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堀 裕嗣✕宇野弘恵 キャッチボール連載独自開発教材でつくる 渾身の「三つ星道徳授業」#9 「鬼は外 福は内」 by 宇野弘恵

連載
堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣

北海道公立小学校教諭

宇野弘恵
連載「渾身の三つ星道徳授業」バナー

魅力的なオリジナル教材を続々と開発し、最先端の道徳授業実践を蓄積し続け る堀先生と宇野先生が交互にそれぞれの自信作を公開。さらには相手の教材開発と授業づくりについて解説し合う連載です。イメージしながら読むだけで感情と思考が大きく揺さぶられる傑作揃いです。

執筆/宇野弘恵(北海道公立小学校教諭)・解説/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1 授業の実際

『鬼は外 福は内』
D/主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること【畏敬の念】
対象学年/高学年以上

① 昔の鬼や妖怪について知る

「鬼は外、福は内」

誰もが耳にしたことのある言葉です。まずは、豆撒きの画像を見せながら、

「なぜ、節分に豆を撒くのでしょう」 と尋ねます。

・鬼を追い払うため
・悪いものを家に入れないため
・福を呼ぶため
・昔からそういう行事だから

などの反応が返ってくるでしょう。しかし、節分に豆を撒くことは知っていても、「なぜ豆なのか」まで考えたことはあまりないかもしれません。そこで、

「どうして鬼を追い払うのに、豆なのでしょう」

と、投げかけたあと、次のように話します。

豆には邪気を祓う力があると考えられてきました。また、「魔(ま)を滅(め)する」という語呂合わせから豆を撒くようになったともいわれています。ところで、そもそも追い払おうとしている「鬼」とは何なのでしょう。

昔の人々にとって、病気や災害、事故や災難などは、今の私たちほど原因を分かっていませんでした。突然、病気になる。大雨が降る。川で人が溺れる。作物がとれなくなる。人の力ではどうすることもできない出来事が、ある日突然起こります。今なら科学的に説明できることでも、昔の人にはその原因が分からないことがたくさんありました。だから昔の人は、人間には説明できない災いや不思議な出来事を「鬼」や「妖怪」という存在に置き換え、姿を与えたのです。病気になれば、鬼の仕業。川で溺れれば、妖怪の仕業。これは、本当に鬼や妖怪が病気や事故を起こしているということではありません。鬼や妖怪は、昔の人々が「自分たちには分からないもの」「自分たちの力ではどうすることもできないもの」と向き合う中で生まれてきた存在だということです。正体が分からないから、怖い。見えないから、畏れる。そんな人間の感覚が、鬼や妖怪という姿になって表れてきたのでしょう。

② 鬼や妖怪の描かれ方を比較する

ここで、鬼や妖怪が出てくるアニメや漫画を知っているかを尋ねます。恐らく、『鬼滅の刃』や『妖怪ウォッチ』などの作品が挙がるでしょう。

鬼や妖怪は、最近になって生まれたものではありません。古くから日本の神話や説話、民間伝承に登場し、時代とともにその姿を変えながら語り継がれてきました。

鬼は『日本書紀』や『今昔物語集』などにも登場し、桃太郎や酒呑童子の伝説でも知られています。妖怪も古くから「あやかし」などとして語られ、江戸時代になると鳥山石燕の『画図百鬼夜行』などによって、その姿が視覚的にも定着していきました。

河童や天狗は、山や川などの自然と関わる伝説から生まれ、一つ目小僧や座敷童子などは、家や村の習慣や戒めと結び付いて伝えられてきました。

そして、それらは消えてしまったわけではありません。節分の「鬼は外、福は内」や夏の怪談など、今も私たちの生活の中に残っています。それだけではなく、アニメや漫画、ゲーム、祭りなど、時代に合わせて姿を変えながら、今も生き続けています。

こうした説明を経て、4つの作品を紹介します。

まずは、1968(昭和43)年にテレビアニメ化された『ゲゲゲの鬼太郎』です。鬼太郎は、妖怪の父と人間の母をもつ半妖怪です。人間と妖怪の間に立ち、両者の橋渡しをしながら、共存の道を探っていきます。

続いて、同じ1968(昭和43)年にテレビアニメ化された『妖怪人間ベム』です。ベム、ベラ、ベロの三人は妖怪人間です。しかし、彼らが願っているのは「人間になること」です。人間になりたいと願いながら、人間のために悪と戦う。その戦いや哀しみが描かれています。

次は、2014(平成26)年にテレビアニメ化された『妖怪ウォッチ』です。不思議な腕時計を手にした少年が妖怪たちと出会い、交流しながら、日常で起こるさまざまな騒動を解決していきます。

