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堀 裕嗣+宇野弘恵が厳選&解説! 発見!珠玉の道徳授業 #4 「動物の安楽死について考える」 by 香田健太郎

連載
堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣

北海道公立小学校教諭

宇野弘恵

独自開発教材を用いた道徳授業研究の第一人者である堀裕嗣先生と宇野弘恵先生が、全国各地で登壇するセミナーツアーの中で出合った素晴らしい道徳授業を紹介する連載です。毎回、お二方が執筆する授業解説付きでお届けします。堀先生と宇野先生の「授業の見方」も学べる連載です。

今回の執筆者/香田健太郎(大阪府公立小学校教諭)

1 授業の実際

「動物の安楽死について考える」/D 生命の尊さ/対象学年:小5以上

馬にとっての「幸せ」を考えさせる

「あなたはどんな時に幸せを感じますか?」

この問いに対して、子どもたちは口々に、おいしいものを食べたり、友達と遊んだり、のんびり過ごしたりといった、自分にとっての幸せを教えてくれます。

次に、馬のイラストを提示し、次のように問います。

授業で使うスライドその1 馬のイラストと「どんな時に幸せを感じますか?」という問いが示されている。

「では、馬はどんな時に幸せを感じると思いますか?」

わからなくて当然の問いですが、子どもたちは「自分にとっての幸せ」を基準に、さまざまな意見を出してくれます。

ここで教師が、草食動物である馬も人間と同じように、おいしいものを食べたり、仲間と過ごしたり、のんびり過ごすことが好きであることを伝えます。さらに、馬は広い牧場で走ることが大好きであることを明かします。高学年であれば「競馬」の存在を知っているので、走る馬のスピード感をある程度想像できます。

② サイレンススズカの最期から、「安楽死」の存在について知る

競走馬 サイレンススズカを紹介します。
90年代を代表する名馬であるサイレンススズカの能力の高さを共有し、レース(1998年11月1日 天皇賞・秋)の映像をみせます。

映像:沈黙の日曜日 サイレンススズカ 天皇賞・秋(0:55〜4:07)
https://www.youtube.com/watch?v=QT4MSb_TWdw

映像では、他馬を大きく引き離して先頭を走るサイレンススズカが、突然バランスを崩し、競走を中止してしまいます。

映像が終わったら、子どもたちに次のように説明します。

この時、サイレンススズカは左前脚を骨折しました。
骨折は非常に重く、治療をしても回復する見込みがない「予後不良」と診断されました。
そして、その日のうちに、死んでしまいました。

「骨折で死んでしまった」と聞き、子どもたちは驚き、混乱します。

続けて、こう説明します。

サイレンススズカは、骨折そのもので死んだのではありません。
獣医師による安楽死の処置によって、その命を終えました。
回復の見込みがないから、投薬によって命を終わらせる。これが安楽死です。
サイレンススズカだけではありません。現在も、競走中などに重いけがを負い、予後不良と診断される競走馬がいます。

ここでいう「予後不良」とは、けがから回復する見込みが極めて低く、安楽死の処置が適当であると獣医師が判断した状態のことです。
子どもたちからは「なんで」「ひどい」「かわいそう」といった反応が返ってきます。

③ 「骨折した馬を安楽死させる」ことの是非を問う

次のように問います。

「骨折した馬を安楽死させることに、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」

反対派の子どもからは「骨折が治ってまた走れるようになるかもしれない」「治らなくて、走れなくなっても、生きていくことはできる」といった意見が出ます。

一方で賛成派の子どもから「走ることで幸せを感じる馬にとって、骨折は辛いことだから、死なせてあげる方がいい」といった意見が出ることもあります。

つまり、①で考えた「馬にとっての幸せ」が、ここでの判断材料のひとつとなります。
当然ですが、ここで教師がどちらかの意見に深く同意したり、どちらかを正しいと価値づけたりはしません。

