堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s Bar 一杯分だけ、話そうか。#23 金八先生という名のジレンマ~教育現場の終わりなき「正しさ」

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による連載第23回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。
執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)
目次
1.歴史に残らない金曜日
1979年10月26日、TBS系列で一つのテレビドラマの放送が始まった。
「3年B組金八先生」である。
主演は武田鉄矢。東京都足立区の架空の中学校、桜中学校を舞台に、3年B組の担任となった坂本金八と生徒たちの日常を描いた学園ドラマだった。第1シリーズでは「十五歳の母」が大きな話題となり、翌1980年からの第2シリーズでは校内暴力を背景に「腐ったミカンの方程式」が描かれる。その後もシリーズは長く続き、「金八先生」は単なるテレビドラマの主人公を超えて、この国における「熱血教師」「生徒に寄り添う教師」の代名詞のような存在になっていった。
ところが、私はこの「金八先生」を一度も見ていない。
こう言うと、同世代の人たちから意外そうな顔をされることがある。まして私は、その後教師になった人間である。「金八先生を見て教師になろうと思ったんですか」と訊かれたことさえある。しかし、金八先生を見て教師を志したわけでもなければ、坂本金八のような教師になりたいと思ったこともない。そもそも見ていないのだから、そんなことを思いようもない。影響の受けようがないのである。
なぜ見ていなかったのか。
理由は簡単である。裏番組を見ていたからだ。
「3年B組金八先生」が放送されていたのは金曜日の夜8時。当時、日本テレビ系列では同じ時間帯に「太陽にほえろ!」が放送されていた。石原裕次郎演じるボスを中心に、七曲署捜査一係の刑事たちを描いた刑事ドラマである。私はそちらを見ていた。「十五歳の母」より七曲署だった。「腐ったミカン」よりボスや山さんやゴリさんだったのである。
1979年10月26日といえば、私は中学1年生だった。「金八先生」に登場する生徒たちと、ほとんど同じ年齢である。後年、「金八先生」は当時の中学生の姿を描いた作品として幾度となく語られることになる。妊娠、校内暴力、家庭内暴力、教師との衝突、そして受験戦争。1970年代末から80年代初頭の学校や中学生を語るとき、「金八先生」の映像はいまでもしばしば資料的価値があるという扱いを受ける。
しかし、その時代を実際に中学生として生きていた私は、それを見ていないのである。
ちなみに、似たようなことがもう一つある。
私は北海道民だが、「北の国から」も見ていない。
「北の国から」が始まったのは1981年。北海道・富良野を舞台にしたこのドラマもまた、やがて北海道を象徴する作品の一つになった。北海道に住んでいると言えば「北の国から」の話をされることがあるし、富良野と言えばいまでもあのドラマを思い浮かべる人が少なくない。しかし私は見ていない。北海道で生まれ育ち、北海道で暮らし続けながら、「北海道を代表するドラマ」とされる作品をほとんど知らずに生きてきた。
教師なのに「金八先生」を見ていない。北海道民なのに「北の国から」を見ていない。
どうやら私は、自分が所属する世代や職業や土地を、後になって代表することになったテレビドラマを、ことごとく素通りしてきたらしい。
考えてみれば、これは少し不思議なことである。
私たちは過去を振り返るとき、「あの時代にはこれが流行った」「当時の若者はみんなこれを見ていた」「あの頃の学校はこうだった」という言い方をする。「金八先生」は1970年代末から80年代の学校を象徴し、「北の国から」は80年代以降の北海道を象徴する。そうやって、ある作品や出来事が一つの時代を代表するものとして選び出されていく。
しかし、実際にその時代を生きていた人間の生活は、それほどきれいではない。