最後は、2019(令和元)年にテレビアニメ化された『鬼滅の刃』です。家族を鬼に奪われた少年が鬼狩りの剣士となり、仲間とともに鬼と戦いながら成長していく物語です。

この4つのアニメは、最初の2つが昭和、続く2つが、平成、令和の作品であることを確認します。そして、改めて、鬼や妖怪は日本の伝統文化の中で語り継がれてきたものの1つであり、民間伝承や信仰に根ざした歴史的な存在として現代でもアニメや漫画、祭りなどに形を変えて生き続けていることを押さえます。

③ 時代による変化を捉える

妖怪や鬼は、時代とともにどのように変化しているかについて、4つのアニメのオープニングやエンディング映像で比較します。ただ映像を見るだけでは、子どもたちは知っている作品や好きな作品の話に引っ張られてしまいます。そこで、

・映像の印象
・キャラクターの感じ
・曲の雰囲気
・歌詞の内容

という4つの観点を示し、気付いたことをワークシートにメモしながら視聴させます。

・『ゲゲゲの鬼太郎』 https://youtu.be/IjtKAhQ8kT0?t=18
・『妖怪人間ベム』 https://youtu.be/cGN1AoePdPI?t=13
・『妖怪ウォッチ』 https://www.youtube.com/watch?v=jKBO5z22ybU
・『鬼滅の刃』  https://youtu.be/pmanD_s7G3U?t=72

いずれも1番のみを使用し、授業に必要のない部分はカットします。また、歌詞が表示されていないものについては、可能であれば映像を編集し、歌詞を付けておくと、より比較しやすくなります。

4つの動画は、間を空けずに続けて流します。4作品を続けて見ることで、かなり印象が違うことが分かるからです。印象だけではなく、歌詞の内容からも変化を掴み取るために、動画の視聴後に歌詞だけを再提示して比較させます。

・『ゲゲゲの鬼太郎』 熊倉一雄 ゲゲゲの鬼太郎 歌詞 - 歌ネット
・『妖怪人間ベム』 ハニー・ナイツ 妖怪人間ベム 歌詞 - 歌ネット
・『妖怪ウォッチ』 キング・クリームソーダ ゲラゲラポーのうた 歌詞-歌ネット
・『鬼滅の刃』 LiSA 紅蓮華 歌詞 - 歌ネット

一人でじっくり比較した後、4人グループで交流します。

・昔の方が怖い
・『妖怪ウォッチ』の妖怪はかわいい
・最近の作品はキャラクターがかっこいい
・昔の曲は不気味な感じがする
・妖怪が主人公になっているものもある
・妖怪と人間が友だちになっている

などの考えが出されます。大きな流れとして

・不気味 → かわいい → かっこいい
・怖い → 親しみやすい → 怖いけれど魅力的
・遠い存在 → 身近な存在 → 人間と地続きの存在
・分からない存在 → 名前や性格が分かる存在 → 能力や過去まで分かる存在
・逃げる、恐れる → 友だちになる → 戦って倒す

などの変化が見えてきます。もちろん、4つの作品だけでそれぞれの時代を一括りにすることはできません。しかし、大きな流れとして見ると、かつては「何だか分からないから怖い」存在だった妖怪や鬼が、次第に名前や性格をもち、人間にとって身近な存在として描かれるようになったことが分かります。そして『鬼滅の刃』では再び恐ろしい敵として登場しますが、昔の妖怪とは少し違います。鬼にはそれぞれ名前があり、能力があり、過去まで描かれます。「分からないから怖い」のではなく、「分かった上で怖い」存在になっているのです。以上を前提とし、「なぜ、このように変化してきたのか」について、再度交流します。

交流の中では、「時代が変わったから」「科学が発達したから」「昔より分からないことが減ったから」など、さまざまな考えが出されるでしょう。

ここで、鬼や妖怪そのものではなく、鬼や妖怪を見る「人間の側」に目を向けます。私たちはこの数十年の間に、何を「見える」ようにし、何を「分かる」ようにしてきたのでしょうか。

④ 何が変わったのか、を考える

次のスライドを示しながら、昭和から令和までの変化を説明します。

スライド1

まず、大正時代に始まったラジオ放送が昭和の時代に広く普及します。これによって、離れたところにいる人の声を聞くことができるようになりました。目の前に相手はいません。しかし、声が聞こえることで、その向こうに人が確かに存在していることが分かります。つまり、「見えないけれど、いる」ことを認識できるようになったのです。

