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堀 裕嗣の辛口時評 HOLY’s  Bar 一杯分だけ、話そうか。#27 かつて、「恋愛結婚の時代」があった~婚活アプリと人生の予定表

連載
堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣
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教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による連載第27回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。

執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1.二つの見合い結婚

1947年11月6日、東京の多摩川河畔に見知らぬ男女が集まった。男も女も、目的は同じだった。

結婚相手を探すためである。

この日、結婚紹介雑誌『希望』が主催する「集団お見合い」が開かれた。参加したのは20歳から50歳までの男女386人。戦争によって婚期を逃した人たちに出会いの機会を提供しようと企画されたものだった。

敗戦からまだ二年しか経っていない。東京には空襲の傷痕が残り、住宅も食糧も十分ではなかった。戦地から帰ってきた人がいる一方で、帰ってこなかった人もいる。戦争によって家族を失った人もいる。現在の私たちが結婚について考えるとき、その前提として思い浮かべるような「安定した生活」が、まだ十分に戻っていない時代である。

そこには、386人が集まった。

もちろん、そこに集まった人々がどんな思いを抱いていたのか、一括りにすることはできない。家庭を持ちたかった人もいただろう。一人で生きていくことに不安を感じていた人もいただろう。誰かを好きになりたかった人もいたかもしれない。ただ少なくとも、彼らはこれから先の人生をともに生きる誰かと出会うために、多摩川河畔までやって来たのである。

この集団お見合いには、なかなか興味深い仕組みがあった。参加者は会場で相手を探し、終了後、気になる相手について最高三人まで身上書を申し込むことができたという。

考えてみれば、不思議な光景である。

結婚を望んでいる男女を一か所に集める。その中から気になる人を探す。相手についてもっと知りたいと思えば、その人の身上書を取り寄せる。

ところが、この仕組みを「古い」と笑うことが、現代人にはできない。できるはずもない。なぜなら、現代の若者がいま、よく似たことを毎日、スマートフォンの中でやっているからである。

婚活アプリを開く。そこには、結婚を望む人たちが集まっている。年齢、居住地、職業、趣味などのプロフィールを見る。サービスによっては学歴や年収、結婚歴、子どもを望むかどうかといった情報まで登録されている。利用者はそこから、自分が会ってみたいと思う相手を探す。

1947年には、386人の男女が多摩川河畔に集まった。

2026年には、それとは比較にならない数の男女がスマートフォンの画面の中に集まっている。

もちろん、両者は同じではない。1947年の男女は実際に一つの場所に集まり、相手の姿を見ながら気になる人を探した。現在の婚活アプリでは、まず画面に表示されたプロフィールを見て、相手を選ぶ。多くのサービスでは、双方が相手に関心を示して、初めてやり取りが始まる。しかし、「結婚相手を探す」という目的を持った人々が集まり、その中から候補となる相手を選ぶという構造だけを取り出せば、両者は驚くほどよく似ている。

でも少し、妙な感じもする。というのも、私たちは戦後、日本人の結婚は「見合い結婚」から「恋愛結婚」へと移り変わってきたと考えてきた。親や親戚、職場の上司などが結婚相手を紹介する時代が終わり、自分で好きになった人と結婚する時代になったと。誰と結婚するかは本人が決める。それは戦後の日本人が手に入れた自由の一つでもあった。実際、見合い結婚は大きく減り、恋愛結婚が圧倒的多数を占めるようになった。その数字については後で詳しく見る。

ところが、見合い結婚がほとんど姿を消したあとになって、結婚相手を探している人だけが集まる場所が、もう一度現れた。言うまでもなく婚活アプリである。しかも、そこに集まる人数は1947年の386人とは比較にならない。だとすれば、一つ疑問が湧いてくる。

婚活アプリによる結婚は、本当に「恋愛結婚」なのだろうか。

もちろん、婚活アプリで知り合った二人も恋愛をする。メッセージを交換し、実際に会い、何度も時間をともにし、相手を知り、好きになって結婚する。だから、婚活アプリで始まった関係を恋愛ではないと言いたいのではない。

私が気になるのは、その前である。

婚活アプリでは、まず条件を設定する。年齢はこのくらい。住んでいる場所はこの範囲。仕事はどうか。収入はどうか。結婚歴はどうか。子どもについてどう考えているか。自分がこれからどのような人生を送りたいのかを考え、その人生に合いそうな相手を探す。

