堀 裕嗣の辛口時評 HOLY’s Bar 一杯分だけ、話そうか。#28 「なくす」ことと「つくる」こと~終わりと始まりの1989年

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による連載28回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。
執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)
目次
1.壁が壁でなくなった日
1989年11月9日、ベルリンの壁が開いた。
私は23歳だった。
テレビには、壁の上に登った大勢の若者たちが映っていた。歓声を上げる。見知らぬ者同士で抱き合う。壁によじ登る。ハンマーやつるはしを手にコンクリートの壁を叩き始める者さえいる。何か、とんでもないことが起きている。そう感じたことを鮮明に覚えている。
ベルリンの壁がつくられたのは、1961年8月13日のことである。第二次世界大戦後、敗戦国ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四か国によって分割占領され分割統治された。やがてアメリカ、イギリス、フランスの占領地域から西ドイツが、ソ連の占領地域から東ドイツが成立する。ドイツは東西二つの国家に分かれた。
ややこしいのはベルリンだった。ベルリンは東ドイツの中にあったが、ベルリンもまた四か国によって分割占領されていた。このためベルリンそのものも東西に分かれ、西ベルリンは東ドイツの領域の中に浮かぶ西側の飛び地のような存在になった。東ドイツから西側へ移り住む人々は後を絶たなかった。そこで東ドイツ政府は1961年、東西ベルリンの境界を封鎖する。最初は有刺鉄線だったものが、やがてコンクリートの巨大な壁へと変わっていった。
ベルリンの壁である。
私が生まれたのは、その5年後だった。だから私にとって、ベルリンの壁は「つくられたもの」ではない。物心ついたときには、既にそこに「ある」ものだった。世界にはアメリカとソ連という二つの超大国がある。アメリカを中心とする西側と、ソ連を中心とする東側が対立している。ドイツは東ドイツと西ドイツに分かれている。ベルリンには壁がある。そういうものだった。
子どもの頃、世界地図を見て「どうしてドイツは二つあるのだろう」と不思議に思った記憶はある。しかし、二つあること自体を疑ったことはない。大人になれば一つになるとも思わなかった。
東西冷戦も同じだった。アメリカとソ連は対立するものだった。米ソは大量の核兵器を持ち、互いにそれを相手へと向けている。核戦争になれば人類が滅びるかもしれない。そんな話を、私たちの世代は子どもの頃から何度も何度も聞いてきた。しかし、それを毎日恐れて暮らしていたわけではない。むしろ逆だった。あまりにも長く続いていたから、それが世界の普通の姿になっていたのである。
ところが1989年11月9日、その「普通」が突然動いた。
この日、東ドイツ政府は国外旅行に関する規制を緩和する新しい方針を発表した。記者会見で、いつから新しい規則が発効するのかと問われた政治局員ギュンター・シャボウスキーは、手元の文書を確認しながら「私の知る限り、直ちに、遅滞なく」と答えた。この発言がテレビで報じられた。東ベルリンの市民たちは「国境が開かれる」と受け取り、検問所へ押し寄せた。ところが、現場の国境警備隊には十分な指示が届いていなかった。市民はどんどん増えていく。追い返すこともできない。かといって、壁を越えようとする市民に発砲するわけにもいかない。ついに検問所が開かれた。東ベルリンの市民たちが西ベルリンへなだれ込んだ。西側の人々が彼らを迎える。抱き合う。笑う。泣く。酒を飲む。壁の上に登る。そして誰かが、壁を叩き始める。
あの映像である。
正確に言えば、この日のうちにベルリンの壁そのものがなくなったわけではない。壁はまだ立っていた。本格的な撤去はその後のことである。しかし、壁はもう人々を隔てることができなかった。壁はそこにある。しかし、もう、壁ではない。そんな不思議な光景を、23歳の私はテレビで見ていた。