続いてテレビが普及すると、自分がその場にいなくても、遠くで起きている出来事を映像で見ることができるようになりました。さらに、さまざまな観測機器や医療機器が発達し、人間の目だけでは見ることのできなかったものまで見えるようになっていきます。

例えば、レントゲンやCT、MRIなどによって、体を切り開かなくても体の中を見ることができます。顕微鏡を使えば、肉眼では見えないほど小さな世界を見ることができます。人工衛星によって宇宙から地球を眺め、雲の動きや台風の姿を捉えることもできるようになりました。こうして人間は、目の前にあるものだけでなく、遠くにあるもの、体の中にあるもの、小さすぎて見えないものまで、さまざまな機器を通して見ることができるようになりました。「見えなかったもの」が、次々と「見えるもの」になっていったのです。

さらに平成には、パソコンやインターネット、スマートフォンが広く普及します。遠く離れた場所の様子も、知りたい情報も、手元ですぐに確かめられるようになりました。それまでなら一生出会うことがなかったかもしれない人とつながり、世界の裏側にいる人ともコミュニケーションを取ることができます。一方で、画面の向こうにいる相手が、本当にどこにいて、どのような人なのかを直接確かめることはできません。それでも私たちは、画面に映る文字や写真、映像を通して、その人や出来事の存在を感じるようになりました。技術が進歩するにつれて、私たちは「目の前にあるものを見る」だけでなく、「目の前にはないけれど、どこかに実在しているもの」を見ることができるようになってきました。

そして令和になり、生成AIが急速に身近なものになりました。分からないことを尋ねれば答えが返ってくる。文章も、絵も、音楽もつくることができる。さらに、実際には存在しない人物の写真や、現実には起きていない出来事の映像さえ、本物らしく生み出すことができるようになりました。かつては「目の前には見えないけれど、実際に存在するもの」を見えるようにしてきました。そして今では、「実際には存在しないもの」まで、あたかもそこにあるかのように見ることができるようになったのです。

その結果、私たちは、目の前に見えているものが本当に存在するのか、画面の向こうにいる人が本当にその人なのか、その映像が本当に起きたことなのかを、「見えた」ということだけでは確かめられない時代を生きるようになりました。皮肉なことに、見えなかったものがどんどん見えるようになった一方で、そこにあるものが本当に「実在するのか」は、かえって分かりにくくなってきたともいえるのです。

それでも私たちは、科学や技術の力によって、これまで「見えなかったもの」を見えるようにし、「分からなかったもの」を分かるようにしてきました。そして今では、実際には存在しないものさえ、自分たちの手でつくり出し、目に見える形にすることができます。そう考えると、いつの間にか、「人間には分からないものがある」「人間の力ではどうにもならないものがある」という感覚を、少しずつ失ってきているのかもしれません。

見えないものは存在しない。

分からないものも、いつかは分かる。

そして、存在しないものさえ、人間はつくり出すことができる。

そんな「妙な万能感」を、私たちは手にしてはいないでしょうか。

昔の人々は、自分たちには説明できないもの、自分たちの力ではどうにもできないものに、鬼や妖怪の姿を見ました。しかし今、「分からないもの」を恐れるよりも、「分からないものなどない」「人間の力で何とかできる」と考えるようになってきたといえないでしょうか。「見えないものへの畏れ」を失いつつある今、鬼や妖怪はいなくなったのでしょうか。

もしかすると――。

鬼や妖怪は、姿を変えて、あなたの中に入り込んでいるのかもしれませんよ。

少し怖いトーンでこう語り、「見えないものへの畏れ」を失いつつある現代の私たち自身に目を向けさせます。あえて教師が答えを示すことはせず、最後に、本時を通して考えたことを書いて授業を終えます。

2 この授業をつくるにあたって 

何気なくYouTubeから流れてきた「ゲゲゲの鬼太郎」のオープニング。懐かしいなあと思いながら見ていました。なんともおどろおどろしい前奏、「ゲ、ゲ」から始まる歌詞。そして、くらーい感じの色使い。不気味さ満載のキャラクターたち。いやあ、昭和ってすごいなあ。今の時代、こんな怖いのを子どもたちに見せたら、テレビ局に批判殺到だろうなあ。

ああ、そういえば「妖怪人間ベム」も怖かった。子どもの頃このアニメを見て、本当に怖いと思ったなあ。そして、人間界から追い出され、人間に「無いもの」とされながらも人間との共存を願うキャラクターが放つ哀愁に、なんだか切ない気持ちになったことを思い出していました。

そう、昔のアニメって、怖かったんだよなあ。そして、なんだか哀しかったんだよなあ。今のアニメって、どんなんだっけ?そんな単純な疑問から、平成、令和にヒットした鬼や妖怪のアニメを見始めました。