そして、条件から大きく外れた人は、そもそも候補にならない。

嫌いになるわけではない。会わないのである。いや、会わないどころか、表示されず、認知さえされないのだ。ここに、かつての恋愛結婚との大きな違いがあるように思う。

学校で同じクラスになった。職場で隣の机になった。部活動で一緒になった。友人が連れてきた。最初は何とも思っていなかった。それどころか、「この人はタイプじゃない」とさえ思っていた。それでも毎日顔を合わせる。話をする。一緒に笑う。仕事をする。失敗するところを見る。誰かに優しくしているところを見る。そうやって日常を一緒に過ごしているうちに、ある日、自分でも予想していなかった感情が起動する。

気づいたら好きになってた。

恋愛とは本来、そういう地点に始まっていたのではなかったか。

自分がどんな人を好きになるのかを、人は自分であらかじめ知っているわけではない。「こういう人がタイプだ」と言っていた人が、まったく違うタイプの人を好きになる。自分なら絶対に選ばないと思っていた人といつの間にか一緒に暮らしている。好きになる予定ではなかった人を好きになる。恋愛には、そんな予定外があった。

とすれば、戦後80年、日本人の結婚史にこれまでとはちょっと違った風景が見えてくる。

かつて、見合い結婚の時代があった。

やがて、恋愛結婚の時代が来た。

そして現在、婚活アプリというまったく新しい技術が普及し、再び「結婚するために相手を探し、選んでから出会う」という結婚へ戻りつつある。要するに見合い結婚だ。

二つの見合い結婚の間に、「恋愛結婚」という時代が挟まっている。

そんなふうにも見えるのである。

2.「感情」より「頭」の時代

日本人の結婚は、この80年間でどのように変わってきたのだろう。

国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」に、結婚年次別に「恋愛結婚」と「見合い結婚」の割合を追った有名なグラフがある。二本の線が、戦後を境にきれいに交差していくグラフである。

「恋愛結婚」と「見合い結婚」の割合グラフ

戦前、日本人の結婚の約7割は見合い結婚だった。ところが敗戦後、その割合は急速に低下していく。1945~49年に結婚した夫婦では、恋愛結婚が21.4%、見合い結婚が59.8%。1950~54年には恋愛33.0%、見合い54.0%。1960~64年には恋愛41.1%、見合い49.8%となる。

そして1965~69年、恋愛結婚48.6%、見合い結婚44.9%。ここで逆転する。

その後、差は一気に開いていく。1970~74年には恋愛結婚61.5%、1980~84年には72.6%、1990~94年には84.8%。2000年代に入ると恋愛結婚は9割近くを占めるようになり、2010~14年には87.9%、見合い結婚は5.3%になった。

数字だけを見れば、戦後日本の結婚史は実にわかりやすい。見合い結婚が減った。恋愛結婚が増えた。そして恋愛結婚が勝った。私たちは長い間、そう考えてきた。

しかも、この変化は単なる「出会い方」の変化ではなかった。誰と結婚するのかを親や周囲に委ねるのではなく、自分で決めるようになったという意味で、それは戦後日本における個人の自由の拡大でもあった。

ただ、もう少し細かく見てみると、興味深いことがわかる。恋愛結婚の時代を支えていたのは、必ずしも「自分で結婚相手を探すこと」ではなかったのである。2015年の同じ調査を見ると、夫婦が知り合ったきっかけで最も多かったのは「友人・兄弟姉妹を通じて」の30.8%だった。次いで「職場や仕事で」が28.2%、「学校で」が11.7%。この三つだけで約7割にのぼる。

考えてみれば、どれも結婚相手を探すための場所ではない。学校へ行くのは結婚相手を探すためではない。会社へ行くのもそうだ。友人と付き合うのも、本来は結婚相手を紹介してもらうためではない。

そこに相手がいたのである。

自分が選んだわけではない相手がいた。

同じ教室にいる。同じ職場で働く。同じ友人と付き合っている。その結果として、何度も顔を合わせる。最初は名前しか知らなかった人が、少しずつ「その人」になっていく。だから、恋愛結婚の時代に「自由になった」のは、実は出会いではなかったのかもしれない。出会いのかなりの部分は偶然だった。自由になったのは、その偶然に出会った人を好きになり、その人と結婚するかどうかを自分で決めることだったのである。