④ 「安楽死」が選択される理由を知り、再度、安楽死の是非を問う

この時点ではまだ子どもたちは、なぜ競走馬に安楽死という選択がなされるのかを十分に知りません。

そこで、なぜ安楽死という選択がなされるのかを、過去に安楽死の選択を迫られた3頭の競走馬を例に挙げながら、説明します。

1、競走馬マティリアルの場合

レース中に骨折をしたマティリアルは、安楽死させずに手術を選択。手術は成功したが、術後の痛みからくるストレスにより大腸炎を発症。大量に出血し、死亡。5歳だった。
2、競走馬アドマイヤキッスの場合

レースに向けたトレーニング中に骨折をしたアドマイヤキッスは、安楽死させずに手術を選択。
手術は成功したが、療養中に激しい腹痛を起こして暴れ、新たに右前脚を骨折。このまま生きていくことは困難だと判断され、安楽死させた。5歳だった。
3、	競走馬サクラローレルの場合

レースに向けたトレーニング中に骨折をしたサクラローレルは、安楽死させずに手術を選択。
手術は成功。その後レースにも復帰し、6歳で競走馬を引退。
その後、600頭を超える産駒を残し、29歳で老衰のため死去。

つまり、安楽死を選ばず治療し、その後長く生きた例もあるということを子どもたちに伝えます。

そして再度、問います。

「骨折した馬を安楽死させることに、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」

はじめに問うた時と比べ、すぐには答えを出せず、考え込む子どもも見られました。

ここで教師は、簡単に結論を出さなくてよいことを伝えるといいです。非常に重いテーマでもあるため、子どもの実態に応じて、全体交流ではなく個人で考える時間や少人数での交流に切り替えることも考えられます。

⑤ 安楽死を「決める側・行う側」に目を向け、再度、安楽死の是非を問う

実際に安楽死の判断や処置に関わる獣医師の話を紹介します。

赤ちゃん馬の頃から
エサをあげたり、優勝するために
何年もトレーニングしたり、お客さんと
楽しい思い出を作ったり…苦楽を共にした“家族”や“友達”のような存在。
そんな馬を自分の手で安楽死させるのは本当に辛い。
安楽死させる時、馬が『何が起きてるの?』という様子で“ジッと”僕を見る。
そして頭をおさえながら
安楽死の処置を始めると
悲しい目をして僕を見るんです。
『どうしたの?』
『なんでそんなことするの?』と言われているような気分でした。涙を抑えられませんでした。
それが心に残っていて、今でも思い出すと、すごく辛いです。
こればかりは、何度経験しても、決して心が慣れることは
ありません。
心の中でいつも
『もっとやれることがなかったか』『次に生かせることはないか』と反省をしています。
安楽死した後は必ず手を合わせて、「本当にお疲れさん」「ゆっくり休んでね」と言って
お線香をあげています。

授業に使うスライドその2 競走馬に関わる人たちにとっての安楽死
授業に使うスライドその3 獣医師の話
授業に使うスライドその4 獣医師の話の続き

ここまでは、安楽死を受ける側である競走馬にフォーカスし、人間の行動や気持ちにはあえて触れてきませんでした。ここで獣医師の話を紹介したのには、安楽死を受ける馬だけではなく、その判断や処置に関わる人間側にも目を向けさせる意図があります。

安楽死の処置を行う獣医師にとっても、それは決して簡単な選択ではありません。そこには、何度経験しても慣れることのできない葛藤や、「もっとやれることはなかったか」という思いがあることが見えてきます。

そして再度、問います。

「骨折した馬を安楽死させることに、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」

安楽死の是非を問うのは、これが最後です。

もちろん、結論は出しません。というよりも、出せません。

⑥ 条件を広げ、「動物の命を人間が終わらせること」を自分事として考える

ここまでは、競走馬の安楽死について考えてきました。しかし、動物の命を人間の判断によって終わらせる場面は、競走馬に限りません。
そこで、ここからは少しずつ条件を変えながら、競走馬以外の動物についても考えていきます。
競走馬から家畜、動物園の動物、そして最後は自分のペットへ。自分の生活との距離を少しずつ近づけながら問いを重ねます。

