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堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s  Bar 一杯分だけ、話そうか。#12  生成AI黎明期~教師の知性が問われる時代

連載
堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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堀 裕嗣 なら、ここまでやる!国語科の教材研究と授業デザイン

北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣
連載「一杯分だけ、話そうか。」バナー

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による新連載第12回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的、歴史的視野に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。

執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1.PC・スマホと知的生産

読者諸氏に考えていただきたいことがある。

私たち教師は、PCやスマホをどれだけ「知的生産」に使ってきただろうか。 

おそらく、PCは教師にとって、使い道としてはワープロの代わり(活字化)と表計算(事務仕事の効率化)が主であったと思われる。要するにルーティンワークをきれいに整えることと、ルーティンワークを効率的に処理すること、この二つである。実はこれらはあくまでルーティンワークの効率化であって、とても「知的生産」と呼べるものではない。

では、スマホはどうだろう。学校教育に活かしているのはせいぜい画像や映像の撮影くらいではないだろうか。もちろん、スマホで授業の様子を撮影したり子どもたちの映像素材を収集したりということは、スマホの登場でとても便利になった。しかし、それは教師の「知的生産」そのものを変えたというより、教師がこれまで行ってきた授業研究や特活推進の方法に、新しい道具が加わったという程度の変化ではなかったか。つまり、スマホは教師の「情報環境」を大きく変えたが、教師の「思考環境」まで変えたわけではなかったのである。

多くの教師たちにとって、PCはネットサーフィンをしたり画像や映像を観たりするもの、スマホは画像や映像を撮ったりコミュニケーションツールとして活用したりするもの、要するに「遊び」の領域で活かしているだけなのである。それどころか、昨年学校教育を揺るがした事件のように、「盗撮」に用いるなどという使い方さえなされていた。

そして、時代は生成AI時代。本当に生成AIは、これまでのPCやスマホとは一線を画し、教師の「知的生産」を根底から覆すほどの変化をもたらすのだろうか。

2.産業革命と知的生産

結論から言えば、生成AIもまた、「知的生産」ツールとしてはそれほど活用されないだろうと思う。というよりも、多くの教師が「知的生産」などというものとは無縁の日常を送っているのだから、「知的生産」に活用されるわけがないのだ。

生成AIによる技術革新は「第四次産業革命」と呼ばれることが多い。ここでこれまでの「産業革命」の経緯について考えてみよう。

「産業革命」の経緯 図

縦軸に「認知的」と「肉体的・感情的」、横軸に「ルーティン」と「クリエイティヴ」を置いてマトリクスを作成してみる。ここでは産業革命を、厳密な歴史区分としてではなく、人間の活動がどのように技術へと「外部化」されてきたかという観点から捉えてみよう。

すると、第一・二次産業革命(18~20世紀前半)は、言わば人間の肉体的なルーティン活動(第三象限)を「外部化」したことがわかる。鉄道の普及はそれまで歩いて移動しなくてはならなかった肉体的ルーティン労力を減らし、自動車と飛行機の普及はそれまでとは比較にならない移動距離を可能にした。蒸気機関の普及はそれまでの肉体的手作業を機械化し、石油によるエネルギー革命は人間の日常生活における肉体的労力を大幅に軽減するとともに、様々なプラスティック商品が人間の日常生活を著しく便利にした。

第三次産業革命(20世紀後半~)はコンピュータとインターネットによる革命である。第三次産業革命は「認知的」な「ルーティン」活動のかなりの部分を「外部化」した。文章の活字化を日常のものとし、活版の組版をつくることもタイプで打つこともなくなった。表計算ソフトは経理や人事評価のデータ計算を「外部化」し、ホワイトカラーのルーティンワークを著しく軽減した。