ところが21世紀に入り、その構造が変わり始める。

国立社会保障・人口問題研究所が2021年に実施した第16回出生動向基本調査では、2018年7月から2021年6月までに結婚した夫婦について、13.6%がSNS、ウェブサイト、アプリなど「ネットで」知り合っていた。職場や友人を介した出会いが減る一方で、それまでほとんど存在しなかった出会い方が急速に大きくなってきたのである。

そして、その後の変化はさらに速い。2025年5月、ナイル株式会社が20~39歳の既婚男女2,143人を対象に行った調査がある。それによると、回答者全体では、結婚相手との出会いが「職場・仕事」だった人が24.4%、「マッチングアプリ」が17.5%、「友人・知人の紹介」が16.7%だった。

ところが、結婚した時期を直近に限定すると、数字がまったく違ってくる。2024年5月以降に結婚した人では、配偶者とマッチングアプリで出会った人が33.3%に達していた。三組に一組である。  https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000587.000055900.html?utm_source=chatgpt.com

もちろん、この数字をそのまま日本人全体の結婚に当てはめることはできない。対象は20~39歳に限定された民間調査であり、国立社会保障・人口問題研究所の調査とも対象や質問方法が異なる。「2021年の13.6%が2025年には33.3%になった」と単純に比較することもできない。しかし、結婚相手との出会いに婚活・マッチングアプリが大きな位置を占めるようになったことまで否定するのは難しいだろう。

ここで、先ほどの歴史をもう一度眺めてみたい。

戦前には見合い結婚が約7割を占めていた。1960年代後半に恋愛結婚が見合い結婚を逆転した。1970年代から2000年代にかけて、恋愛結婚が圧倒的多数になった。そして2020年代、結婚相手を探すためにつくられたデジタル空間で出会う人が急速に増えている。そう考えると、私たちが当然のものだと思ってきた「恋愛結婚の時代」は、歴史の中では案外短い時代だったのかもしれない。

もちろん、ここで注意しなければならないことがある。統計上、婚活アプリによる結婚は「見合い結婚」には分類されない。アプリで出会った二人が恋愛を経て結婚する以上、それを恋愛結婚と呼ぶことにも何の不思議もない。

しかし、本稿で私は、統計上の分類とは少し違った角度から考えてみたい。

見合い結婚では、結婚を考えてから相手と出会う。恋愛結婚では、相手と出会い、好きになってから結婚を考える。そして婚活アプリでは、再び結婚を考えてから相手と出会う。

順序が変わったのである。

前者では、「感情」が先に走り出す。後者では、「頭」が先に未来を値踏みする。

3.「しあわせ未満」の恋愛論

この違いを考えていたとき、私は一曲の古い歌を思い出した。

1977年に太田裕美が歌った「しあわせ未満」である。

音源:https://www.youtube.com/watch?v=KFVbLXzpBQs
歌詞:https://www.uta-net.com/song/2381/

作詞は松本隆、作曲は筒美京平。太田裕美が22歳のときに歌った曲である。

私はこの歌が大好きだった。レコードも持っていた。擦り切れるほど聴いた。当時、私は11歳。小学校5年生だった。11歳年上の太田裕美はあまりに美しく、可憐だった。

それでも、この歌に描かれた二人の暮らしに、妙に憧れた。金はない。男はもてない。女は面喰いなのに、なぜかその男と一緒にいる。立派な家があるわけでもない。将来が保証されているわけでもない。それでも二人で暮らしている。

子ども心に、私は思っていた。

僕の人生も、こういうのでいい。

いま考えると、ずいぶん変な11歳である。

しかし、50年近く経って改めてこの歌を聴くと、なぜ私があれほど惹かれたのか、少しわかるような気がするのだ。この歌の二人には、「条件」も「値踏み」もないのである。

それどころか、この歌は「条件」というものを、少し嗤っているようにさえ聞こえる。

彼女は「面喰い」なのに、選んだ相手は「もてないぼく」である。自分ではこういう男が好きだと思っている。しかし、実際に好きになった男はそこから外れている。頭で考えていた「好み」と、実際に動いた「感情」が一致しない。恋愛とは、ときに自分自身が設定した条件を裏切るものだったのだ。

私は前に、「好きになる予定ではなかった人を好きになる」と書いた。「しあわせ未満」の二人は、まさにその世界に生きている。少なくとも歌の中の男には、なぜ彼女が自分を選んだのかがよくわかっていない。彼女に訊いたところで、うまく説明できないのかもしれない。好きになったから。それだけである。そして、この「説明できなさ」は、恋愛にとって至極大切なものだったのではないかと思う。