・家畜の場合

まず、豚や牛、鶏などの家畜について考えます。
家畜の間で感染症が発生すると、感染が他の動物へ広がることがあります。その拡大を防ぐため、感染した動物だけでなく、状況によっては周囲の動物も殺処分の対象となることがあります。

そこで、次のように問います。

「感染症の拡大を防ぐために家畜を殺処分することに、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」

競走馬の場合、安楽死には「これ以上苦痛を長引かせない」という意味がありました。
しかし家畜の場合には、それだけではなく、感染を他の動物に広げないことや、人間の生活や食料生産を守るという理由も加わります。

ここでは、これまでよりも人間側の事情が強く関わってきます。競走馬が安楽死しても、多くの子どもたちの日常生活が直接変わることはほとんどありません。しかし、豚や牛、鶏は、普段自分たちが食べているものにつながっています。「動物を殺すなんてかわいそう」と感じる一方で、感染が広がり、自分たちの生活にも影響が及ぶとしたらどう考えるか。ここで、安楽死や殺処分という問題を、少しずつ自分の生活に近づけていきます。

・動物園の動物の場合

仮に次のような状況が起きたとします。
動物園で飼育されている大型動物について、飼育員や来園者、あるいは他の動物に重大な危害を加える可能性が高いと判断されました。
動物園側は、安全を守るため、その動物を殺処分することを検討しています。

そこで、次のように問います。

「他の動物や人間に危害を加える恐れのある動物を殺処分することに、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」

ここでは、「安全」という新しい条件が加わります。
まだ誰かを傷つけたわけでもない動物を、人間の判断で殺すことに抵抗を感じる子もいます。一方で、自分や家族が動物園を訪れたとき、その動物に襲われる可能性があるとしたら、「絶対に殺してはいけない」とも簡単には言えなくなります。

動物の命を守ること。人間や他の動物の安全を守ること。どちらも大切だからこそ、ここでも簡単には答えが出ません。

・自分が長年飼っているペットの場合

最後に、それまでよりもさらに自分に近い状況を提示します。あなたが長年一緒に暮らしてきた大切なペットが、大きなけがや病気にかかりました。治る可能性はほとんどなく、強い苦痛が続いています。獣医師から安楽死を勧められました。

そこで、次のように問います。

「あなたは、大切なペットの安楽死を受け入れられますか?」

ここでは、それまでの問いとは大きく状況が変わります。「苦痛を長引かせないため」という安楽死の理由を頭では理解していても、長い時間を一緒に過ごしてきた家族のような存在となれば、同じように判断できるとは限りません。

わずかでも助かる可能性があるのなら、安楽死を選びたくないと考える子もいます。反対に、これ以上苦しませたくないからこそ、自分が安楽死を受け入れなければならないと考える子もいます。

ここでは、「正しいかどうか」という理屈だけでは決められない、動物への愛情や思いが判断に深く関わってきます。特に、ペットを飼った経験のある子どもや、現在飼っている子どもにとっては、それまで以上に身近な問いとなります。

「大好きなペットを、自分の判断で死なせるなんてできない」と考える子もいれば、「家族だからこそ、苦しみを終わらせる決断をすることも必要なのではないか」と考える子もいます。

ここでも教師が一つの正解にまとめることはしません。

※ペットとの死別を経験した子どもがいる場合には、実態に応じて「ある家族が長年飼っているペット」など、第三者の設定に置き換えることも考えられます。

最後に「『命の選択』と自分なりにどう向き合うか。今日考えたことを書きましょう」と伝え、授業を終えます。

2 この授業をつくるにあたって

私が競走馬の安楽死というものを初めて知ったのは、小学校4年生の頃です。競馬中継を見ていて、「予後不良」「安楽死」という言葉を初めて聞きました。父からは、「馬にとって走れないことは人間以上に辛いことだから、大けがをしたら人間が早く殺してあげるんだ」というような説明をされた記憶があります。ただ、当時の私には、どうしても引っかかる部分がありました。