同じ1979年の金曜日の夜8時にも、「金八先生」を見ていた中学生がいれば、「太陽にほえろ!」を見ていた中学生もいた。テレビ朝日系列の「ワールドプロレスリング」を見ていた者も少なくなかったはずだ。そもそもテレビなど見ずに、塾に行っていた者も、部屋で本を読んでいた者も、友達と長電話をしていた者もいたに違いない。
ところが四十年、五十年という時間が経つと、そうした無数の金曜日の夜は消えていく。そして、「1979年の中学生」と「金八先生」とが、いつの間にか強く結びつけられる。
おそらく、時代とはそういうものなのだろう。
私たちは時代をそのまま記憶しているわけではない。後になって残ったものを材料にして、かつての時代を組み立て直している。大きな事件、ヒットした曲、人気番組、流行語、ベストセラー。無数にあった出来事の中から極一部だけが残る。そして残ったものを並べて、「あの頃はこういう時代だった」と回想的に説明する。
もちろん、それが間違いだというのではない。「金八先生」が当時の学校や社会が抱えていた問題を映し出した重要な作品であることは間違いないだろう。しかし、それは1979年そのものではない。1979年を生きた無数の人間の経験の中から、後世に残ることになった一つの経験なのである。
歴史というと、私たちは過去に起こった出来事の集積だと思いがちである。
しかし、もしかすると歴史とは、起こった出来事の集積ではないのかもしれない。
起こった出来事の中から、後世の人間が「残すことにしたもの」の集積なのではないか。
1979年10月26日の夜8時、私は「3年B組金八先生」を見ていなかった。私はたぶん七曲署を見ていた。そんな金曜日の夜は、歴史には残らない。
2.残された「教師」のかたち
では、なぜ「金八先生」は残ったのだろう。
もちろん、人気があったからである。話題になる回があり、印象に残る台詞があり、武田鉄矢という俳優の存在感もあった。しかも一度きりのドラマではない。1979年に始まった第1シリーズ以降、断続的に新しいシリーズが制作され、スペシャル版も放送された。最初の生徒たちが大人になったあとも、新しい3年B組の生徒たちが登場し、その時々の学校や社会が抱える問題が取り上げられていった。
しかし、それだけなら長く続いた人気ドラマというだけのことである。
「金八先生」が少し特殊なのは、番組を見ていなかった私でさえ、その名前を知っていることだ。
私は「十五歳の母」を見ていない。「腐ったミカンの方程式」もリアルタイムでは知らない。それでも、「人という字は、人と人とが支え合って……」という有名な場面は知っているし、坂本金八がどのような教師として描かれていたのかもおおよそのところは知っている。長髪で、生徒に真正面から向き合い、説教し、ときには怒鳴り、ときには泣き、生徒の問題を自分の問題のように抱え込む教師。番組をほとんど見ていない人間の頭の中にまで一つの教師像ができあがっている。
考えてみれば、これはかなりすごいことである。
たとえば「太陽にほえろ!」には、たくさんの刑事が登場した。ボス、山さん、長さん、ゴリさん、殿下、マカロニ、ジーパン、テキサス、スコッチ……。私たちの世代ならそれぞれの顔や殉職場面まで思い出せる。しかし、現在「刑事とはどういう職業か」を語るとき、山さんを基準に刑事論を語る人はまずいない。刑事ならジーパンのようでなければならないと言われることもない。
ところが金八先生は違った。
「金八先生のような教師」という言葉が、一つの意味をもつようになった。
それは単に熱血漢であるということではない。生徒のことをよく見ている。生徒の話を聞く。問題が起これば、その背景まで知ろうとする。家庭に問題があれば家庭にもかかわる。生徒が苦しんでいれば教師も苦しむ。生徒が道を外れそうになれば何とか引き戻そうとする。そして卒業するときには、教師と生徒との間に「三年間をともに生きた」という物語が残る。
教師という仕事に、知識を教える以上のものを求める教師像である。
ここが重要なのだと思う。
日本の学校では、教師は昔から授業だけをしてきたわけではない。学級担任になり、給食を一緒に食べ、掃除をさせ、行事をつくり、部活動を指導し、進路相談に乗り、ときには家庭訪問をする。子どもの成績だけでなく、友人関係や生活態度や家庭状況まで知ることを求められる。欧米の学校教師と単純に比較することはできないだろうが、少なくとも日本では、「教師」という仕事と「子どもの生活にかかわること」とが強く結びついてきた。
