された狸を見て泣く。
私も、そして皆さんもその一人なのである。