人間にとって、走れなくなった競走馬はいらないということなのか。人間の都合ではないのか。「生き物を大切にしよう」と教えられる一方で、人間が生き物の命を終わらせる。人間なら、治らない病気にかかったり、障害が残るようなけがを負ったりしたからといって、簡単に命を終わらせることはありません。それなのに、なぜ馬ならいいのか。

「人間ってひどいな」「大人ってひどいな」と感じる一方で、「でも、人間と馬は違うのだから仕方がないのかな」とも思っていました。

大人になって改めて調べていくと、当時知らなかった現実も見えてきました。治療を選んだことで、強いストレスや痛みに苦しみ、結果としてさらに辛い最期を迎えた馬がいること。安楽死の判断や処置に関わる人たちも、決して馬の死に慣れているわけではなく、深く心を痛めていること。それらを知った今、私は競走馬の安楽死という選択肢は必要だと考えています。安楽死を選ばなければ、かえって馬の苦しみを長引かせてしまうことがあるからです。

しかし、それで全部すっきりしたかというと、そうではありません。

この授業をつくる直接のきっかけになったのが、教科書教材「命の重さはみな同じ(東京書籍)」です。この教材では、瀕死の子犬に対して獣医師が安楽死を勧めますが、主人公は命を諦めずに救おうとし、結果として犬は助かります。

もちろん、命を諦めずに救おうとする姿には価値があります。しかし、現実には、安楽死を選ばずに治療したことで、より長く、より大きな苦しみを味わった末に死んでいった動物もいます。この教材だけを読めば、「安楽死させなくてよかった」と考える子どもも多いでしょう。

でも、本当にそれだけでいいのでしょうか。そこで私は、助かった例だけではなく、助からなかった例も見せたいと考えました。安楽死を選ばなかったことで苦しんだ馬も、安楽死を選ばずにその後長く生きた馬も見せる。そして、「あなたは安楽死に賛成? 反対?」という問いを繰り返す。異なる結末を知れば知るほど、そう簡単には答えを決められなくなります。私は、その「分からなくなること」にも意味があると思っています。この授業は、そこから始まりました。

また、安楽死を受ける馬だけでなく、安楽死の判断や処置に関わる獣医師の思いも扱います。

子どもの頃の私は、「馬を殺す人間はひどい」と、かなり単純に考えていました。しかし、実際に馬に深く関わる人たちは、決して何の葛藤もなく馬の死を受け入れているわけではありません。精一杯手を尽くした上で、なおも「もっとやれることはなかったか」と考え続ける獣医師の姿を知ったとき、私は「もう十分やり切ったでしょう」と思いました。それでもなお、「もっとやれることはなかったか」と考えてしまうのは、それだけ本気で馬に向き合ってきたからなのだと思います。

そして、この授業では最後に、自分が長年一緒に暮らしてきたペットの安楽死についても考えます。ここは、この授業の中でも特に慎重に扱わなければならない場面です。実際にペットとの死別を経験した子どもがいるかもしれません。まだその悲しみの中にいる子どももいるかもしれません。そうした子どもにとっては、この場面が辛い時間になる可能性があります。それでも、この問いを入れたいと思いました。

競走馬の安楽死についてどれだけ真剣に考えても、多くの子どもたちにとって競走馬はやはり遠い存在です。「安楽死は必要かもしれない」「苦しませるくらいなら仕方がない」と、ある程度は理屈で考えることができます。しかし、それが自分の大切なペットだったらどうでしょう。これまで一緒に遊び、一緒に過ごし、家族のような存在になった動物に対しても、同じように「安楽死は必要だから」と判断できるのでしょうか。治る可能性がほんのわずかでも残っているのなら、「まだ何かできるのではないか」と思ってしまうかもしれません。これ以上苦しませたくないという気持ちと、まだ一緒にいたいという気持ち。その両方があるからこそ、きっと簡単には決められません。