金八先生は、そうした日本の教師文化を突然つくったわけではない。
むしろ逆なのかもしれない。
もともと日本社会の中にあった「教師とは子どもの人生にかかわる人である」という願望が、坂本金八というキャラクターを通じて極めてわかりやすい形で映像化されたのかもしれない。
だから残った。
しかも、この教師像は学校の外から見れば、とても魅力的である。
わが子のことを真剣に考えてくれる。成績だけで判断しない。問題を起こしたからといって切り捨てない。家庭の事情まで理解しようとしてくれる。卒業したあとも自分のことを覚えていてくれる。そんな教師が担任だったら……と親も子どもも願うだろう。
教師自身にとっても魅力的だったはずである。
教師という仕事をしていれば、「自分がこの子を変えた」と感じる瞬間がある。反対に、「もっと何かできたのではないか」と後悔する子どももいる。卒業生が何年か経って訪ねてきて、「先生が担任でよかった」と言われれば嬉しい。教師という仕事には、人間と人間とが深くかかわることによって得られる喜びが確かにある。
しかし、だからこそ厄介なのである。
子どものためにもう少し教材を準備する。子どものために放課後に話を聞く。子どものために家庭に電話をかける。子どものために部活動に付き合う。子どものために休日にも試合へ行く。子どものために卒業式のあとまで進路を心配する。
一つひとつを取り出せば、どれも悪いことではない。
むしろ、どれも「いいこと」である。
そして教師の仕事が難しいのは、「悪い仕事」を押しつけられて忙しくなることよりも、この「いいこと」が際限なく増えていくところにある。
私は1991年に教師になった。
金八先生の放送が始まってから12年後である。もちろん、私が職員室に入ったとき、同僚たちがみな坂本金八のような教師だったわけではない。そんなことはあり得ない。淡々と授業をする教師もいたし、生徒と一定の距離を取る教師もいた。部活動に熱心な教師もいればそうでない教師もいた。それぞれがそれぞれの仕方で「教師」だった。
それでも、「いい教師とはどんな教師か」という空気には、いま振り返るとかなりはっきりした方向があった。
それは、子どものために時間を使う教師だった。
放課後、生徒が相談に来れば付き合う。学級に問題が起これば遅くまで残る。行事となれば休日にも準備する。部活動なら土日も学校へ行く。それを「勤務時間ではありませんから」と断る教師より、黙って付き合う教師の方が少なくとも「熱心な先生」と評価されやすかった。
誰かに強制されたわけではない。ここがまた厄介である。自分でやったのである。
もっといい授業をしたい。もっといい学級にしたい。生徒にいい思いをさせたい。部活動で勝たせたい。困っている生徒を放っておけない。そういう教師自身の欲望と、学校や保護者が教師に期待するものとが、かなり幸福な形で重なっていた。だから長時間働けた。
いや、正確には、長時間働いているという感覚そのものが、いまほど強くなかったのかもしれない。仕事と仕事ではないものとの境界が曖昧だった。生徒と雑談する時間も、部活動の大会に行くことも、文化祭の準備をすることも、教師仲間と夜遅くまで学校について語ることも、勤務と言えば勤務だし、好きでやっていると言えば好きでやっている。そこには確かに無理もあったが、同時にかなり大きな裁量もあった。
現在、「教師の働き方改革」が叫ばれている。
勤務時間を減らさなければならない。部活動を地域へ移行する。会議を短くする。校務をICTで効率化する。教師でなくてもできる仕事は教師から切り離す。どれも必要なことだろう。
しかし、ここで一つ奇妙なことが起こっている。
教師には「働きすぎるな」と言う。その一方で、「一人ひとりの子どもに寄り添え」とも言う。
不登校の子どもには丁寧に対応しなければならない。いじめの小さな兆候も見逃してはならない。発達上の特性を理解しなければならない。家庭環境にも配慮しなければならない。子どもの自己肯定感を大切にしなければならない。保護者には十分な説明をしなければならない。子どもの声を聞き、個別に支援し、それを記録し、組織で共有しなければならない。