いま振り返れば、ベルリンの壁が開いたことが、どれほど複雑な国際政治の積み重ねの上に起こった出来事だったのかはわかる。しかし、当時の私にそんなことがわかるはずもない。ただ、興奮した。子どもの頃からずっと変わらないと思っていたものが、目の前で壊れている。世界というものは変わるのだ。そんな当たり前のことを、初めて実感したような気がした。
実は、1989年という年には、そんなことが何度も起こっていた。
日本でも世界でも、「ずっと続く」と思っていたものが次々と終わっていたのである。
2.すべてが終わった1989年
1989年は、昭和64年として始まった。1月7日、昭和天皇が崩御した。87歳だった。翌8日、元号は「平成」に変わった。
昭和が終わった。私は22歳だった。もちろん、昭和という時代がいつか終わることはわかっていた。しかし、自分が生まれ育った時代には最初から「昭和」という名前がついていた。それが突然、昨日までの時代の名前になった。とても奇妙な感覚だった。テレビから流れてくる「昭和最後の日」「平成最初の日」という言葉を聞きながら、自分が歴史の境目に立っているような気がした。
この年には「昭和」を形づくってきた人々も次々と世を去った。
2月9日、手塚治虫が亡くなった。60歳。『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』。手塚の漫画をどれほど読んだかは人によって違うだろう。しかし、手塚治虫を知らない日本人はほとんどいなかった。
6月24日には、美空ひばりが亡くなった。52歳。私は美空ひばりを熱心に聴いて育った世代ではない。それでも、「美空ひばり」という名前は知っていた。母が同い年でファンだったので、我が家にあるベスト盤の曲はすべて知っていた。彼女が亡くなったとき、テレビが大きく報じたこともよく覚えている。11月6日には、松田優作が亡くなった。
40歳だった。『太陽にほえろ!』のジーパン刑事。「なんじゃこりゃ~!」という最期の場面は、ドラマをきちんと見ていない人まで知っていた。松田優作もまた、出演作品を見ているかどうかとは別に、みんなが知っている俳優だった。
昭和天皇が亡くなり、手塚治虫が亡くなり、美空ひばりが亡くなり、松田優作が亡くなった。いま振り返ると、ずいぶん多くのものが一度に昭和の向こう側へ去っていった年だったように思う。
そして、変わっていたのは日本だけではなかった。
2月15日、ソ連軍がアフガニスタンからの撤退を完了した。ソ連がアフガニスタンへ軍事介入したのは1979年12月である。以来、10年近くにわたって戦争が続いていた。アメリカをはじめとする西側諸国はこれに強く反発し、1980年のモスクワオリンピックでは日本やアメリカなどが参加をボイコットした。その4年後のロサンゼルスオリンピックでは、今度はソ連をはじめとする東側諸国が参加しなかった。オリンピックにさえ、アメリカとソ連の対立が入り込んでいた。私たちの世代にとって、冷戦とは教科書に載っている過去の出来事ではない。オリンピックに出るはずだった選手が出られなくなるような、目の前の現実だった。
そのソ連がアフガニスタンから撤退した。世界が少しずつ変わり始めているように見えた。しかし、1989年が平和一色の年だったわけではない。
6月4日、中国・北京で天安門事件が起きた。民主化を求めて天安門広場周辺に集まっていた学生や市民に対し、中国政府が人民解放軍を投入した。戦車が街に入っていく。銃声が響く。多くの死傷者が出た。
そして翌日、世界中のテレビに一つの映像が流れた。戦車の列の前に、一人の男が立っている。戦車が右へ動けば男も右へ動く。左へ動けば男も左へ動く。名前もわからない一人の人間が、巨大な国家権力を象徴する戦車の前に立ちはだかっていた。あの映像もまた、1989年だった。だから、あの年を「自由と民主主義が勝利した年」ときれいにまとめてしまうことはできない。北京では民主化を求める人々が弾圧された。