安楽死について考えることは、辛いです。この授業をつくる中で、私は何度も競走馬の死について調べ、資料を読み返しました。何度読んでも辛い。気の毒だと感じます。

でも、だからこそ思うことがあります。今、自分の周りには、ペットをはじめ、たくさんの動物が生きています。これから先、新しく出会う動物もいるでしょう。その動物たちとも、いつかは別れる日が来ます。だから私は、今一緒にいられる時間を大切にしたいと思うようになりました。安楽死について考え続ける中で、私は「賛成か、反対か」ということとは別に、もう一つ大切なことがあるように思うようになりました。動物とどんな時間を一緒に過ごすのか。どんなふうに関わるのか、ということです。

授業を受けた子どもたちが、全員同じ結論にたどり着く必要はありません。「やっぱり安楽死には反対だ」と思う子がいてもいい。「安楽死は必要なことだと思う」と考える子がいてもいい。「分からない」と迷ったままでもいい。ただ、授業が終わった後に、今自分の近くにいる動物のことを少し思い出してくれたらうれしいです。そして「一緒にいられる今を、ちょっと大事にしようかな」と思ってくれたなら、この授業にも価値があるのではないかと思います。

重い授業である。

しかし、必要な授業である。

この授業の特徴は、「安楽死」という一見すると重く、しかも小学生には扱いにくいテーマを、単純な「命を大切にしよう」という結論に回収しないところにある。むしろ、考えれば考えるほど簡単には答えられなくなるように授業を構成している。私は、道徳授業において大切なのは、子どもたちを教師の想定する「正しい答え」に導くことではなく、これまで自明だと思っていた価値観を揺さぶり、「本当にそうなのか」と考え直す経験を与えることだと考えている。この授業は、その意味で「生命の尊さ」を真正面から扱った授業である。

授業の入口ではいきなり「安楽死」を問題にしない。まず「あなたはどんな時に幸せを感じますか」と問い、続けて「では、馬はどんな時に幸せを感じると思いますか」と問う。一見どうということのないやりとりにも見えるが、実はここにはこの授業の後半を支える重要な仕掛けがある。

子どもたちは、自分が幸せだと感じる経験を手がかりにして、馬の幸せを想像する。おいしいものを食べること、仲間と過ごすこと、のんびりすること、走ること……。もちろん、馬が本当に人間と同じ意味で「幸せ」を感じているのかを厳密に証明することはできない。それでも、動物にもその動物なりの快・不快や欲求があることを想像するところから、子どもたちは「動物の側」に視点を移していく。この自然に子どもたちを「動物の視点」に導いていく導入は、この授業の一つのポイントである。

その視点をつくったところで、サイレンススズカの最期を提示する。1998年の天皇賞・秋。圧倒的なスピードで先頭を走っていた馬が、突然、競走を中止する。ここで「骨折した」と伝えるだけではない。「その日のうちに、獣医師による安楽死の処置によって命を終えた」と事実を伝える。

子どもたちは大きな違和感を抱くはずである。「骨折したら殺すの?」「骨折なんて治せるでしょ」「どうして殺すの?」。そして、その違和感をそのまま最初の問いにつなげる。「骨折した馬を安楽死させることに、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」。

ここで重要なのは、教師が答えを用意しないことだ。「命は大切だから反対」という考えもあれば、「苦しみを長引かせないためなら賛成」という考えもある。どちらにも、それなりの根拠がある。しかも、その根拠を生み出しているのは、先ほど考えた「馬にとっての幸せ」である。走ることが馬にとって大切なことなら、走れなくなるほどの重傷を負った馬をどうすることがその馬にとって幸せなのか。子どもたちは、知らず知らずのうちに「人間の命」ではなく「馬の命の側」から問題を考え始める。

