堀 裕嗣✕宇野弘恵 キャッチボール連載独自開発教材でつくる 渾身の「三つ星道徳授業」#8 「明烏」 by 堀 裕嗣

魅力的なオリジナル教材を続々と開発し、最先端の道徳授業実践を蓄積し続け る堀先生と宇野先生が交互にそれぞれの自信作を公開。さらには相手の教材開発と授業づくりについて解説し合う連載です。イメージしながら読むだけで感情と思考が大きく揺さぶられる傑作揃いです。
執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)・解説/宇野弘恵(北海道公立小学校教諭)
目次
1.授業の実際
「明烏」/D 感動・畏敬の念/対象学年:中学校3年生
1) 下田港を訪れた黒船
まずは1曲聴いていただきましょう。
こう言って、次の曲を歌詞を提示しながら1番だけ流す。最初から1:42までである。
どんな状況を歌った歌でしょうか。交流してみましょう。
生徒たちはまず「黒船」という言葉に反応する。しかも「下田港を訪れた黒船が」というフレーズである。歴史に興味をもつ生徒が交流をリードする。しかし、どんな状況を歌っているのかはわからない。
少しだけ交流させた後、
どうやら、この人が関係していそうですよね。
と言って、ペリーと黒船の画像を提示する。生徒たちはうんうんと頷いている。


「鐘鳴る了仙寺」というフレーズがありますが、「了仙寺」というお寺を知っていますか?
ほぼ全員が知らない。そこで写真を提示しながら説明する。


1854年3月31日、アメリカ全権ペリーと日本幕府全権・林復斎によって日米和親条約が結ばれ、下田は鎖国以来日本で最初の開港場となりました。
下田に入港したペリーは日本側と条約の細かい規定(日米下田条約)を定めました。その話し合いの場所となったのが了仙寺です。
2) 艶な姿は春の宵
「黒船」「下田港」「了仙寺」と歴史的な語句を拾ってきたところで、私は歌詞の中に一人の女性が描かれていることに改めて目を向けさせた。
しかし、この曲には「女性の匂い」がしますよね。
と同時に、1番の歌詞のうち、「乙女は悲しみを御国のためと知る」「駕篭で行くのは時代に翻弄ばれた眉目清か麗しい女性」「泣けば花散る一輪挿しの艶な姿は春の宵」を赤にする。
黒船来航において、女性が活躍したという話を聞いたことがありますか?
生徒たちは首を横に振る。「聞いたこともない…」という表情だ。
そこで写真を提示する。

この女性は俗に、「唐人お吉」と呼ばれている女性です。
3)「唐人お吉」の人生
ここで、スライドを読み上げる形で「唐人お吉」こと「斎藤きち」の人生を追っていく。
斎藤きち
1841年 生まれ
1847年 村山せんの養女となり、芸妓の稽古を始める(6歳)
1855年 下田で芸妓となる(14歳)
「明烏お吉」と名乗ったきちは、あどけない少女の面影を残しながら芸は一流、客の扱いも誰よりうまく、幕府や各藩からは、重要な役割を帯びた侍たちが競うようにお吉を座敷に呼ぶようになった。
なんにでも興味を抱くお吉は、侍たちから自然と世の移り変わりを聞き、信じがたいことに侍の話の輪の中に加わることもあったと言う。