そこに現れたのが生成AIである。当初、第三次産業革命のイメージからか、生成AIが普及しても人間独自のクリエイティヴな営みは人間の役割として残り続けると考えられていた。しかし、状況は一変しつつある。人間的なクリエイティヴな作業は、生成AIの最も得意とするところだったのである。生成AIは石川啄木風の母の歌も夏目漱石風文体の小説も瞬時に創作する。ゴッホ風の静物画もルノアール風の人物画もお手のものだ。それどころか、人間独自の独創性と目されてきたホワイトカラーによる企画の立案や連絡調整も簡単にやり遂げる。そう。生成AIの最も得意とするところは、「認知的」にして「クリエイティヴ」な領域、つまりはこのマトリクスにおける第一象限だったのである。

昨今、生成AIの活用によって労働時間が1割になる、2割で済む、生産性が圧倒的に上がる、「まだ時間と労力を使って作業をしてるんですか?」とまことしやかに語る広告がはびこっている。しかしそれらに対して、「何言ってんだ。そんなことになったらお前自身がいらなくなるじゃん」と思うのは私だけではあるまい。

3.具体的な現場と知的生産

さて、このような状況において、生身の人間にはどのような仕事が残るのか。言い換えれば、人間にはできて、生成AIにできないことは何なのか。

まず、生成AIには一次情報を獲ることができない。ここでいう一次情報とは、政府機関などが公開する「一次資料」のことではない。公開された政策や報告書といった、すでに誰かによって整理され言語化された情報の更に手前にある、現場でしか獲得できない生の情報のことである。生成AIがインターネットを通じて取得できる情報は、どれほど公的なものであっても、すでに誰かによって記録され、編集され、公開された後の情報である。要するに加工品に過ぎないのだ。

例えば、政府が発表した政策について、生成AIはその政策の内容を知ることはできる。しかし、その政策が発表されるまでの過程で、政治家や官僚のどのような想いが錯綜し、誰と誰がどのような利害で対立し、どのような策略や駆け引きが横行したのかまでは知りえない。それらは、記者クラブで発表された政策資料を読むだけではわからない。政策の裏側について、関係者に直接会い、話を聞き、時には何度も足を運び、表情や言葉の端々まで観察しながら地道に取材し続ける記者によって、初めて記事になる。

つまり、AIが扱えるのは、誰かがすでに情報として獲得し、記録し、言語化した後の世界である。その手前にある、まだ情報になっていない現実を自ら獲りに行くことはできない。こうした動きは、AIにはできないのである。

また、生成AIには、個々人の背景を慮ったうえで、臨機応変に営業したりカウンセリングしたりすることは難しいだろう。もちろん、生成AIは個人に関する膨大な情報を与えられれば、それを整理し、その人に合わせた言葉を返すことはできる。しかし、「個々人の背景を慮って臨機応変に」という仕事は、単にその人に関する情報をたくさん持っていればできるものではない。目の前の相手が今どんな状態にあるのかを感じ取り、これまでの関係性を踏まえ、その場で対応を変えなければならないからである。

例えば教師なら、いつもなら注意するような子どもが宿題を忘れてきたとき、その日の表情や声の調子を見て、「今日は何も言わない方がいい」と判断することがある。その子の昨日までの様子や友人関係、これまでの言動などを知っているからこそできる判断である。そこには、情報として明確に説明できるものだけでなく、「今日は何か違うな」と感じる感覚、それ自体が含まれている。

こうしたことを考えれば、看護師、介護士、保育士などの感情労働を伴うエッセンシャルワークは、生成AIが不得意とする領域だとは言えそうである。我々教師においては、学級経営や生徒指導、教育相談活動におけるカウンセリング機能がこれに当たるかもしれない。

もう一つ、生成AIは肉体を使うことができない。また、五感を働かせて何某かを直接的に感受することもできない。このことが、昨今大きく見直されているブルーカラーの働きの強みともなっている。土木や建設の現場では、図面や施工手順を理解するだけでは仕事にならない。実際の現場に立ち、地形や天候、資材の状態などを見ながら、その場その場で判断して身体を動かす必要がある。微妙な傾きや手触り、音や匂いといった、数値や画像だけでは捉えきれない情報を五感で受け取り、それに応じて作業を変えることもある。