しかし、ここで終わらせないのが、この授業のもう一つのポイントである。

次にマティリアル、アドマイヤキッス、サクラローレルという三頭の競走馬を取り上げる。同じ「骨折」であっても、その後の運命は同じではない。安楽死を選ばず治療した結果、苦痛の末に死んだ馬がいる。一方で、治療後に再び競走馬として復帰し、その後も長く生きた馬もいる。

この三つの事例によって、子どもたちは「治療すればいい」「安楽死させればいい」という単純な二択では考えられなくなる。治療が必ずしも幸福な結末につながるわけではない。しかし、安楽死を選ばなければ必ず不幸になるわけでもない。つまり、結果を知っている私たちから見れば判断できることでも、その場にいる人間にとっては、未来の結果が分からない中で決断しなければならないわけだ。さてどうするか。どうすべきか。

だからこそ、二度目の「賛成ですか、反対ですか」は、一度目よりもはるかに重くなる。最初は簡単に手を挙げていた子どもが、今度は考え込む。私は、この「すぐに答えられなくなる瞬間」こそ、道徳授業における大切な学びの一つだと思っている。この段階に持っていけば、実は道徳授業は既に成功といって良い。既に子どもたちにとって当事者意識を与えているからだ。この問題が我が事のように切迫感をもち始める。

しかし、香田先生はここで更に、心憎いほどの演出を施す。ここで視点をもう一度反転させてしまうのだ。これまでは、安楽死を「受ける馬」の側から考えてきた。しかし実際には、その判断をし、処置を行う人間がいる。そこで獣医師の言葉が提示される。

「何が起きているの?」というような馬の視線を受けながら処置しなければならないこと。何度経験しても慣れることなんてないこと。「もっとやれることがなかったか」「次に生かせることはないか」と考え続けざるを得ないこと。そして、処置の後に手を合わせ、「本当にお疲れさん」「ゆっくり休んでね」と声をかけること。

ここで子どもたちは、「安楽死させる人」という一面的な人間像を崩されることになる。命を終わらせる側の人間もまた、その命を軽く扱っているわけではない。むしろ、馬に深く関わってきたからこそ、苦悩し、葛藤し、決断の後にも自問し続けることになる。

この事実を知った上で、最後にもう一度だけ「賛成ですか、反対ですか」と問われる。ここではもう、もはや結論を出すことなどできない。簡単な結論など出せようはずもない。子どもたちはある意味で追い込まれることになる。しかしそれは、人生にとって必要な「追い込まれ」である。

そして授業は、競走馬から家畜へ、家畜から動物園の動物へ、さらに自分のペットへと、少しずつ自分たちの生活に近づいてくる。感染症を防ぐための殺処分には「動物の苦痛」だけでなく、人間の生活や食料生産を守るという事情が加わる。危険な動物の殺処分には、人間や他の動物の安全という問題が加わる。そして、自分が長年一緒に暮らしたペットになれば、そこには「家族だからこそ苦しませたくない」という家族ならではの感情が加わっていく。

このように条件を変えながら同じ問いを繰り返すことで、子どもたちは「命を大切にする」とは何なのかを、少しずつ問い直さざるを得ない。命を大切にすることは、何があっても生かし続けることなのか。それとも、苦痛を終わらせるために命を終わらせることも、場合によっては命を大切にすることになるのか。人間の安全や生活を守るために動物の命を奪うことは許されるのか。大切な家族であるペットなら判断は変わるのか。

私自身、この問題について完全に割り切れた答えを持ってない。持てるはずもない。香田先生もこう語る。子どもの頃、競走馬の安楽死を知ったとき、「人間にとって走れなくなった馬は必要ないということなのか」と感じた。その違和感は、今でも消えていない。一方で、実際に治療を選択した馬の中に、治療そのものによってさらに苦しみ、命を落とした馬がいることも知った。だから私は、競走馬の安楽死という選択肢は必要なのだろうと思う。しかし、「必要だから仕方がない」と言ってしまった瞬間に、そこで思考は止まる。いったいどうすればいいのだ。

