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堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s  Bar 一杯分だけ、話そうか。#13  週休二日制と「働き方改革」~私たちが失った最大のもの

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堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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堀 裕嗣 なら、ここまでやる!国語科の教材研究と授業デザイン
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣
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教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による連載第13回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的、歴史的視野に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。

執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1.土曜日の「余白」

学校週五日制が具体的に動き出したのは、1992年9月12日(土)のこと。

この日、初めて土曜日が週五日制の流れの中で休みになった。まだ、月に一度、第二土曜日を休みとしていた第一段階である。

私が教職に就いたのは1991年4月1日のことだから、私が月~土の週六日で満度に働いたのは、たった1年半のことでしかなかったらしい。今回週五日制について調べていて、気づかされた次第である。これまでさまざまな場面で「昔は週に五日半働いていたんだよなあ…」と思うことがよくあったわけだが、どうやら自分は「学校週六日制」時代をほとんど知らない世代であるようだ。

3年後、1995年4月からは、第二土曜日に加えて第四土曜日も休みになる。そして2002年4月、ようやく「完全学校週五日制」が始まる。そういう流れだ。

つまり、91年採用の私にとっては、最初の1年半は毎週、2年目の9月からは月に3~4回、5年目から11年目までは月に2~3回、土曜日に出勤していたということだ。いったいその頃、私たち教師は土曜日をどう過ごしていたのだろう。もうずいぶんと記憶があやしい。

あの頃、土曜日の午前中、教室には生徒たちがいた。それが当たり前だった。

しかし、記憶によると、当時の勤務校では土曜日に教科の授業はしていなかったはずである。土曜日は3時間授業だったはすだが、1時間目は道徳、2・3時間目は必修クラブという時程になっていたように思う。朝と帰りのホームルームはあったから、担任学級には行く。道徳の時間も1時間過ごす(とは言っても、当時の道徳の時間はほとんど特活に近かったが)。しかしその後2時間は必修クラブ。私は新卒の1年間、確か将棋クラブを担当していたから、この2時間は生徒と将棋を指して遊んでいただけだった記憶である。しかも、私の勤務校は大規模校(30学級近くあった)で、教務部の必修クラブ担当者が補欠に入ってくれる体制もできていたので、既に土曜日はずいぶんと休みやすい環境にもあった。

確かに土曜日は「勤務日」ではあったけれど、「平日」とは明らかに違う日だった。

午後からは部活動である。私は当時、演劇部の顧問だった。男子5人くらい。女子が40人くらい。かなり大きな、本格的な演劇部だった。私が脚本を書き、演出もする。土曜日は13:00~18:30までの活動。平日が16:00~18:30と短いので、どうしても土日は長くなる。公演は年4回、うち1回は中文連の大規模な大会である。平均して1公演につき2~3か月間くらいの稽古。土日は通し稽古やリハーサルを行える書き入れ時である。あまり大きな声では言えないが、夜10時まで活動するなんてこともあった(もちろん違反だが、保護者の許可を取れば黙認される雰囲気があった)。いま考えるとよくやってたな……という感じである。

しかし、当時の私はこれを苦痛だとはまったく感じていなかった。むしろ苦痛は現在の方が圧倒的に多い。当時の学校は規律に対する意識が緩かった。だから、土曜日も同僚と昼食をとりに出て談笑。部活は始まっているのに学校に戻るのは14時くらい。そんな感覚だった。生徒たちも弁当を食べた後、1時間ほど発声練習。ちょうど発声練習が終わった頃に顧問の私が戻ってくる。そんな感じだったと思う。

いま考えると、大会前に遅くまで活動することが黙認されることと、生徒たちでできる活動のときは部活につかないことが黙認されるのと、それは同じ思想で運用されていたのだと思う。要するに、教師個々人の裁量を認めよう、そうした空気があの頃の学校にはあった。そう。あの頃、教師には「ここまでは自分の判断でやっていい」という余白があったのである。それが苦痛ではなかった一番の要因だと思う。逆に言えば、大会直後なら、土曜日の部活を無しにして、昼からパチンコを打つなんていう土曜日もつくれたわけだ。

もちろん、これは現在の基準からすれば、とんでもない話である。勤務時間外とはいえ同僚と昼食に出てなかなか戻ってこない。部活動が始まっているのに顧問が学校にいない。生徒だけで活動させる。大会前には夜10時まで残す。どれもいまなら、「なぜそんなことをしたのか」と責任を問われるだろう。

