堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s Bar 一杯分だけ、話そうか。#10 ピンク・レディーと「身体に残る」教育

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による新連載第10回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的、歴史的視野に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。
執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)
目次
1.ランキングに入る音楽とランキングから解放された音楽
まずは唐突な質問から。
あなたはピンク・レディーの楽曲の中で何が一番好きだろうか?
ぱっと思い浮かぶ曲はおありだろうか? おそらく一番有名なのは「UFO」だと思うが、デビュー曲の「ペッパー警部」や最初のミリオンセラー「渚のシンドバッド」、オリコンチャートで12週連続1位を記録した「ウォンテッド(指名手配)」、王貞治と女性左腕投手の対決を描いた「サウスポー」など、印象的な曲は多い。第九弾シングル「透明人間」などは予約だけで60万枚を記録したというのだから驚異的である。
私は当時、小学校高学年だった。ピンク・レディーのデビューが小学校4年生の夏、「UFO」のレコード大賞受賞と紅白歌合戦辞退によるバッシングが重なった1978年が小学校6年生である。小学校高学年から中学1年生頃まで、ピンク・レディーはまさに「テレビの華」だった。
彼女たちはデビューの1976年8月から解散の1981年3月までの約4年半で22枚のシングルを発表しているが、私が買ったピンク・レディーのシングルはたった1枚だけだった。小学校高学年の私は松山千春と沢田研二に熱中していて、ピンク・レディーは「ガキの音楽」に見えていた。その楽曲にお金を払うなど考えられない。そんな心持ちだったと記憶している。クラスの女の子たちは教室でピンク・レディーを歌って踊り、五つ下の小学校低学年の妹も夢中、世の中はピンク・レディーグッズに溢れ、いま思うとピンク・レディーのメディアミックス的戦略の成功には凄まじいものがあった。それでも小学校高学年の私は、その熱狂のただなかにいながら、そこから一歩引いてピンク・レディーを眺めていた。いま流行りの言葉でいえば、完全に「上から目線」である。
そんな私が一枚だけ買った彼女たちのシングル。それは「世界英雄史」(1980年5月21日)という曲である。おそらく私と同年代の読者でもご存じない方が多いかもしれない。ピンク・レディーが絶頂期を過ぎ、既にトップテンにランキングされなくなって久しい頃の楽曲である。当時の私は一聴、この曲にしびれた。私が見たのは「夜のヒットスタジオ」だったと記憶しているので、おそらくこの映像だと思う。ミーちゃんとケイちゃんは数年前までのパフォーマンスが嘘のように「大人」になっていた。おそらく、アメリカ進出の成功(シングル「Kiss in the Dark」がビルボード37位)によって彼女たちは生まれ変わっていたのだと思う。多くの人たちがその姿を見ていないことに私はいまでもある種の悔しさを抱いている。
世界英雄史 音源:https://www.youtube.com/watch?v=jbaPLy-ixZg
歌詞:https://www.oricon.co.jp/prof/136849/lyrics/258008/
聴いていただければわかるのだが、「世界英雄史」はナポレオン、シーザー、始皇帝、ジンギスカン、アルカポネ、カメハメハ、家康、小次郎、清盛(以上「斗う男」と称される)、そしてアレキサンダー、ロレンス、バスコ・ダ・ガマ、ワシントン、ガンジー、アムンゼン、信長、弁慶、霧隠(以上「ロマンの男」と称される)と、世界史上の英雄、日本史上の英雄を並べながら、彼らはみんな「死んだ」と歌う。そのうえで「私だけ愛してたあのひともいない」「歴史には残らないあのひともいない」と、世界の英雄たちと自らのもとを去ったかつての恋人を並列・類比することで構成した曲である。「忘れられないひとりのひと どうすれば会えるでしょう 歴史はくりかえすけど 恋人だけもどらない」「あのひとも英雄です 私の歴史つくった 誰よりも強い愛よ 今ではもうかえらない」と最後にはかつての恋人に対する個人的な感情に還元してしまう。並べ立てられる世界の英雄があまりに偉大でありあまりに強烈な印象を残すからこそ、逆説的に語り手の女性の切ない心象が浮かび上がってくる。伊藤アキラの詞だが、まったくもって見事な構成だと私なんぞは唸ってしまう。