数年前に日米和親条約が締結、玉泉寺にアメリカ総領事館が置かれ、総領事タウンゼント・ハリスがさらなる開港を訴えるなど日本側との交渉に当たっていた。
1857年 お吉16歳
お吉は将来を誓い合った船大工鶴松と充実した毎日。養母せんは病死、実父市兵衛も病死したものの、実母と姉夫婦と幸福に暮らしていた。
そんななか、総領事タウンゼント・ハリスが体調不良となり、看護人を求めていると言う。当時、「看護婦」という概念を持たぬ日本人は、ハリスがいわゆる「妾」を要求していると考え、容姿にも頭脳にも優れたお吉に白羽の矢が立つ。
お吉は当初固辞したが、座敷の客でもあった奉行所伊佐新次郎も諦めない。
「こんなことは誰にでも頼めることではない。お前を賢い女と見込んで頼むのだ。もちろんこのことは口外されては困る。その代わり、一生かかっても手にすることのできないほうびをやる」
「お吉、これはお国のためであるぞ。残念じゃが、異人と今、戦になれば、大勢の人間が死ぬ。勝てる見込みはないのだ。そうなれば、お前の家族、周りの人間、この下田も、ただでは済まぬのだぞ」
ある日、伊佐はお吉の家に来て、家族の前で数十両の金を積んで説得。
母親は、
「いい話じゃないか。考えてみたらどうだい?」
数日後、お吉は奉行所に呼ばれると、そこには将来を誓い合った鶴松もいて、侍に取り立てられることと引き換えにお吉をハリスのもとへやることを承諾したと言う。
伊佐は、自らの脇差をお吉の前に置き、
「お吉、私と、後ろに控えている者たちは、お前がハリス殿のもとに行ってくれなければ、この場で腹を切る覚悟で来ているのだ」
お吉は背筋を伸ばし、伊佐をまっすぐに見つめ、
「伊佐様、わかりました。お吉は参ります」
5月22日。お吉は、ハリスの滞在する玉泉寺に籠で出向く。
お吉の籠を大勢の村人が取り囲んでいました。
しかも、村人たちはお吉に石つぶてを投げつけました。
なぜ、こんな扱いを受けることになったのでしょうか。交流してみましょう。
生徒たちにとって、この問いについて考えるための情報はない。話が長くなってきているので、少しだけ発散させることを目的としている。また、後のこんな扱いを受ける所以を印象づけるための交流でもある。従って、この交流は30秒ほどで切り上げる。
三つの理由があります。
①伊佐がお吉の決意が揺らがないようにと、「お吉は金に目がくらんでハリスのもとに行く」という噂を流した。事実、支度金25両、年120両の契約だった。
②当時は「攘夷」運動が盛んで、異人を日本から追い出せという機運真っ盛りだった。
③当時は若い女性が生活の苦しさから異人に近づき、「あいのこ」を生んでは間引くということが繰り返され、異人は庶民から忌み嫌われていた。
「唐人」とは、「お前は日本人ではない」という意味です。
要するに、「唐人お吉」とは、「日本人ではない人、お吉」という意味。
「ラシャメン」とは、「洋妾」という意味です。要するに、異人の妾です。
「ラシャメンお吉」とは、「洋妾お吉」という意味。
この差別は、お吉がハリスのもとを辞して以降も続き、お吉のその後の不幸な人生を決定づけたと言われています。
お吉はその後、稲生沢川に入水自殺していますが、差別はお吉の死後も噂として続いたと言います。
生徒たちはシーンとしている。開国の歴史の裏にそんな悲劇があったのかと、圧倒されている表情である。その静かな教室に再び、サザンオールスターズの「唐人物語」をフルコーラスで流す。もちろん歌詞を添えて。
音源:https://www.youtube.com/watch?v=F9oPU1y18DE
歌詞:https://www.uta-net.com/song/38626/
原 由子の美しい声が印象的なメロディに乗って生徒たちの心を打つ。
感想を交流しましょう。
生徒たちの静かな交流が始まる。
4) 生徒たちの交流が終わりかけた頃、おもむろに次の写真を提示する。

この写真は、幕末から明治にかけて、横浜の写真館を中心に出まわった写真です。主に外国人への土産物として流通しました。
そして、先の「唐人お吉」とされる写真も並べて提示する。

