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【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第78回】今どきの教育と敗戦前の教育(その6) ─敗戦前の教育を振り返る(中)~子供を強く育てたいのだが─

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
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国語の授業名人・野口芳宏先生が、65年以上にわたる実践の蓄積に基づき、不易の教育論を綴る連載です。第2部では今どきの教育と戦前の教育とを比較吟味し、戦後80年の教育の功罪について考えていきます。今回は、「敗戦前の教育を振り返る」というシリーズの2回目です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、65年以上にわたり、教育実践に携わる。1996年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。

6、夏休み明けの子供・今どき事情

もう既に夏休みは終わって、三学期制の二学期が始まっているのだが、子供達はどのような二学期を送っているのだろうか。

8月の下旬には、「夏休み明けと不登校」に関連する話題がマスコミで多く取り上げられていた。その論調は、大方が「夏休み明けの期間を児童・生徒が安心して学校とのつながりを回復する期間」ととらえて、とにかく一言で言えば「大事に、大事に」「そっと、そっと」「温かく、優しく」迎えるべきだということに尽きるようだ。

某紙の記事の一部を引いてみよう。

「文科省は毎年、長期休業明けは、児童・生徒の心身の不調や自殺リスクが高まる時期であるとして、特別な見守りを強める通知を発出している。」──、気になる書きぶりだ。続けて──、「特に近年は児童・生徒の自殺が8月下旬から増え始め、9月に多くなる傾向が確認されている。」──とも書かれている。──いよいよ、気がかりだ。

さらに、私には読み流せない「気になる言葉」が目に付いて仕方がない。読者の皆さんには「気にならない」のだろうか。

夏休み明け、つまり、初日からの一週間ほどを意味する期間を指すのであろう。某紙の記事から引用、列挙してみよう。

ア、宿題の提出を急がない
イ、未提出を責めない
ウ、一人一人に声を掛ける

気になる「不登校」については、「登校できるようにする」よりも、

エ、保健室登校、別室登校
オ オンラインでの参加
カ、放課後のみ来校など、要するに
キ、学校とのつながりを維持する──という考え方に、「移行してきている」とある。

──というような具合なのだ。「夏休み明けに最も大切にしたいことは」として「学習を取り戻すこと」ではなくて、「安心して戻れる居場所を取り戻すことである」と述べている。今の大方の子供は弱者、と見ているようだ。

7、これで「勁草」が育まれるか

「疾風に勁草を知る」(後漢書)という言葉がある。「風に強い草。節操、意志の堅固なことのたとえ」と広辞苑にある。目に見える草はみんな同じように見えるが、一度(ひとたび)強い風が吹いてくると、大方の草はなびいて伏せてしまうが、強い草は凜として立っている。事が起こった時に、本物の強さが分かる、というたとえである。好きな言葉だ。某紙に目を通しながら、すぐにこの格言が思い浮かんだ。──これからの教育の行末が気がかりである。

ア、宿題の提出を急がない?
イ、未提出を責めない?

それは、教師として望ましいあり方だろうか。夏休みを、望ましく送るような「指導」はしたのだろうか。しなくて良いのだろうか。

アも、イも、「望ましい教師像」なのか。そのままにしておいて良いことなのか。もしそうなら、教師はいらないのではないか。

ウの「一人一人に声を掛ける」その「声」とはどういう言葉なのだろう。「いいよ、いいよ」「そのままでいいんだよ」と「声を掛ける」のだろうか。

「登校できるように」と「指導する」のではなく「支援する」ことが大事だというのはどういうことだろう。

エの、「保健室登校」「別室登校」というのは、「望ましい」のだろうか。「望ましい教育」の一つなのだろうか。

学校に行けないので「オンラインでの参加」をする子は、「残念だろうな」と私は思う。また、「放課後のみ来校」とはどういうことなのだろうか。「のみ」というところが余計気にかかる。これでは何の為の登校なのか、理解に苦しむ。出席扱いだけが目的なのだろうか。

私への反論、冷笑に遭いそうである。例えば、

ク、昔の子と今の子は違うのだよ。
ケ、弱い子、困っている子の心に冷たいぞ。
コ、現代の教育観を理解していない。古いよ。
サ、現代は、寄り添う、伴走する、見守る、包む、抱きしめる、共感、支援が肝要とされている。突き放し、強制は御法度なのだよ。

──というように、である。これら4つのような考え方、見方、受け止め方が、現代の常識、一般論であり、文科省も、教委もその方向に進み、励んでいると解してよいのだろうか。

上掲4項について、私は賛同しかねている。読者諸賢の考え方をぜひ批判の形で聞きたい。そういう議論がなされていないこと自体が問題ではないのか。

クの「昔の子供」と「今の子供」は、確かに「違う」と私も思う。だが、何が違うのか。どう違うのか。そこが肝腎である。

私が現代の「子供三悪」と呼んでいる内容は、「苛め、不登校、暴力」である。この「三悪」は子供にとっては「不幸」である。子供にとっての不幸が、ここ11年間に亘ってずっと「過去最多」つまり、増加の一途を辿っていると、文科省が発表している。「子供が、年々不幸への道を辿っている」ということは「重大事」なのに、あまり、問題視されていないのが私には残念であり不可解であり、黙っていられないのだ。