しかし、私は当時の自分を振り返って、「あの頃の教師はいい加減だった」とは思わない。少なくとも、自分自身について言えば、仕事をさぼっていたという感覚はなかった。

むしろ、仕事と生活との間に現在よりずっと大きな「余白」があり、仕事に「裁量」があったというだけだと感じる。そして、この「余白」と「裁量」という言葉が、どうも現在の教師の働き方を考えるうえで重要なのではないかと思うのだ。

当時の私は、土曜日に何をするかを、ある程度自分で決めていた。生徒と将棋を指して過ごすのも自分の仕事だったし、演劇部で夕方まで稽古するのも自分の仕事だった。大会前なら夜まで残ることも確かにあったが、そう決めていたのは自分だった。一方で、今日はもう十分だと思えば、部活動を早めに切り上げることもできたし、大会直後なら部活動そのものを休みにすることもできた。つまり、長く働いていたからといって、長く「働かされていた」わけではなかったのである。

現在(いま)になって思えば、当時の教師には「自分の仕事を自分で決めている」という感覚があった。だから当時の教師にはたとえ「多忙」であったとしても「多忙感」がなかったのである。

2.「正しいこと」の足し算

2002年4月、完全学校週五日制が始まった。土曜日がなくなったのである。

当然のことながら、教師の勤務時間は減った。

少なくとも、土曜日の午前中に学校へ行く必要がなくなった。部活動についても、その後、休日の活動を減らす方向が打ち出されていった。それなのに教師は現在、「苦痛が多い」と感じている。「多忙感」に苛まれている。これはいったい、どうしたことだろう。

労働時間だけを見れば、間違いなく昔の方が長かった。では、なぜ昔の方が楽だったと感じるのか。私は、その一つの答えが「余白」と「裁量」にあるのだと思う。

この30年間、学校には実に多くの「正しいこと」が入ってきた。いじめを見逃してはいけない。不登校の子どもを支援しなければならない。特別な支援を必要とする子どもには個別に対応しなければならない。保護者への説明責任を果たさなければならない。個人情報を適切に管理しなければならない。事故を防がなければならない。子どもの安全を守らなければならない。教育活動を記録しなければならない。研修に勤しまなければならない。どれも間違っていない。むしろどれも大切だろう。しかし、だからこそ、厄介なのである。

学校の仕事は、この30年間ずっと「足し算」で増えてきた。昔からある仕事は基本的には残り続ける。そこに新しい課題が加わる。いじめが社会問題になれば、いじめ対応が加わる。不登校が増えれば、不登校対応が加わる。特別支援教育が重視されれば、個別対応が加わる。説明責任が重視されれば、記録と説明が加わる。ICTが導入されれば、ICTを使った新しい仕事が加わる。「これを始める代わりに、これをやめる」という引き算はほとんど行われない。

もちろん、一つ一つの仕事は効率化された。職員室にワープロが並んでいた時代から、やがてPCが入り、インターネットが入り、メールが入り、校務支援システムが入り、現在では生成AIまで使えるようになった。一つ一つの仕事は確実に速くなった。

しかし、一つ一つの仕事が速くなったことと、仕事が減ることとは同義ではない。

ある仕事に2時間かけていたものが1時間でできるようになった。ならば、その1時間で別の仕事ができる。こうして「効率化」は、ときに「仕事を減らすこと」ではなく、「新しい仕事を入れるための余地」を生み出してしまう。

「働き方改革」とは何か。仕事を早く終えることか。ICTを使うことか。定時に帰ることか。私はそれだけではないと思う。「働き方改革」で本当に取り戻さなければならないのは「時計の針」ではない。教師が「これは自分がやる」「これは今日はやらない」と判断できる余地なのである。つまり、「余白」と「裁量」だ。

1992年、第二土曜日が休みになった。1995年、第二・第四土曜日が休みになった。2002年、完全週五日制になった。そして2026年。私たちはいまなお教師の「働き方改革」を叫んでいる。

土曜日はもう休みになったのである。PCもあるのだ。インターネットもあるし、スマホもある。生成AIまで手に入れた。なのに教師はやはり忙しい。

ならば、一度立ち止まって考えてみる必要がある。私たちはいったい何を改革してきたのか。そして、今後何を改革しなければならないのか。

3.「記録する仕事」の増殖

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