もう一つ大きな特徴は、世界の英雄を次々に挙げていくときには力強く、ときにはシャウトしかけるようなボーカルを放つミーとケイが、かつての恋人への思いを吐露するときには静かで滑らかなボーカルで情緒を込めるところにある。美しいハーモニーに触発され、聴いているこちらまで切なくなってくる。二人のボーカリストとしての実力が遺憾なく発揮されている楽曲と言える。
ピンク・レディーの二人は、もともと歌が下手なわけではない。声量もあり、ハーモニーも美しく重ねられる。そうでなければ、あの全盛期、あれだけ激しく踊りながら音程をはずさずに歌えるはずなどないのだ。結果、ピンク・レディーは「世界英雄史」の次のシングル「うたかた」(1980年9月21日)では、とうとう踊らなくなった。このことも私には強烈な印象を残している。
ピンク・レディーは「大人」になった。しかし、日本はそれを見なかった。
日本が再びミーちゃんとケイちゃんに注目するには、ピンク・レディー解散後、ケイが増田けい子としてソロシングル「すずめ」(1981年)をヒットさせ、ミーがMIEとしてソロシングル「NEVER」(1984年)をヒットさせるまで待たねばならなかった。
実はシンガーというのは絶頂期を過ぎた後に、作品の凄まじい充実ぶりを示すことが少なくない。おそらくランキングから解放されたとき、自由度を増すことによって、彼ら彼女らは本来「自分のやりたかったこと」に取り組み始めるのではないか。それが「マス」ではなく「通」には深く沁み入る作品を生み出すことにつながるのではないか。私はそう想像している。小学生時代に熱中していた松山千春と沢田研二を私はいまだに追い続け、アルバムをすべて聴いているが、ランキングから解放された後の彼らの作品の充実ぶりには目を見張るものがある。ただ、それを見る者がかつてと比べて少ないだけだ。ランキングに入るための音楽と、ランキングを意識しない音楽では、そもそも作り手が向き合う相手が異なる。当然のことなのかもしれない。
2.意識した影響と意識しないままに表れる影響
なぜ、今回、ピンク・レディーを語るのか。
ピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビューしたのは1976年8月25日である。実は今年の8月25日はピンク・レディーのデビューからちょうど50年を数えるのである。
ピンク・レディーはミーちゃんとケイちゃんという二人が歌って踊ってたくさんのヒットを飛ばしたというだけの話ではない。子どもたちをファンの中心としながらも、メディアミックスによってさまざまな企業を潤わせた経済現象でもあった。一説にはピンク・レディーの売り上げは4年半という短期間で500億円を超えたとさえ言われる。おそらく国内史上、そんな歌手はいないだろう。ピンク・レディーはいわば、「ピンク・レディー」という社会現象だったのである。
2001年のことである。『探偵!ナイトスクープ』が「30代の女性はみんなピンク・レディーの踊りができるのか」を調査したことがある。実際に女性たちに踊ってもらうと、最初は「もう忘れた」「踊れない」と言っていた人まで、曲が流れれば身体が自然に動き出す。二人で突然パートを分け、フルコーラスを踊り切ってしまう人も多数いた。ちなみにこの企画は2001年度の日本民間放送連盟賞・テレビエンターテインメント部門で最優秀賞を受賞している。ピンク・レディーの歌と振付は、20年以上の歳月を経ても、当時の少女たちの身体から消えてはいなかったのである。
これを現在に置き換えて考えてみると、55歳から65歳くらいの女性たちになる。おそらくこの年代の女性たちは6~7割程度がいまなおピンク・レディーを踊れるのではないか(私は宇野弘恵先生が「UFO」を完璧に踊り切ったのを見たことがある・笑)。当時小学校高学年から中高生くらいの女の子たちにとって、それほどピンク・レディーは浸透していたのだと言える。
さて、ピンク・レディーが最も活躍したのは1977年・1978年である。「カルメン’77」「渚のシンドバット」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」「サウスポー」「モンスター」「透明人間」「カメレオン・アーミー」の2年間だ。前節でも述べたが、この年、私は小学校5・6年生の2年間だった。つまり、11~12歳である。