医療においても同じである。検査データを分析し、症状について膨大な知識を提示することと、患者の身体に直接触れ、顔色や呼吸の様子、声の調子などから異変を感じ取ることとは別の仕事である。こうした、現実の具体的な場に身体を置き、五感を働かせながら状況に応じて手を動かす技術的なエッセンシャルワークもまた、生成AIに外部化しにくい領域だろう。

つまり、人間に残された仕事は、「肉体的・感情的」でありつつ「クリエイティヴ」であるという、第四象限の仕事だけなのだということになる。

しかしこれらとて、現段階でのAIには難しいということでしかない。そう遠くない日に、未知の課題への応用力や自律的な問題解決能力を持つAGIが開発・普及し、さらにAGIを搭載したロボットまでが開発されれば、これらの仕事をも奪われるかもしれない。

4.生成AIと知的生産

私は先に、教師が生成AIを「知的生産」ツールとして活用することはないだろうと述べた。それは、教師が決して「知的」でもなければ「生産的」でもないからである。もちろん、教師にも知識はあるし、授業を成立させるための技能もある。しかし、既存の知識や方法を正確に運用することと、自ら課題を設定し、必要なものを選び、組み合わせ、新しいものを生み出すこととは別の能力である。

かつて、2002年に大規模で創造的な教育改革があった。言うまでもなく、「ゆとり教育」と「総合的な学習の時間の創設」と「選択教科の大幅拡充」の、あの改革である。あの改革は、教師にかなり大きな裁量を与えた。何を教えるのかを厳選し、何をどのように学ばせるのかを自ら構想し、更には教科の枠を超えて子どもたちにどのような学びをつくらせるのかまで、教師自身が考えることを求めたのである。

しかし、これらはほとんど機能しなかった。教師という職業に就く人々は、教科の指導事項を厳選する知的能力などもっていなかったし、自ら課題を立てて総合的に学習した経験など持っていなかったし、中学・高校の教師さえ、選択教科のカリキュラムをつくれるほど教科内容に対する造詣など持っていなかったからである。結果、「ゆとり教育」と「選択教科の拡充」はすぐに改められ、「総合的な学習の時間」はキャリア教育にシフトしていくこととなった。

そもそも、教師という職業は「知的生産」を職能として要求されてこなかった。教師に求められてきたのは、自ら新しい知識や教育内容を生み出すことではなく、すでに定められた学習内容を理解し、それを子どもたちにわかりやすく伝え、学級を秩序立てて運営することである。教科書があり、学習指導要領があり、指導案の書き方があり、授業の型があり、年間指導計画がある。教師は、それらを自分なりに工夫して実践すればよかった。

もちろん、そこにも相当の知識や技能は必要である。しかし、それは「何を教えるべきか」を自ら問い直し、「何をどのように学ばせるべきか」という教育内容そのものを新たに構想する知的生産とは性格が違う。教師の仕事の中心にあったのは、知識を生み出すことよりも、既にある知識を選択し、整理し、伝達することにあった。

だからこそ、2002年の教育改革は、教師にとってかなり困難なものになった。学習内容を三割削減し、総合的な学習の時間を創設し、選択教科を大幅に拡充するということは、裏返せば、「何を教えるのか」「何を学ばせるのか」を教師自身が考えなければならないということだったからである。それまで与えられていたものを教える仕事から、教えるべきものそのものを構想する仕事への転換である。

しかし、教師の多くは、そうした「知的生産」を職業訓練として経験していなかった。大学でも教員養成課程でも、既存の教科内容を学ぶことはあっても、自ら教育内容を創造し、検証し、体系化することを本格的に訓練されたわけではない。だから、突然「あなた自身で考えてください」と言われても、何をどこまで考えればいいのかわからない。結局、既存の教材や実践事例を探し、それを少し組み替えて「自分で考えたこと」にするしかなくなる。