どれも正しい。
そして、どれも時間がかかる。
もしかすると、「金八先生」はもう古いのかもしれない。教師が一人の生徒のためにどこまでも走り回り、家庭にまで入り込み、ともに泣き、ともに苦しむ。そんな教師像をいまそのまま理想として掲げれば、「それでは教師がもたない」と言われるだろう。私自身も、若い教師にそんな働き方を勧めようとは思わない。
ところが不思議なことに、坂本金八という教師像を否定したあとにも、彼が背負っていた仕事の多くは学校に残っている。いや、それどころか、細分化され、制度化され、記録と説明責任まで伴って、以前より重くなってさえいる。
金八先生のように働いてはいけない。
しかし、金八先生のように子どもを見なければならない。
この二つの要求の間で、現在の教師は働いている。
私は「3年B組金八先生」を見ていない。だから、坂本金八という教師について語る資格は、熱心な視聴者よりずっと乏しいだろう。しかし、教師として三十年以上を過ごしてきて思うことがある。ドラマを見ていなくても、私たちの世代の教師はどこかで「金八先生の時代」を生きていたのではないか。そう思うのだ。
テレビの中の金八先生ではない。教師とは、子どものためならどこまでもかかわる人である――そんな教師像がまだそれほど疑われていなかった時代である。
3.善意から義務への変貌
教師になったばかりのころ、私はよく遅くまで学校に残っていた。
珍しいことではない。周囲の教師たちも残っていた。授業の準備をする。学級通信を書く。生徒と話をする。行事の準備をする。部活動を見る。私自身、土曜日の午後には演劇部の指導をしていたし、大会前になれば夜まで練習することもあった。いま振り返れば、ずいぶん長い時間を学校で過ごしていた。
しかし、不思議なことに、当時の私は現在ほど「働かされている」という感覚をもっていなかった。もちろん、若かったからということはある。体力もあった。独身でもあった。教師という仕事そのものが新鮮だったということもあるだろう。しかし、それだけではないように思う。
当時の学校には、いまと比べればかなり大きな「余白」があったのである。
例えば、生徒と放課後に一時間話したとする。その一時間について、記録を残せと言われることはなかった。誰と、何時から何時まで、どのような話をし、どのような支援を行い、今後どのような対応をするのか。そんな報告書を書く必要はなかった。生徒と話して、「じゃあ、また明日な」で終わることができた。
家庭に電話をしたとしても同じである。電話をして、保護者と話をして、自分の中で「ああ、そういうことだったのか」と納得すれば、それで終わることが少なくなかった。必要なら学年の教師に「昨日、お母さんと話したんだけどさ」と伝える。それで情報共有が成立していた。
いまならそうはいかない。
記録する。共有する。管理職に報告する。必要なら関係機関につなぐ。保護者への説明内容を確認する。後になって「言った」「言わない」にならないように経緯を残す。いじめが疑われるなら組織として対応し、不登校なら支援方針を検討し、特別な教育的ニーズがあれば個別の支援について考える。
私は、昔の方がよかったと言いたいのではない。
むしろ、昔の学校があまりにも教師個人の力量や判断に依存していたことによって、見落とされた子どもはたくさんいただろう。教師に相談したのに十分に取り合ってもらえなかった子どももいただろうし、「それくらい我慢しろ」の一言で終わらされた問題もあっただろう。教師同士の雑談だけで情報共有を済ませていたために、重大な兆候が組織として認識されなかったこともあったに違いない。
だから、学校は一つずつ仕組みをつくってきた。いじめを見逃してはいけない。不登校を本人の弱さだけで説明してはいけない。発達上の特性を本人の努力不足と決めつけてはいけない。保護者には説明しなければならない。個人情報は適切に扱わなければならない。事故が起これば原因を検証し、再発防止策を講じなければならない。どれも正しい。少なくとも、昔の学校より現在の学校の方が、こうした問題に対して丁寧であろうとしている。そのこと自体を否定する理由はない。
問題は、「正しいこと」には終わりがないことである。