婚活アプリでは、出会う前に相手についてかなりの情報を得ることができる。年齢、職業、収入、学歴、居住地、趣味、結婚歴。サービスによっては、子どもを望むか、共働きをどう考えるか、家事をどう分担したいかといったことまで登録されている。

もちろん、これは便利だ。結婚してから「こんなはずじゃなかった」と気づくより、最初から自分と相手の価値観をすり合わせておいたほうがいい。人生を左右する相手なのだから、慎重になるのも当然である。

しかし、である。

それは「恋愛」ではない。少なくとも私たちの世代にとって、それは「恋愛」とは呼ばない。

婚活アプリ婚には二つの考え方が潜んでいるように思う。

一つは「スペック主義」である。相手をいくつかの条件によって捉え、その条件が自分の希望に合っているかどうかで判断する。年齢はどうか。仕事はどうか。収入はどうか。学歴はどうか。住んでいる場所はどうか。もちろん、人間がそんな項目だけでできているわけではない。それでも、アプリという仕組みの中では、まず人間を項目に分解する。そうしなければ検索することができないからだ。

そして、条件に合わない人は候補から外れる。ここで重要なのは、その人を嫌いになったわけではないということだ。好きにならないのではない。好きになる機会がないのである。

もう一つは「見通し主義」である。私にはむしろ、こちらの方に現代という時代の特徴が強く表れているように思われる。

この人と結婚したら、どこに住むことになるのか。共働きになるのか。子どもを持つのか。家事や育児はどう分担するのか。現在の収入はいくらで、これからどの程度増えていきそうなのか。親の介護はどうなるのか。自分は仕事を続けられるのか。つまり、相手の現在を値踏みするだけではない。相手の未来まで値踏みするのである。

もちろん、これも悪いことではない。むしろ結婚を真剣に考えれば考えるほど、当然考えなければならないことばかりだ。人生を失敗したくない。離婚したくない。経済的に困りたくない。仕事を諦めたくない。子育てで後悔したくない。だからできるだけ多くの情報を集め、これから起こりそうなことを予測し、自分に合った相手を選ぶ。

だが、ここまで来ると、婚活アプリが象徴しているものは、単なる「出会い方の変化」ではないように思えてくる。人生をできるだけ見通したいのである。もっと言えば、人生を自分の頭で制御したいのである。

これはかなり不思議な欲望である。結婚ほど見通しの利かないものもないからだ。

いま収入の高い人が10年後にも高いとは限らない。健康な人が病気になることもある。会社がなくなることもある。親の介護が始まることもある。子どもが生まれるかもしれないし、生まれないかもしれない。転勤するかもしれない。仕事を辞めるかもしれない。そして何より、自分自身が10年後、いまと同じことを望んでいる保証などどこにもない。

人生は、本来かなり予測不能なものである。

にもかかわらず現在の婚活では、人生の中でも最大級に予測不能な選択である結婚を、できるだけ予測可能なものにしようとしている。そこにあるのは、「人生の予測可能性」への欲望に他ならない。

失敗しないように条件を設定する。遠回りしないように候補を絞る。自分が望む未来から逆算して、現在の相手を選ぶ。偶然を減らし、想定外を排除し、自分の人生をできるだけ予定通りに進めようとする。

しかし、「しあわせ未満」の二人は、そんなところにはいない。未来が見えたから一緒になるのではない。一緒になったから、未来を探すのである。私は11歳のとき、その生き方に憧れたのだ。そしてそれを、美しく可憐な太田裕美が歌った。

4.「予定表」になった人生

「見通し主義」は結婚だけの話ではない。むしろ婚活アプリは、人生まで予定表にしようとする時代に、現代人の欲望を最も凝縮した形で示す象徴なのかもしれない。

例えば、学校では子どもたちに将来の夢を考えさせる。どんな仕事に就きたいか。どんな大人になりたいか。そのためにはどんな学校へ進めばいいか。何を勉強すればいいか。どんな資格を取ればいいか。将来の自分を思い描き、そこから逆算して、いま何をすべきなのか。キャリア教育はその典型である。

将来について考えることは悪いことではない。何の見通しも持たずに生きろと言いたいのでもない。目標を持つことで頑張れることもあるし、準備しておかなければ開かない扉もある。