この「斎藤きち」とされる写真は、横浜の土産物の写真をもとに後に捏造されたものと思われます。
そもそも当時の下田には写真技術がありませんでした。
現在流布している「唐人お吉」の物語は、1928年、十一谷義三郎(じゅういちや・ぎさぶろう)の小説をもとにしています。要するに創作なのです。
実在した斎藤きちは、タウンゼント・ハリスのもとへ派遣される際、「異人だって人。とって食われるわけじゃない」と快諾したと伝えられています。
しかも、5月22日にハリスのもとに行ったきちは5月25日、つまり3日後には帰されています。記録によると、きちの身体に腫物があったことが要因とのことです。
きちと鶴松は、実際には1868年、きちが27歳のときに横浜で所帯をもっています。しかも、鶴松の酒癖の悪さと度重なる不倫で1874年に離別してもいます。
斎藤きちはその後、唐人結いの髪結いとなったり、安直楼という料理屋を開いたり。
しかし、どれも長く続かず、長い飲酒が祟って脳梗塞で半身不随になり、最後は周りに施しを受けるような生活となり、稲生沢川で不慮の事故死を遂げたとの説が有力です。
歴史は、人々にとって心地よい「物語」として語り継がれる。
私たちの知っている歴史は、ほんとうに史実なのでしょうか。
歴史を彩るスターたちは、ほんとうにスターだったのでしょうか。
思ったこと、考えたことを交流してみましょう。
生徒たちのあっけにとられた表情が、実は「学び」につながるのだと確信している。
2.この授業をつくるにあたって
まだコロナの余韻の残る夏休みのことだった。
私はこの夏休みに既に書籍を4冊執筆して疲れていた。その日は一日、休むことに決めた。2、3のセミナーがあったとはいえ、執筆以外には何もすることのない夏休みである。私はベッドに横たわり、サザンオールスターズのベスト盤「海のOh、Yeah!!」を聴き始めた。しかも、珍しく歌詞カードを繰りながら。
8曲目。原由子の美しい歌声とともに「唐人物語」が流れ始める。かつてアルバム「さくら」(1998年10月)に収録されていた曲である。なんとなく美しい曲だな…とは感じていたが、歌詞をちゃんと追ったことはなかった。それが二十数年の時を隔てて私の中に立ち上がってきた。
「なんだこれは。意味がまったくわからない…」
すぐにPCに向かい、検索をかけた。すると、「唐人お吉」なる人物をモデルにしていると言う。Wikiで調べると、歴史に隠れた唐人お吉の人生も見えてきた。
これは授業になる!
そう確信した私は、Amazonで唐人お吉に関する書籍をすべてポチッた。10冊以上あった。中には絶版になっていて1万円以上するものもあったが、構わないと思った。届いた順に読んでいった。書斎でも、ベッドでも、トイレでも、学校でも読み続けた。それほどに唐人お吉は私の心をつかんでいた。
私は「唐人お吉」に夢中になった。しかし、私がこの人物に惹かれた理由は単なる「悲劇性」ではなかった。
①「かわいそうな女性」の物語として始められる。
②幕末の開国・攘夷という社会背景に広げられる。③差別という問題にも接続できる。
④そして最後には「その物語自体が史実なのか」というところにまで持っていける。
要するに、生徒たちの「世界観」を広げることに寄与し得る。つまり一人の女性の人生を入り口にして、幕末という時代へ、差別という問題へ、そして最後には「歴史とは何か」という問いにまで、生徒たちの視野を広げていくことができる。そんな題材とはなかなか出会えるものではない。
私は、この題材なら授業ができると思った。いや、正確に言うなら、この題材なら「一つの答えを教える授業」ではなく、生徒たち自身が、知っていると思っていた「世界の見え方」を少しずつ変容させていく授業ができると思ったのである。
しかし、教材として魅力的だからといって、これをそのまま授業にしてはいけない。むしろ、魅力的であるからこそ、慎重に扱わなければならない。