一方、ヨーロッパでは、社会主義体制がものすごい勢いで崩れ始めていた。6月、ポーランドで事実上の自由選挙が行われ、反体制勢力「連帯」が圧勝する。夏から秋にかけて、ハンガリーはオーストリアとの国境を開いていく。すると東ドイツの市民たちが、ハンガリーを経由して西側へ脱出し始めた。10月には東ドイツ各地で大規模な民主化要求デモが起こる。そして11月9日、とうとうベルリンの壁が開く。
その後も止まらない。11月、チェコスロバキアで「ビロード革命」が始まる。12月にはルーマニアでチャウシェスク政権が崩壊する。数か月前まで世界地図にしっかりと引かれていた線が、次々と意味を失っていった。私はニュースを見るたびに驚いていた。昨日まで絶対に変わらないと思っていたものが、今日には変わっている。
そして12月2日。
ベルリンの壁が開いてから23日後、地中海のマルタ島沖で、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長が会談した。
翌3日まで続いた「マルタ会談」である。
第二次世界大戦後、40年以上にわたって世界を二分してきたアメリカとソ連。その二つの超大国の首脳が向き合い、東西冷戦は終結へ向かうことを世界に印象づけた。
ベルリンの壁は開いた。東欧の社会主義政権は次々と崩れている。ソ連はアフガニスタンから撤退した。そしてアメリカとソ連の首脳が握手している。そして昭和も終わっていた。
何もかもが終わっていくように見えた。
しかし、それは決して暗い「終わり」ではなかった。
古いものが終わり、新しいものが始まる。少なくとも23歳の私にはそう見えた。冷戦が終わる。米ソ対立が終わる。東西を隔てていた壁もなくなる。だったらもう、大きな戦争なんて起こらないんじゃないか。いま考えれば、ずいぶん単純である。しかし、あのときは本当にそう思った。
これで世界は平和になる。
1989年12月3日。そんな未来を信じることができた。
ところがそれから、わずか17日後のことだった。
3.世界が平和になると信じた41日間
1989年12月20日、アメリカ軍がパナマへ侵攻した。
マルタ会談から、わずか17日後のことだった。アメリカは約2万数千人の兵力を投入した。目的は、パナマの最高実力者マヌエル・ノリエガ将軍を排除することだった。
ノリエガは、もともとアメリカと深い関係をもっていた人物である。中米における反共政策の中で、アメリカの情報機関とも協力関係にあった。しかし、やがて麻薬取引への関与などをめぐって両者の関係は悪化する。アメリカの大陪審はノリエガを麻薬密輸などの罪で起訴し、ブッシュ政権はその排除に動いた。
そして12月20日、アメリカ軍は「ジャスト・コーズ作戦」を開始した。空から兵士が降下する。戦車が走る。建物が炎上する。市街地で銃撃戦が起こる。テレビには、つい数週間前とはまったく違う映像が流れていた。
11月9日、ベルリンでは人々が壁の上で歓声を上げていた。
12月3日、マルタではアメリカとソ連の首脳が冷戦の終結を世界に印象づけていた。
そして12月20日、今度はアメリカ軍が一つの国へ攻め込んでいる。
私は落胆した。世界は平和になると思っていたからである。もちろん、いま考えればずいぶん短絡的な話だ。冷戦が終わることと、戦争がなくなることは同じではない。アメリカとソ連が直接対峙しなくなっても、国家間の利害は残る。領土をめぐる争いもある。民族や宗教をめぐる対立もある。資源をめぐる争いもある。一つの巨大な対立が消えたからといって、人間社会から対立そのものが消えるはずはない。
しかし、当時の私はそんなふうには考えていなかった。東西冷戦こそが、世界を危険なものにしている。アメリカとソ連が大量の核兵器を向け合っているから、世界はいつ破滅するかわからない。だったら、その対立がなくなれば、世界は平和になる。そんな単純な図式を、どこかで信じていた。
おそらく私だけではなかったと思う。ベルリンの壁の上で人々が抱き合う映像には、それを信じさせるだけの力があった。壁がなくなる。国境が開く。敵だった者同士が握手する。世界は、争う方向から共存する方向へ動き始めた。そう見えたのである。