しかし、現代人はいつの間にか、「未来を考えること」と「未来から現在を決めること」とを同じものだと考えるようになった。将来こうなりたい。だから、この学校へ行く。この資格を取る。この仕事を選ぶ。この町に住む。このくらいの収入を得る。そのためには、いま何をすべきか。

そして結婚についても同じことをする。このような人生を送りたい。だから、それに適した相手を探す。

未来から現在を逆算するのである。

しかし、実際の人生は、そんなに行儀よく進まない。

なるつもりのなかった仕事に就く。たまたま読んだ本に夢中になる。偶然出会った人に誘われて、それまで考えもしなかったことを始める。予定になかった町で暮らす。失敗したから別の道へ行く。そして、その別の道がいつの間にか自分の人生になる。おそらく多くの人が、自分の人生を振り返れば思い当たるはずだ。

現在の自分をつくったもののかなりの部分は、若いころの自分が立てた計画の成果ではない。予定外の出来事であり、想定外の出来事である。

にもかかわらず、現代人は人生から予定外を減らそうとしている。失敗しないように情報を集める。損をしないように比較する。遠回りしないように最短距離を探す。未来を予測し、そこから逆算して現在を選ぶ。

人生を間違えないために、人生から偶然を排除しようとする。

しかし、偶然を排除するということは、失敗の可能性を減らすだけではない。自分で選ばなかったものによって自分が変えられる可能性まで減らす、ということである。

恋愛結婚の時代には、学校や職場や友人関係の中に否応なく他人がいた。自分の条件に合うかどうかなど考える前に、その人と顔を合わせなければならなかった。好きではない人とも話した。気の合わない人とも仕事をした。その中から、ときに「好きになる予定ではなかった人」と恋に落ちた。

効率が悪い。ずいぶんと無駄も多い。しかし、その無駄の中でしか起こらないこともたくさんあった。

1947年11月6日、多摩川河畔に386人の男女が集まった。彼らは結婚するために、そこへやって来た。それから日本人は、見合い結婚の時代を抜け、恋愛結婚の時代を生きた。そして80年近くが経ち、人々は再び、結婚するためにつくられた場所に集っている。

今度の会場は、多摩川河畔ではない。

スマートフォンの中である。

1947年の人々は、集まった386人の中から相手を探した。2026年、婚活アプリの利用者たちは、画面の向こうにいる膨大な人たちの中から、条件を設定して相手を探す。ずいぶんと便利になったものである。ずいぶんと合理的になったものである。そして、ずいぶんと未来を見通せるようになったような気がしている。

ただ、その80年の途中に少し不思議な時代があった。結婚相手を探していなかった人が、結婚する相手と出会った時代である。

同じ教室にいた。

同じ職場にいた。

友人が連れてきた。

最初は何とも思っていなかった。

それなのに、気づいたら好きになっていた。  

私たちは、その時代を「恋愛結婚の時代」と呼んでいた。

Duvel Tripel Hop Citra

ベルギーのスペシャルビールDuvelに、アメリカ・ワシントン州ヤキマ・ヴァレー産のCitraホップを加えたBelgian IPA。通常のDuvelに使われる2種類のホップにCitraを加えた「Tripel Hop」である。アルコール度数はなんと9.5%。グラスに注いだ瞬間から柑橘の香りが立ち上がる。グレープフルーツ、ライム、トロピカルフルーツ。口に含むとまず爽やか。しかし、すぐにしっかりした苦みが追いかけてくる。それでいて9.5%という数字から想像するほど重たくない。だから怖い。旨い旨いと飲んでいるうちに、ちゃんと9.5%分だけ酔っ払う。

このビールは専用グラスで飲みたい。大きく膨らんだチューリップ型のDuvelグラスにゆっくり注ぐ。黄金色の液体の上に真っ白な泡。まず香りを愉しみ、泡ごと口に運ぶ。このグラスまで含めてDuvel Tripel Hop Citraなのだと思う。

私はふだんビールをほとんど飲まない。喉が渇いたからビールを飲もうと思うこともほとんどない。それでも、ときどきこいつは飲みたくなる。冷蔵庫から一本。棚から専用グラス。「とりあえずビール」ではない。今夜はDuvelを飲もう。そう決めて飲むビールである。

#27 お酒写真

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堀裕嗣先生

<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。筆者のnote→https://note.com/hirotsugu1966

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