これは教師個人の資質の問題というより、教師という職業そのものが長い間、そのような「知的生産」を必要としない仕組みのなかに置かれてきたということである。

では、生成AIが教師の知的生産能力を補ってくれるのか。これもまた、そう簡単ではない。なぜなら、「知的生産」において本当に難しいのは、答えをつくることではなく、そもそも「何を考えるべきか」を決めることだからである。

生成AIに「この単元の授業案をつくってください」と頼めば、それらしい授業案はいくらでも出てくる。しかし、本当に重要なのは、その単元で何を問題にするのか、なぜ今この子どもたちにそれを考えさせるのか、どこまで考えさせて何を残すのかという判断である。そこには、その学級の子どもたちを日々見てきた教師にしかわからない情報や、その子どもたちとの関係性が入り込んでくる。

つまり、生成AIは「考える」ことを補助することはできても、「何を考えるべきか」を教師に代わって決めることはできない。仮にAIが10本の優れた授業案を提示したとしても、その10本のうちどれを選ぶべきか、その授業をそもそも行うべきなのか否かを判断するためには、教師自身に知的生産能力が必要なのである。

これは教材研究でも同じである。生成AIは膨大な資料を集め、比較し、整理し、教材として使えそうな情報を提示することができる。しかし、「この資料のどこに教育的な価値があるのか」「この子どもたちにとって、何が発見になるのか」を判断することまではできない。そこを判断するには、教師自身が教育について考えていなければならない。

だから、生成AIは教師の知的生産を代替することはできても、教師に知的生産能力を与えてくれるわけではない。むしろ、教師自身にその能力がなければ、AIが生み出した大量の「それらしい答え」のなかから、本当に価値のあるものを選び取ることさえできないのである。

従って、生成AI時代に教師に求められるのは、AIを巧みに使いこなす技術だけではない。AIが示したものを鵜呑みにせず、何を見るべきか、何を問題にすべきか、何に価値があるのかを自ら判断する力である。結局のところ、生成AIがどれほど進化しても、教師自身が「考える人」でなければ、AIは教師を知的生産者にはしてくれない。むしろ、教師から「考える」という仕事そのものを奪ってしまうかもしれない。だからこそ、生成AI時代に問われているのは、AIの能力ではなく、教師自身の知性なのである。

ザ・グレンリベット 12年

ストレート 〇
   ロック 〇
ハイボール ◎(水割り◎)

青りんご・洋梨・はちみつ・バニラ・フローラル。さまざまな形容がなされるが、そのときの気分、体調によって拾う香りも味わいも異なる。それがウイスキーの面白いところでもあり味わい深いところでもある。

スコットランドの蒸留所第1号の老舗。文句なしのスコッチを代表するボトルである。ストレート、ロックもまずまずだが、ハイボールの評判がいい。炭酸で爽やかな香りが強調されるせいだと思う。しかし、私にとってこのボトルは水割り用だ。水割りは我が国独特の飲み方らしいが、和食と合わせるならやはり水割りがいい。漬物や煮物にソーダはちょっとばかしうるさい。

グラスに氷をたっぷり。リベットを30~40ml。グラスの2/3程度にまで水をそそぎ(私は軟水を使うことが多い)、バースプーンで徹底してかき混ぜる。単純に時間で測れるものではないが、私の場合は1分以上はかき混ぜていると思う。香りといい味といい、どんなメニューとも合う水割りが出来上がる。納豆良し、卵焼き良し、たくあん良しだ。焼き魚など、リベットの水割りのためにある肴にさえ思えてくる。日本酒や焼酎とは異なる、ウイスキー独自の世界が広がる。

「ザ・グレンリベット 12年」のボトル

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堀裕嗣先生

<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

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