ここで80年代アイドルを見てみよう。1977年・1978年に何歳だったかをである。
15~16歳 松田聖子
14~15歳 河合奈保子・ライオネス飛鳥
13~14歳 三原順子・長与千種
12~13歳 中森明菜・小泉今日子・柏原芳恵(よしえ)・松本伊代・河合その子
11~12歳 早見優・堀ちえみ・石川秀美・斉藤由貴・三田寛子・国生さゆり・高井麻巳子
10~11歳 南野陽子・本田美奈子・岡田有希子
9~10歳 荻野目洋子・長山洋子・菊池桃子・新田恵利
8~ 9歳 浅香唯・中山美穂・鈴木早智子(Wink)・相田翔子(Wink)・森高千里
いかがだろうか。有名どころをざっと調べただけでもこういう結果になる。実は松田聖子からおニャン子クラブに至る80年代前半から半ばまでのアイドルブームをつくった主役たちは、いわば「ピンク・レディー・チルドレン」だったのである。あの教室でピンク・レディーを踊っていた世代のど真ん中の世代である。
80年代のアイドルブームはピンク・レディーがつくった。
ある面で、私はこう言えると確信する。
アイドル評論家の中森明夫は「ピンク・レディーは80年代を準備した」と述べた。おそらく80年代女性アイドルの多くが「ピンク・レディー・チルドレン」であったことを思うとき、この中森の言には大きく頷ける。
もう一つ忘れてならないのが阿久悠の言である。ピンク・レディーの楽曲と言えば作詞が阿久悠、作曲が都倉俊一、振付が土居甫のトリオが有名である。その作詞家の阿久悠が後に次のように述べている。
私はピンク・レディーを通して、ディズニーランドを創ろうとしていた。
東京ディズニーランドのことではない。ピンク・レディーが活躍していた時代、東京ディズニーランドはまだ開園していない。当時のディズニーランドと言えば、ロスアンジェルス、或いはフロリダである。阿久悠はそれを体験してピンク・レディーの楽曲をつくっていったと言うのだ。つまり例えて言うなら、「渚のシンドバッド」はスプラッシュ・マウンテンであり、「UFO」はスペース・マウンテンだったのだと言っているわけである。東京ディズニーランドが開園するのは1983年。これも「ピンク・レディーは80年代を準備した」という中森の言と一致する。
更には、ファミコンが現れたのも1983年である。どうだろう。ピンク・レディーが歌う世界観はどこかファミコンゲーム的ではないだろうか。ピンク・レディーはニューミュージックから演歌まで恋愛歌全盛の70年代後半にあって、恋愛を排した奇想天外な世界観ばかりを歌った。ベンチでいちゃついているカップルに「もしもし」と声をかけるペッパー警部、男は狼ばかりなんだから、「乙女たちよ、気をつけなさい」との啓蒙、デビューからハチャメチャな歌詞だった。絶頂期だって地球の男には飽きたから宇宙人と恋愛しちゃおうかとか、男は逃げてばかりだけど女左腕は王貞治とだって敬遠せずに勝負よとか、ピンク・レディーの歌だけが異彩を放っていた。そんな歌は山口百恵にも岩崎宏美にもキャンディーズにもない。あるはずもない。こうした奇想天外なゲーム的世界も「ピンク・レディーは80年代を準備した」という中森の言と一致するのではないか。私はそう感じている。
3.評価される教育と身体に残る教育
ピンク・レディーとともに子ども時代を過ごしたのは1960年代半ばから1970年生まれくらいの世代である。すぐ上にはいわゆる「新人類」世代、すぐ下には「団塊ジュニア」世代のいる世代でもある。いわゆる「バブル世代」だ。もっと正確に言えば、バブル景気を大人の入り口で経験した世代であると同時に、そこへ至る日本社会の豊かさを子どもの頃から身体で覚えている世代でもある。
おそらく私たちは運がよかった。バブル景気という空前の好景気の恩恵を、就職という人生の最初の関門で受けることができた。その後の世代が「就職氷河期」と呼ばれる時代に苦しむことになるなど、当時の私たちは知る由もなかった。
私たちが小学生だった1970年代後半、日本はすでに「豊かさ」が特別なものではなくなりつつあった。テレビは一家に一台あるのが当たり前で、冷蔵庫も洗濯機もカラーテレビも家庭には揃っていた。街にはファストフード店やファミリーレストランが増え、子ども向けの商品も次々と生まれていた。私たちは「豊かな日本」を大人になってから手に入れた世代ではない。豊かになった日本を、子どもの頃から当然のものとして受け取った最初の世代だった。そして何より、来年は今年より良い1年になる、そう信じられた時代だった。