この授業が子どもたちに伝えたいのは、安楽死への賛否そのものではない。

「命を選ぶ」という行為の重さである。

私たちは日常生活の中で、たくさんの動物に囲まれて生きている。食べる肉も、身につけるものも、ペットも、動物園の動物も、すべて命をもった存在である。ところが、そのことを普段は強く意識しない。だからこそ、動物の命を人間が終わらせるという極限の場面を考えることによって、逆にいま、自分の周囲で生きている動物たちに目を向けることができるのではないか。

安楽死について考えることは、決して楽しいことではない。香田先生自身、競走馬の最期を調べ、何度も資料を読み返す中で、何度も辛い思いをしたことだろう。しかし、だからこそ、いまそばにいる動物と過ごせる時間を大切にしようと思う。しかしどんなに大切にしたとしても、いや大切にしたからこその判断の時がやって来るかもしれない。命の問題にはゴールがない。

「命は大切です」そう教えるのは易しい。しかし、「大切だからこそ、簡単に答えを出せない」を子どもたちに感じてもらう。授業を終えた子どもたちが、自分のそばにいる動物たちを少しだけ違った目で見て、「一緒にいられる現在(いま)を大切にしよう」と思ってくれたなら、それは「生命の尊さ」を考える、一つの確かな学びとなっているはずなのである。

「死」を扱う授業をつくる際には慎重にならなくてはなりません。ましてや、安楽死は人間の手によって命を終わらせる行為です。苦痛の軽減が目的ではありますが、人間が意図的に動物の命を終わらせるという事実に、中には「残酷だ」「かわいそう」と感じる子もいるでしょう。また、身近な人や大事なペットを亡くした経験をもつ子に苦痛を与える可能性もあります。動物を安楽死させるということに恐怖や嫌悪感を抱き、トラウマになる子も出ないとは限りません。こうしたことへの配慮も、教科書が安楽死を選択せず、結果として命が助かるという展開を採っている背景の一つなのかもしれません。

学習指導要領解説では、小学校3・4年生について「現実性をもって死を理解できるようになる」時期としたうえで、生命の尊さを感じ取らせることを求めています。一方、5・6年生になると「生死や生き方に関わる生命の尊厳」や「人間の誕生の喜びや死の重さ」など、より踏み込んだ内容を扱うことが示されています。この観点で教科書教材を読んでみると、「助かってよかった」で終えずに、「もし治療しても助からず、苦痛だけが続くとしたらどうか」「命を長らえさせることは、常に命を大切にすることになるのか」と問いを広げながら、「生命を諦めずに救おうとすることの尊さ」についてさらに深く考えることもできるでしょう。

しかし、教材だけでそこまで考えを深めることには限界があります。教科書には「安楽死させずに助けた」という一面しか提示されていないため、「助かってよかった」という美談に留まってしまうのです。いやいや、安楽死を勧めた獣医師と、それでも救おうとした主人公の判断の違いに着目すれば、教材をもっと多面的に生かすことは可能ではという反論もあるでしょう。そうであっても、実際の資料での対比の説得力には敵いません。教科書教材では、「安楽死させずに治療した結果、命が助かった」という一つの結末が示されています。そこから、「もし助からなかったら」「治療によって苦痛が長引いたら」と想像して考えることはできます。しかし、この「馬」の授業で示されるのは、想像の話ではありません。治療したものの苦痛の末に命を落とした馬、治療後に再び骨折して安楽死となった馬、そして治療によって回復しその後も長く生きた馬。どれも実際にあったことです。

「もし、こうだったら」と考えるのと、「実際に、こういう命があった」と知ったうえで考えるのとでは、子どもたちに迫ってくる問いの重さが違います。治療すれば助かるかもしれない。しかし、治療することで苦しませるかもしれない。安楽死を選べば苦痛から解放できるかもしれない。しかし、助かる可能性を人間の判断で閉ざすことになるかもしれない。どちらを選んでも、「命を大切にしている」と言える理由があり、同時に迷いが残ります。