怖いだけではない。かわいい。おもしろい。友だちになる。時には、憧れるほどかっこいい。同じ「鬼」や「妖怪」なのに、なぜこんなに違うのだろう。最初は、アニメの表現が時代に合わせて変わっただけなのだと思いました。子どもたちの好みが変わった。映像がきれいになった。キャラクターを魅力的に描くようになった。それだけのことなのかもしれない、と。

でも、見比べているうちに、だんだん別のことが気になってきました。変わったのは、鬼や妖怪の方だけなのだろうか。もしかすると、鬼や妖怪を見る私たち人間の方が変わったのではないか。そんな思いになってきたのです。

昔、鬼や妖怪は、よく分からない存在でした。どこから来るのか分からない。何をするのか分からない。なぜ災いが起こるのかも分からない。分からないから怖い。見えないから怖い。人間にはどうすることもできないから、畏れる。ところが、今の鬼や妖怪は、ずいぶんよく分かります。名前があり、性格があり、能力があり、過去があります。「なぜこの鬼は鬼になったのか」ということまで分かる。妖怪と友だちになることもできるし、鬼を倒す方法だって分かります。

「分からないもの」が、どんどん「分かるもの」になっていることは、アニメの中だけのことではないよなあと思いました。病気になれば、なぜ病気になったのかを調べる。大雨が降れば、雲の動きを見る。台風が来れば、その進路を予測する。体の中まで見ることができる。遠く離れた場所で起きていることも、すぐに知ることができる。昔なら「分からない」「どうしようもない」と思っていたものを、一つ一つ明らかにして、人間の力で何とかできるようになってきました。

これは、もちろんすごいことだし、必要な発展です。科学や技術が発達したから、多くの命を守ることができるようになりました。知らなかったことを知り、できなかったことをできるようになってきました。きっとその多くは人類にとって幸せなことだと思います。

ただ、その一方で、何でも分かる、いつかは分かる、人間なら何とかできるという感覚が強くなっているように感じるのです。「人間には分からないものもある」「人間の力ではどうにもならないものもある」という感覚まで、一緒に手放してはいないだろうかと思うのです。

畏敬の念というと、雄大な自然を見て感動するとか、生命の神秘に触れてすばらしいと感じるとか、そんな授業になりがちです。でも、畏敬という感情には、「すごい」という感動だけではなく、「自分には分からない」「自分の力を超えている」という怖さを伴った感覚もあるのだと思います。昔の人々が鬼や妖怪に感じていたものも、そこにつながっているように思います。

見えない。分からない。どうにもできない。だからこそ、恐れる。だからこそ、近づきすぎない。だからこそ、人間の力を過信しない。今の私たちは、昔よりずっと多くのものを見ることができるようになりました。そして、分かることも、できることも増えました。それでもなお、この世界には、人間には分からないことや人間の力ではどうにもならないことが残っています。にもかかわらず、「見えないものはない」「分からないものもいずれ分かる」「人間なら何とかできる」と思い始めたとき、そこには別の意味での「鬼」が生まれるのかもしれません。だから、この授業の最後に、「鬼や妖怪は、姿を変えて、あなたの中に入り込んでいるのかもしれませんよ」と投げかけました。

昔の人が鬼や妖怪を通して向き合っていた「自分たちには分からないもの」「自分たちの力を超えたもの」について、立ち止まって考えてほしい。見えるもの、分かるものが増えたからといって、この世界のすべてが分かったわけではありません。人間の力で何とかできることが増えたからといって、人間が何でもできるようになったわけでもありません。

そして、「見えないものを、ないもののように扱う感覚」は、人間を超えたものに対してだけではなく、私たちの日常の中にもあると思います。例えばSNSでは、相手の顔が見えないから、目の前にいる人には決して言わないような言葉を投げつけてしまうことがあります。でも、画面の向こうには、確かに生身の人間がいます。見えないだけで、そこには自分と同じように傷つき、悲しみ、喜ぶ人がいるのです。

昔の人は、見えないものに何かが「いる」ことを感じ、畏れました。ところが私たちは、見えないものを「ないもの」として扱ってしまうことがある。この違いは、私にはとても大きなものに思えます。

目の前に見えているものだけを世界のすべてだと思わず、その向こうにあるもの、まだ分からないもの、自分には見えていないものにも想像力を働かせてほしい。そして、自分に見えているもの、分かっているものが世界のすべてではないという感覚を、どこかにもっていてほしい。「見えないものへの畏れ」を、現代を生きる子どもたちにも残してほしい。そんな願いを込めた授業です。

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