私は「子供三悪」は、子供からの「体を張った大人への告発」であり、「悲鳴だ」とも言っている。それが大人社会に伝わっていないのだ。それでいいのか。 上掲の「ク、ケ、コ、サ」の4項は、一見子供を正しく理解した良策のように見えるが、私はそうは考えない。このまま進めばいよいよ「子供三悪」は増え、「子供の不幸」は募るばかりだと考えている。それは、「子供を勁くする」という視点、着眼が全く欠落しているということである。このままでは「勁草」は育まれることなく全てが「弱い草」になっていくとしか思えない。

イメージ

8、勁草を育む本来の教育を

センセイ ガ、「チコクシテ ハ ナリマセン。」ト、イチロー ニ、イッテキカセマシタ。
オカアサン ハ、「センセイ ノ ヲシヘ ヲ、ヨク、オキキナサイ。」ト、イヒツケテイマス。
センセイ ノ ヲシヘ ヲ キカント、ヨイヒト ニ ナレマセン。

(第一期〈明治37年~〉文部省著作)

これは、『尋常小学校修身書 第二学年児童用』の「ダイ五」である。今からざっと120年前の「修身」の一節である。

何と簡潔、かつ明快なことか!と思う。これを声に出してみんなで読み、簡単な解説を教師が加えて終わったものだろう。当時の授業は、子供は姿勢を正して先生を注視し、先生の言うとおりに音読したり、書いたり、話を聞いたりという単純なものだったと思われる。それで十分効果を上げたのだ。

この教材に登場するのは、先生と母親と子供の3人で、子供は専ら受け身の聞き役に徹している。先生は戒め、母親はその指示に従えと教える。親は先生の教えを支持、補強しているし、子供はそれに従っていたのだろう。子供を「ヨイヒト」にすべく、学校も家庭も一貫した体制で教育していたのだ。

ここでは親も、先生も「子供を導く」側として働きかけ、「無知、未熟、未完」の子供は親と教師に全幅の信頼を寄せて傾聴し従っていたのだろう。その結果、子供は「ヨイヒト」になるべく成長していく。このように、先生や母親の言葉に素直に従うことが子供のあるべき望ましい姿として描かれている。

これこそが、「教育」のあるべき不易の望ましい姿であると私は考える。現代の教師も親も、子供も、かくありたいものである。

このように、不変不動の基本的な道徳性を、教師も親も共有し、一致して教えることによって、昔の子供は正と不正、善と悪とを峻別できる信念を身に付けたのだ。

子供を、望ましく、正しく善に導くことは、本来さほど困難なことではない筈だ。正を正とし、不正を不正として教えればよいのである。善を善とし、悪を悪と教えればよい。「三つ子の魂百までも」の諺のとおり、幼い時に正しく、確かなことを教えこみさえすればよいのである。

正しく、誤りなき道徳心、道徳性を身に付けさせた子供は、それを信念とする「自信」を持つ。そういう子供こそが「勁草」たり得るのだ。「千万人と雖も我往かん」の気概は、強固な意志と信念に支えられて成るのだ。子供の時に正邪の別を教えておくことは、その故に尊いのである。つべこべ言わせるのが流行しているようだが、それによって子供の道徳性が育つのだろうか。口先達者の言い訳巧者を育てる、それこそが「道徳教育の対極」になるのではないか。

9、現代の道徳教育論への強い疑問

次の二つの引用文を読んでみて欲しい。

「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」、──

多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」──

も、平成28年度12月の中央教育審議会の答申の中の一節である。平成29年7月刊の『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 総則編』の9ページに引用されている。この答申を踏まえ、「発達の段階に応じ、答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童が自分自身の問題と捉え向き合う『考える道徳』、『議論する道徳』へと転換を図るものである。」(『総則編』同ページ)──と解説されている。

下線が3箇所に引いてあるが、いずれも野口によるものである。
まずはの引用部への疑問である。「特定の価値観を押し付けたり」とあるが、そもそも「価値観」の個々は「特定」ではないのか。「誤った価値観」や「偏った価値観」は望ましくない。それは自明のことだ。例えは「遅刻をするな」というのも「特定」の価値観の一つではないのか。特定でない価値観とは、どんなものなのだろうか。

次に「押し付け」がよくない、とよく言われるが、「押し付けてもさせるべきだ」ということはいくらもある。「約束を守る」「納税する」「支払う」「返却する」「わびる」「弁償する」「手伝う」など、いくらもある。教育の中にも善の「押し付け」はあってよいはずだ。「登校」「下校」「宿題」「着席」「沈黙」「静粛」「起立」などなどは押し付けてもよいはずである。

「主体性をもたず言われるままに行動するよう指導する」のは、悪いことなのか。教師の言葉に対して「主体性をもって聞く」というのはどういうことなのだろう。「素直に聞く」「従う」「守る」のはいけないことなのか。そういう子になれという指導は、「道徳教育の対極」なのだろうか。「対極にある」と「言わなければならない」のだろうか。このように考えてくると、前節の8に引用した修身の教材の先生や親の教えも、一郎の従順さも望ましくないことなのか。             (以下次稿)

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shiro123@mail.shogakukan.co.jp

野口芳宏 先生

イラスト/すがわらけいこ 写真/櫻井智雄


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