一つの事故が起これば、チェック項目が一つ増える。一つの見落としが社会問題になれば、新しい調査が始まる。一人の子どもが十分に救われなかったことが明らかになれば、同じことを繰り返さないための仕組みがつくられる。これも当然である。しかし、一度つくられた仕組みは、なかなかなくならない。こうして学校には、「やらなければならない正しいこと」が少しずつ積み上がっていく。
一つひとつは、それほど大きな仕事ではない。5分で済む入力もある。10分で終わる打ち合わせもある。年に一度しか行わない調査もある。「これくらいなら」と思えるものばかりである。ところが学校という組織は、この「これくらいなら」を何十年も積み重ねてきた。私は、ここに現在の教師の多忙感を考える鍵があるように思う。
かつての教師にも仕事は多かった。むしろ勤務時間だけを見れば、昔の教師の方が無茶な働き方をしていた部分さえある。私自身、若いころには現在ならとても認められないような時間まで部活動の指導をしていた。それでも、当時の仕事には自分で伸ばしたり縮めたりできる部分が多かった。今日はここまでにする。この生徒とはもう少し話していこう。明日の授業は少し凝ってみよう。この行事には力を入れよう。今週は疲れたから、これは来週に回そう。そういう判断を、教師自身がかなり自由にしていた。
つまり、仕事量は多かったが、仕事の密度を自分で調整できたのである。
現在は違う。期限がある。様式がある。記録がある。共有がある。説明責任がある。そして、それらの多くは「今日は疲れたからやらない」というわけにはいかない。
ここで、教師の「熱心さ」の意味が変わった。
かつて熱心な教師が自分の意思でやっていたことの一部が、現在ではすべての教師が当然にしなければならない仕事になっているのだ。
生徒の変化に気づく。話を聞く。家庭の状況を把握する。保護者と連絡を取る。他の教師と情報を共有する。必要な支援につなげる。金八先生なら、こうしたことを「生徒を放っておけない」という情熱によってやったのだろう。しかし現在の教師はそれを組織的にやる。しかもやったことを記録する。
この違いは小さくない。
教師個人の善意によって行われていた行為には、「やらない」という選択肢が残されていた。もちろん、やらなければ「あの先生は熱心ではない」と評価されたかもしれない。それでも最後のところでは本人の判断だった。
制度になった瞬間、「やらない」という選択肢は消える。善意は、義務になる。配慮は、手続きになる。熱心さは、標準になる。そして標準になったものは、すべての教師に要求される。
これは学校だけに起こっていることではない。社会は、誰かが傷つくたびに、その傷を二度と生まないための仕組みをつくる。企業も、病院も、福祉施設も、行政もそうである。安全管理、個人情報保護、ハラスメント防止、コンプライアンス。社会が成熟するとは、ある意味で、かつて個人の良識に任されていたものを制度によって保障するようになることなのかもしれない。
もちろんそれは進歩である。しかし、進歩にはコストがかかる。しかも、そのコストの多くは時間で支払われる。学校の場合、その時間を支払っているのが教師である。
だから「働き方改革」として会議を10分短くしてもなかなか楽にならない。校務支援システムを導入して入力時間を5分減らしても劇的には変わらない。部活動を一部地域へ移しても教師が感じている息苦しさのすべてが消えるわけではない。現在の学校を重くしているのは単純な仕事量だけではないからである。
「やらなくてもよいこと」を教師自身が選べなくなったこと。こちらの方が大きいのではないか。
1979年、「3年B組金八先生」が始まった。
坂本金八は、おそらく自分の意思で生徒たちの人生に踏み込んでいった。
それから半世紀近くが経った。現在の学校では、生徒の人生に踏み込むことに慎重であれと言われる。同時に、生徒一人ひとりの背景を理解し、困難を早期に発見し、適切な支援につなげよとも言われる。
教師個人の情熱には頼るな。
しかし、情熱的な教師がしていたほどのことは、組織として保障せよ。
そう考えると、金八先生の時代が終わったあと、学校から「金八的なもの」が消えたわけではないことがわかる。むしろ逆だったのだ。一人の熱心な教師が背負っていたものを、学校という制度そのものが背負うようになったのである。そして制度には、疲れたから今日はやめておこう、という日がない。
