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堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s  Bar 一杯分だけ、話そうか。#9原爆忌、うつくしき油断、そして教育

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堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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堀 裕嗣 なら、ここまでやる!国語科の教材研究と授業デザイン
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣
連載「一杯分だけ、話そうか。」バナー

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による新連載第9回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的、歴史的視野に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。

執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1.できるけど、やらない

1945年8月6日。ヒロシマ。

この日、人類は、自らの「知性」が自らの「倫理」よりも速く進歩することを思い知らされた。その「知性」の象徴である科学技術が、この日、数十万の命を一瞬で奪い、生き残った人々にその後何十年にもわたる苦しみを残した。

その日から80年余りが過ぎた。人類の「知性」は更に驚くべき速度で進歩した。しかしその一方で、人類の「倫理」はその速度に追いついているか。各国の為政者たちの「倫理」が、80年前と比べて飛躍的に進んだと言えるか。ドナルド・トランプは? ウラジミール・プーチンは? 習近平は? ベンヤミン・ネタニアフは? トルーマンよりも高度な倫理観を身につけているのだろうか。いや、為政者だけではない。私たち自身が80年前の人々に比べて、科学の進歩にふさわしい「倫理」を身につけてきたかという問いである。

この80年、人類は「できること」を驚くほど増やしてきた。しかし、「できること」と「してよいこと」は同じではない。その境界を判断する力は、それに追いついただろうか。「知性」とは言わば「できること」を増やす力である。そして「倫理」とは「してよいこと」を見極める力と言えるだろう。とすれば、私には、この問いに楽観的な答えを出すことができない。

核兵器は、しばしば「科学の失敗」と語られる。しかし、それは正確ではない。原爆は突然現れた悪ではない。

科学者は「できるかどうか」を追究した。政治家は「使えるかどうか」を考えた。軍人は「勝てるかどうか」を考えた。科学が失敗したのではない。科学自体は成功したのである。失敗したのは、その成果をどう扱うかを決める人間の「倫理」だ。「できるかどうか」「使えるかどうか」「勝てるかどうか」だけを考え、「使ってもよいか」という問いが置き去りにされたのである。この「使ってもよいか」という問いを自らに向けること、これこそが「倫理」なのである。

原爆の日は犠牲者を悼むだけの日ではない。人類の「知性」が再び人類の「倫理」を追い越してしまっていないか。それを、私たち自身が自らに問い返す日なのである。8月6日、そして8月9日。私たちは少なくともこの両日、「知性」が「倫理」を追い越してはいないかを、自らに問い返さなければならない。「できること」が多くなればなるほど、「してよいこと」を問い続ける責任は重くなるのだ。

もちろん、マンハッタン計画に携わった科学者のすべてが、その使用を無条件に肯定していたわけではない。完成した原爆を実戦で使用すべきかどうかをめぐっては、科学者の間でも議論があった。しかし、その議論は「できる」という事実を覆すことはできなかった。一度手にした力は、「使うべきか」という問いよりも、「どう使うか」という議論へと人々を導いてしまう。

原爆投下を正当化する理由は、当時も数多く語られた。戦争を早く終わらせるためだった、日本兵と米兵双方の犠牲を減らすためだった、ソ連への牽制だった―。その是非はいまなお議論の対象である。しかし、私がここで問いたいのは、その歴史的評価ではない。

私が問いたいのは、圧倒的な力を手にした人間にとって、その力を前にして「使わない」という選択がどれほど難しくなるか、ということである。おそらく人類の歴史は、一度「できる」ようになったことを、「できるのに、やらない」という選択によって封印できた例を多く持たない。

核兵器はその象徴である。だから8月6日・9日は、「被害」を思い出す日であるだけではなく、人間が一度手にした力を、本当に制御できる存在なのか、を問い直す日なのである。

2.見極め、選り分ける

石垣りんに「挨拶」(1968年/『石垣りん全詩集』石風社・所収)という詩がある。その結末は次のように締められる。

この詩は人間が、「自分に破滅が近づいているときほどそれに気づかないものだよ」と私たちに語りかけている。それに気づかない善き人たちは確かにやすらかで、美しい。しかし、彼女の言う「午前八時一五分は毎朝やってくる」は、8月6日を忘れるなということだけに止まらない。8:15AMは、毎朝やってくるのだ。

私たちは毎日、新しい「できること」を手にする。そのたびに、「してよいこと」を問い直さなければならないのだという、彼女の悲痛な叫びであると私には思える。見きわめなければならない。えり分けなければならない。石垣りんのこの二つの言葉こそ、「倫理」の本質なのである。「倫理」とは、この問いを自らに向け続け、見極め、選り分ける営みに他ならない。

3.道徳じゃなく、倫理だ

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