ところが、パナマでは違った。ノリエガ政権にどれほど問題があったとしても、アメリカ軍が他国の領土へ入り、軍事力によってその国の最高実力者を排除するという出来事が目の前で起きている。戦争は終わっていなかった。それどころか、後から振り返れば、世界は別の種類の戦争へ向かい始めていた。
翌1990年8月、イラク軍がクウェートへ侵攻した。そして1991年1月、湾岸戦争が始まる。今度はアメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍を攻撃した。この戦争もまた、私たちの世代には強烈な映像として記憶されている。夜空を飛んでいく光。爆発する建物。テレビ画面に映し出される照準。戦争そのものが、テレビ中継されているように見えた。ベルリンの壁が開いてから、まだ一年余りしか経っていなかった。
その後も戦争はなくならなかった。旧ユーゴスラビアでは凄惨な紛争が続いた。2001年にはアメリカ同時多発テロが起こり、その後アフガニスタン戦争、イラク戦争へと続いていく。21世紀に入っても、世界から戦争が消えることはなかった。
私たちは1989年に、一つ勘違いをしていたのかもしれない。「冷戦が終わる」ということを、「争いが終わる」ということと取り違えていた。
そしてもう一つ。平和というものを、戦争や対立を取り除いたあとに自然に残るものだと思っていた。
戦争がなくなれば、そこに平和がある。
敵がいなくなれば、そこに平和がある。
壁を壊せば、その向こう側に平和がある。
しかし、どうやらそうではなかった。
平和は、争いを取り除いたあとに残る「残り物」ではない。
ベルリンの壁が開いてから41日。世界が平和になると信じることのできた、短い時間だった。
4.壁を壊したあとの世界
いま思うと、1989年の私たちは、一つの大きな勘違いをしていた。冷戦がなくなれば平和になる。壁がなくなれば人々は自由になる。対立の原因を取り除けば、その反対側にある望ましい状態が自然に現れる。そんなふうに考えていた。
しかし、ベルリンの壁が崩れた後に、平和が自動的にやって来たわけではなかった。東西冷戦という巨大な対立構造がなくなっても、国家間の利害は残った。民族や宗教をめぐる対立も残った。領土をめぐる争いも残った。むしろ冷戦という大きな枠組みによって抑え込まれていた対立が、別の形で表面化した地域さえあった。つまり、「悪いものがなくなること」と「よいものが生まれること」は同じではないのである。
これは学校について考えるときにも、意外に重要な視点ではないかと思う。
学校改革には、「なくす」という言葉がよく登場する。校則をなくす。宿題をなくす。定期テストをなくす。教師による管理をなくす。過度な競争をなくす。男女を分ける慣習をなくす。いじめをなくす。不登校をなくす。
もちろん、なくした方がよいものはある。時代に合わなくなった校則を、昔からあるというだけの理由で残しておく必要はない。教育的な意味を失った宿題や行事を続ける必要もない。教師が子どもを必要以上に管理することも子どもの自律を妨げる。
だから、私は「なくす改革」を否定したいのではない。
問題は、そのあとである。
たとえば、校則をなくしたとする。では、その瞬間に子どもたちは自律するのだろうか。そんなはずはない。「これをしてはいけない」と教師から言われなくなることと、「では自分はどう振る舞うべきなのか」を自分で判断できることとの間にはかなり大きな距離がある。
教師による管理を弱めることも同じである。教師が決めなくなれば、子どもたちが自治を始めるわけではない。教師が退いた場所に、子どもたち自身の話し合いや合意形成の仕組みが生まれなければ、そこを別の力が埋める。声の大きな子が決めるかもしれない。人間関係の強いグループが決めるかもしれない。あるいは、誰も何も決めなくなるかもしれない。教師の支配がなくなった場所に、子どもの自治が自動的に現れるわけではないのである。
競争もそうだ。競争をなくせば協働が生まれるわけではない。順位をつけない。勝ち負けをなくす。他人と比べない。それによって過度な競争から子どもを解放することはできるかもしれない。しかし、競争しなくなった子どもたちが、自然に力を合わせ始めるわけではない。互いに干渉せず、それぞれが自分のことだけをする集団になる可能性だってある。