唐人お吉の物語には、どうやら後世につくられたイメージや伝承が数多く入り込んでいる。悲劇的な女性として語られる「唐人お吉」が、果たしてどこまで史実に基づくものなのか。そこを曖昧にしたまま、「かわいそうな女性の物語」として子どもたちに提示してしまえば、私は自分が最初に惹かれたその物語を、ただ再生産するだけになってしまう。
この授業ではまず、サザンの「唐人物語」を聴かせる。これは、生徒たちにも私が最初に感じたような「なんだこれは」という課題意識を抱かせるためである。
ただし、そこで終わらせない。「唐人お吉」という答えをすぐに教えるのではなく、そこに「黒船」にかかわる問いと「女性」にかかわる問いとを重ねていく。すると、最初は漠然としていた「なんだこれは」という違和感が少しずつ具体的な疑問へと変わっていく。つまり、子どもたちに最初から課題を与えるのではなく、まず「わからない」をつくる。そして、その「わからない」を複数の角度から揺さぶることで、「もっと知りたい」「なぜ、こうなったのだろう」という問いへと育てていくのである。要するに「問いの質」を高めているわけだ。
この導入があるからこそ、その後の「唐人お吉」の悲劇の物語が説得力をもつ。物語を吸い込もうとする「構え」が生徒たちにできているのだから、あとは淡々と経緯を説明するだけで十分なのである。お吉の悲劇性はより強く生徒たちの中に刻まれる。更に「唐人物語」を再び、フルコーラスで聴かせることによって、お吉の人生とこの曲とが強固に結びつく。
普通の道徳授業ならここで終わる。悲劇の女性とそれを曲にしたソングライター。いい話である。
しかし私は、いい話を授業化したいわけではない。生徒たちに「感動物語」を与える授業、生徒たちに「カタルシス」のみを与える授業を私は忌避している。ここでは生徒たちにとって、先生の術中にまんまとはめられた自分の浅はかさを感じてほしい。
「そうか、自分はこの物語にまんまと感動させられていたのか」と。
こうしたお涙頂戴の感動物語や、それにともなうカタルシスによる満足感は、世の中にあふれるほど存在する。だからこそ、それを見抜く力、それを疑う力、「ほんとうにそうなのか」と思考し続ける力が必要なのだ。この授業で私が子どもたちに手渡したいのは、唐人お吉についての一つの答えではない。目の前に差し出された「わかりやすい物語」を、そのまま信じてしまわないための眼差しなのである。
起承転結。
私は「起承転」までを提示して、「結」は自分で考えなさい、自分で見つけなさいという授業をよく構想する。この授業は、その最たるものである。教師が「唐人お吉の真実」を最後に教えて終わるのではない。そこまでの物語を受け取った自分自身が、何を信じ、なぜ信じたのかまで含めて、自分なりの「結」を見つけるのである。
「堀先生の授業は最後まで何が起こるかわからない」
この思いが、実は授業を受ける「構え」をつくっていく。
何かを教えてもらうために授業を受けるのではない。次に何が起こるのか、自分の見方がどこでひっくり返されるのかを警戒しながら授業を受ける。その「構え」こそが、子どもたちを受け身の学習者ではなく、自ら考え続ける学習者にしていくのである。
さて、私の「唐人お吉」への興味はいまなお続いている。先般はセミナーの合間にレンタカーを借りて下田に赴き、「お吉」ゆかりの地を巡ってみた。下田には「お吉」の名のついた地名が幾つもある。名物のキンメダイをいただきながら、かつてこの地で斎藤きちが抱いた喜怒哀楽を想像する時間は思いのほか愉しいものであった。授業で用いた了仙寺の写真も私が撮ったものである。
本を読み、取材に赴き、授業に使えそうな素材を豊富に集めたとき、人はどうしてもそのすべてを使いたくなる。しかしその思いが授業を濁らせる。文章を書くのも、授業をつくるのも、大切なのは「何を拾うか」ではない。「何を捨てるか」なのである。