日本の高度経済成長は既に終わりを迎えていた。オイルショックを経験し、日本経済は「量」から「質」へと転換しつつあった。人々は、ただ豊かになることではなく、豊かになった生活の中で何を楽しみ、何を消費するかを考え始めていた。そのとき、テレビの中心にいたのが、ピンク・レディーだった。だから私たちの世代にとって、ピンク・レディーは単なる歌手ではない。あれは「豊かになった日本」を最初に身体で経験した記憶なのである。
私はいま、ピンク・レディーのベスト盤を聴きながらこの原稿を書いているが、「ペッパー警部」の軽快な前奏が流れるだけで懐かしさに涙が溢れそうになる。そのくらいピンク・レディーが身体に沁みついているのだ。

人間は、頭で覚えたことだけで生きているわけではない。何十年経っても、前奏を聴いただけで涙が出る。何十年経っても、曲が流れれば身体が自然と踊り出す。学校教育は現在、こうした「身体に残る学び」をどれほど意識しているだろうか。
私はいまでも、小学校高学年の記憶をはっきりと呼び起こすことができる。先生の声、教室の匂い、校庭の土、窓に降る雪、みんなで歌った合唱曲、学習発表会での台詞、運動会のフォークダンス、図工の時間にみんなでつくった秘密基地、修学旅行のお土産屋、昼休みのドッジボール、そしてクラスメイトの笑顔……。それは身体感覚を介した記憶の総体としていまでも私を包み込んでいる。
しかし、いまの学校教育は、子どもたちの身体に何を残そうとしているだろう。教育成果を数値化し、学力を測定し、評価を揃え、記録を残すことには熱心なのに、十年後、二十年後、四十年後の子どもの身体に何が残っているかについては意外なほど無頓着ではないか。
ランキングに残るものと、人生に残るものは違う。
いまの学校教育は、「頭に残すこと」に一生懸命になりすぎている。それが教育効果を減じている面が少なからずある。
私たちが子どもの頃、担任の先生は昼休みに職員室で隣の担任と将棋を指していた。それを私たちは取り囲むように観戦していた。北海道の冬。石炭ストーヴの薬缶の蒸気。「先生、次はこの手でしょ」と子どもが言おうものなら、年輩の女性教師が「だめよ。じゃましちゃ。いま考えてるとこなんだから」と横から優しくたしなめた。この場面から私たちはいったいどれだけのことを学んだろう。かつての学校教育ってそういうものだった。
たぶん学校って、ほんとはこんなんでいいんだと思う。
では、いまの学校はなぜこうなったのか。「教師が将棋を指しているだけ」の時間を許さないものが、いまの学校にはどれだけ増えたのか。コンプライアンス、説明責任、評価、記録、効率、成果、保護者対応、安全管理、数え上げればキリがない。
その一つ一つに確かに正当な理由がある。だからこそ、学校からは「何の役に立つのかわからない時間」が少しずつ消えていった。正しいものを一つずつ積み上げた結果、学校には一見「意味がない」ように見えるのに実は「大きな意味のある」時間までが失われてしまった。そして、その「意味のないように見える時間」にこそ、子どもの身体に残る教育があったのではないか。
ランキングから自由になったときに作品が充実するように。
ハチャメチャな世界観を楽しんでいるうちに知らずに未来が準備されていたように。
「評価されるもの」と「残るもの」とは異なる。私は声を大にして言いたいのだ。
今夜は、この一杯。
SIPSMITH V.J.O.P.
ロンドンドライジンである。クラフトジンブームの魁となったボトルだ。ただし、今回取り上げているのは「V.J.O.P.」であって普通のスタンダードのSIPSMITHではないのでご注意を。味も度数も大きく異なる。ちなみにV.J.O.P.とはVery Junipery Over Proofの略である。前回Barのジントニックを取り上げたので、今回は家飲みジントニックを取り上げることにした。
SIPSMITH V.J.O.P.にFEVER-TREE。私が最も好きなジントニックの組み合わせである。甘めの強すぎるジントニックではなく、苦みが欲しいというときにはこの組み合わせがいい。逆に甘いのが飲みたいときには、私はBOMBAY SAPPHIREとSchweppesでつくることが多い。
前回も述べたが、Barで作り方を見て、バーテンダーに訊いてみて、家で試してみる。その循環が愉しい。
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<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