だから、この授業では、事実を知れば知るほど答えることが難しくなっていきます。「助かってよかった」という一つの結末から生命の尊さを考えるのではなく、異なる結末を迎えた実際の命を前にして、それでも「命を大切にするとはどういうことなのか」と考えざるを得なくなります。そこに、この「馬」の授業の強さを感じるのです。

競走馬の安楽死について考えることは、「命を大切にするとはどういうことなのか」という問いを、さらに難しくさせていきます。命を長らえさせることが、その馬にとって本当に幸せなのか。苦痛から解放するために命を終わらせることは、命を大切にしていないことになるのか。治療すれば助かる可能性がある一方で、さらに苦しませる可能性もある。そのどちらになるのか分からない中で、人間は判断しなくてはなりません。

しかも、馬は自分の意思を言葉で伝えることができません。「生きたい」のか、「もう苦しみたくない」のかを直接聞くことはできないのです。結局は、人間が馬の苦痛や幸せを想像し、その命について決断することになります。だからこそ、安楽死を行う獣医師も迷い、苦しみます。この授業で獣医師の思いが取り上げられているのも、安楽死を「命を救うか、命を奪うか」という単純な二択では終わらせないためです。人間は動物の命をどこまで決めてよいのか。その判断は誰のためのものなのか。競走馬の安楽死を考えていくと、そうした問いからも逃れられなくなっていきます。

人間は、生態系のてっぺんにいるように錯覚しています。しかし、実際にはたくさんの生物に支えられなければ生きていけない存在です。それにもかかわらず、人間の都合で動物を飼い、人間の都合で利用し、ときには人間の判断でその命の期限まで決めています。もちろん、私たちが生きていく以上、動物の命とまったく関わらずに生活することはできません。食べることもそうですし、動物を飼うことも競走馬を走らせることもそうです。だから、人間が動物の命に関わること自体を否定することはできません。それでも、本当にそれでよいのかという問いは残ります。

競走馬も、人間がつくった世界の中で生きています。人間が馬を育て、人間が競馬という仕組みをつくり、人間が馬を走らせる。そして、大きなけがをすれば、人間が治療するか安楽死させるかを判断する。一見すると、それはずいぶん身勝手なことにも思えます。しかし、「それなら人間は動物の命に関わらなければよい」と簡単に片付けることもできません。私たちは、すでに多くの動物の命に支えられて生きているからです。食肉となる家畜もいれば、人間と暮らすペットもいます。動物園で飼育される動物も、競走馬もいます。人間と動物との関係そのものをなくすことはできないのです。

だから、この問題は「安楽死はよいか、悪いか」という問題ではないのです。人間は動物の命にどこまで関わってよいのか。人間が動物の幸せを決めることはできるのか。動物の命を利用しながら生きる私たちは、その命に対してどのような責任を負うのか。考えていけばいくほど、人間の側の都合だけでは答えられなくなっていきます。

一見無謀にも思える「競走馬を安楽死させることに賛成か、反対か」という問いは、こうして考えてみると、単に安楽死への賛否を問うものではないことが分かります。人間が他の生き物の命とどのように関わって生きているのか、その関わりの中で人間は何を決め、何を引き受けなければならないのか。馬の命について考えることを通して、命を大切にする生き方とは何かを考えることが、この授業の真髄です。

堀裕嗣先生

ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

宇野弘恵

うの・ひろえ。北海道公立小学校教諭。民間教育研修などに参加、登壇し、今日的課題や教員人生を豊かにすることを学んでいる。著書に『あと30分早く帰れる! 子育て教師の超効率仕事術』(学陽書房)、『スペシャリスト直伝!高学年担任の指導の極意』『伝え方で180度変わる!未来志向の「ことばがけ」』、『生き方を考える!心に響く道徳授業』(以上明治図書出版)など多数。

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