いじめについても同じことが言える。「いじめのない学級」はもちろん必要である。しかし、いじめがないこととよい人間関係があることは同じではない。誰も誰かを攻撃しない。誰も誰かを排除しない。しかし、誰も他人に関心をもたない。困っている者がいても声をかけない。休んだ者がいても気にしない。そんな学級にも、表面的ないじめはないかもしれない。いじめをなくすことと人と人とのつながりをつくることは、別の仕事なのである。
ここに、学校改革について考えるときの一つの落とし穴がある。
私たちは、何かをなくすことによって、その反対側の価値が生まれると思い込みやすい。管理をなくせば自律が生まれる。規則をなくせば自由が生まれる。競争をなくせば協働が生まれる。いじめをなくせばよい人間関係が生まれる。しかし、そんな保証はどこにもない。
管理と自律は反対語ではない。規則と自由も単純な反対語ではない。競争と協働も同様である。いじめがないことと人間関係が豊かなことも別の問題だ。悪い状態を取り除くこととよい状態をつくることとの間には、「空白」がある。教育が本当に考えなければならないのは、その空白をどう埋めるかなのだと思う。
校則をなくすなら、そのあとに子どもが自分で判断するための経験をどうつくるのか。教師が決めることを減らすなら、そのあとに子どもたちが話し合い、折り合いをつけ、決定する仕組みをどうつくるのか。競争を減らすなら、他者と力を合わせる必要のある仕事をどうつくるのか。いじめをなくそうとするなら、「してはいけない」と教えるだけでなく、人と関係を結び直す力をどう育てるのか。
「なくす改革」と「つくる教育」は、別物なのである。
改革には、壊す対象が見える。だからわかりやすい。この校則をなくした。この行事をなくした。この制度を廃止した。数字にもできるし成果として語りやすい。
しかし、教育はそのあとも続く。なくなった場所に何が生まれたのか。子どもたちは以前より自分で判断するようになったのか。以前より他者と話し合えるようになったのか。以前より自分たちの生活を自分たちでつくれるようになったのか。本当は、そこまで見なければ改革を評価したことにはならない。
1989年11月9日。ベルリンの壁の上で人々は歓声を上げていた。ハンマーを振り下ろし壁を壊した。23歳の私は、その映像を見ながら、これで世界は平和になるのだと思った。壁を壊せば、その向こう側に平和が待っているような気がしていた。
あれから37年が経った。
いまなら少しわかる。
壁を壊すことと、壁のない世界をつくることは、まったく別の仕事なのだ。
今夜は、この一杯。
電気ブラン
明治の頃から浅草で飲み継がれてきたリキュール。神谷傳兵衛が明治26年頃につくったとされる。ブランデーをベースにした琥珀色の酒だが、その処方はいまだに秘伝だという。現在は30度と40度がある。ほのかな甘味のあとに、舌をピリッと刺激する独特の辛さがやってくる。
電気ブランという名前がいい。明治の頃、「電気」は新しいもの、珍しいものの象徴だった。いまとなってはむしろ、この名前から古き良き東京を感じてしまうのだからおもしろい。小さなグラスでストレートでちびちび舐めるように飲むのも良し。ロック、ソーダ割も良し。甘く、辛く、薬草のような香りもする。いまどきの洗練された酒とはちょっと違う。しかし、それがいい。
そして電気ブランを飲んでいると、どうしても浅草が浮かんでくる。神谷バー。浅草寺。雷門。人力車。観光客でごった返す仲見世。その一方で、一本裏へ入れば昔からの東京がまだ残っている。酒には、その土地で飲んだ方が旨い酒がある。北海道で飲む余市。沖縄で飲む泡盛。そして浅草で飲む電気ブラン。
家で飲んでももちろん旨い。でも、この酒だけは一度、浅草で飲んでほしい。電気ブランは酒というより、浅草の味である。
堀裕嗣先生も特別寄稿!ムック「教育技術小一~小六」、発売中です!


<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。筆者のnote→https://note.com/hirotsugu1966