4.物語がつくる現実
私は「3年B組金八先生」を見ていない。
そして北海道民なのに、「北の国から」も見ていない。
考えてみると、この二つはよく似ている。
「金八先生」は学校を描いたドラマだった。しかし、長く語り継がれるうちに、単に学校を描くだけではなく、「教師とはこういうものだ」という教師像そのものをつくっていった。
「北の国から」もそうである。1981年に放送が始まったこのドラマは、富良野を舞台に北海道で暮らす家族を描いた。しかし、あそこで描かれた北海道は北海道の一部にすぎない。広大な自然。厳しい冬。都会とは違う不便な暮らし。その中で人間が助け合いながら生きていく。そうした物語が、いつの間にか「北海道らしさ」として受け取られ、定着していった。
北海道民である私からすれば、北海道で暮らしているからといって、誰もが丸太小屋を建てるわけではない。当たり前だ。それでも「北の国から」がつくった「北海道」は残った。
ここが面白い。ドラマは現実を材料につくられる。しかし、長く残ったドラマは、今度は現実の方を見るための眼鏡になる。教師を見れば「金八先生のような先生」が期待される。北海道を見れば「北の国から」のような「北海道」が期待される。現実から物語が生まれ、その物語が、今度は現実に「こうあってほしい」と要求し始めるのである。そしてその要求は意外にも強い。
教師は生徒に寄り添うものだ。困っている生徒を放っておかないものだ。子どもの人生にかかわるものだ。
北海道は自然豊かで、人間らしい暮らしがあり、都会が失った何かが残っている場所だ。
どちらも完全な嘘ではない。だからこそ厄介なのである。完全な嘘なら、「そんなものはドラマだ」と笑って済ますことができる。しかし、現実の一部を確かに捉えているからこそ、物語は現実以上に強くなる。そして、その物語から外れた現実の方が、「何か違う」と見られるようになる。
私は「金八先生」を見なかった。
「北の国から」も見なかった。
それでも、教師として「金八先生」がつくった教師像と無関係ではいられなかったし、北海道民として「北の国から」がつくった北海道像とも無関係ではいられなかった。人は、自分が見た物語だけに影響されるのではない。社会が共有した物語の中で生きるのである。
1979年10月26日、私は「3年B組金八先生」を見なかった。
たぶん、「太陽にほえろ!」を見ていた。
私が見ていた七曲署の刑事たちは、もう「刑事とはこうあるべきだ」という社会の基準にはなっていない。しかし私の見なかった坂本金八は、いまもどこかで「教師とはどうあるべきか」という問いの中にいる。
時代をつくるのは、その時代を生きたすべての人間ではない。
その時代から、何が残ったかである。
そして私たちはときに、自分が見なかったもの、経験しなかったものによってつくられた時代を生きている。生きざるを得ない状況に投げ込まれる。
今夜は、この一杯。
BOMBAY SAPPHIRE
青いボトルでお馴染みのロンドンドライジン。世界各地から集められた10種類のボタニカルを使っている。ジュニパーベリーの香りはもちろん、柑橘、スパイス、ハーブとさまざまな香りが立ち上がるが、私はこのジンに複雑な説明はいらないと思っている。甘めのジントニックが飲みたい。そんな夜はボンベイサファイアである。トニックウォーターはSchweppes。氷をたっぷり入れ、冷凍庫に入れておいたボンベイを注ぎ、Schweppesを静かに注ぐ。これだけでいい。以前紹介したSIPSMITH V.J.O.P.+FEVER-TREEが苦みを愉しむ大人のジントニックなら、こちらはもっとお気楽なジントニックだ。
風呂上がり。暑かった一日の終わり。まだウイスキーを飲む気分ではない。そんな夜の一杯目は、青いボトルに任せればいい。
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<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。筆者のnote→https://note.com/hirotsugu1966

