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堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s  Bar 一杯分だけ、話そうか。#3 「他人からどう見えるか」の呪縛――「振る舞いモデル」が暴走する社会

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堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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堀 裕嗣 なら、ここまでやる!国語科の教材研究と授業デザイン
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による新連載第3回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回、最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。

執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1.「振る舞い」とアイデンティティ

2024年10月に北海道江別市で起こった大学生集団暴行による強盗致死事件は、読者の皆さんもよく覚えていることと思う。加害者の一人である八木原亜麻被告との別れ話のもつれから、友人の女子大生川村葉音、その他加害少年4人が加わり交際相手の大学生に数時間の暴行をはたらくとともに、現金やキャッシュカードを奪い、結果的に死に至らしめたという事件である。5月下旬から、加害者6人のうち罪を全面的に認めている男女3人の公判が行われた。判決は6月25日、川村葉音被告に懲役30年(求刑は無期懲役)、特定少年瀧澤海裕被告に懲役20年(事件当時18歳/求刑通り)、当時16歳少年に懲役9~13年の不定期刑(求刑は10~15年の不定期刑)が下された。

さて、報道によると、小学校教員を目指していたという川村葉音被告と裁判長との間には、結審の前にこんなやりとりがあったと言う(HTB)。

裁判長:人に暴力をふるっちゃいけない。それって小学生以前にわかんないといけないことですよね。

川村被告:その通りです。

裁判長:そんなことをしていたあなたがなれたのですか。

川村被告:……。

裁判長:あなたは何を教えたかったのですか。

川村被告:だめだよってことはだめって……。

裁判長:あなたはわかっていないじゃない。むかついたら暴力をふるうんでしょ?お金をとるんでしょ?

裁判官はかなり強い口調だったと言う。

私はこの報道を見て、FBにこんな投稿を上げた。

「正しすぎる論理」である。なんの生産性も発展性もない、ただ「正しい」だけの論理だ。事件当時二十歳になったばかりの教育学部の女子大生に、確固とした教育観などあろうはずもない。しかも誰でも言えるような、居酒屋談義のおっさんのようなお説教である。こんな人が人を裁く権力をもつ裁判官なのか。しかも裁判長なのか。こんな言い方は教師なら、小学生相手の生徒指導でもしない。わざわざ相手を答えようのない窮地に陥れようとしているだけだ。川村被告に同情しているわけではない。しかし、この裁判官のコミュニケーション力にも大きな難がある。少なくともこの裁判官が教師なら、1学期中に学級崩壊するだろう。

要するに、川村葉音被告に対する以上に、裁判長に腹を立てたわけである。

時代がちょうど21世紀を迎えたころ、我々日本人の在り方が「役割モデル」から「振る舞いモデル」へと移行した(斎藤環)。「役割モデル」とはある人物を認知したり評価したりするときに、その人物の「役割(=仕事や地位など)」を基準に判断することであり、「振る舞いモデル」とはそれを「振る舞い(=行動の在り方)」を基準に判断することである。

例えば、頑固で人の意見を聞かない、それでいて口の悪い大工の親方がいたとしよう。かつてなら、その親方の大工としての仕事さえしっかりしていれば、その頑固さや多少の口の悪さなどは問題とされなかった。その親方の評価は「大工としての仕事」で判断されるべきであって、その他は謂わば「付属物」に過ぎず、多少のことがあっても大目に見られていたのだ。しかし、現在はどうだろう。その親方がどんなに大工として緻密で美しい仕事をしていたとしても、その頑固さや口の悪さが原因で断罪されかねない。時には商売に影響を及ぼすほど致命的に評判を落とすこともある。その昔、態度の悪い政治家や経営者、家庭を顧みない芸人などが、その仕事さえしっかりしていれば尊敬を集め、親しみさえもたれていたのは、社会の人の見る目が「役割モデル」で形成されていたからなのである。

これが21世紀になったころから、人はどのような仕事をしているかを中心に評価される日常から、どのような行動をしているかで評価される日常へと少しずつシフトしていった。時を追うごとにその度合いが強くなった。結局、私たちは自分に与えられた使命をやり遂げること以上に、日常的にどう振る舞うか、他人からどう見えるかばかりを考えて生きるようになってしまったわけである。

よくテレビニュースで街頭インタビューに答える一般市民が登場するが、彼ら彼女らは同じような口調で同じように無難なことしか言わない。真面目そうなサラリーマンも、買い物に来ている大阪のおばちゃんも、金髪にピアスのヤンキー兄ちゃんと思しき青年も、みんな同じ口調、どこにでもありそうな無難な感想を口にする。それは本音で思っていることはどうあれ、こうしたインタビューではこのように応えることが求められているはずだという「振る舞い」を演じることに終始しているからである。これが「振る舞いモデル」社会の顕著な特徴といえる。

しかしそれも当然のことだ。振る舞いに問題があれば断罪されかねない世の中である。誰に見られるかわからないテレビ出演で、問題のある発言や行動を見せるわけにはいかない。私はまともですよ。たとえ賛否両論があったとしても、極端にどちらかに偏っている変人ではありませんよ。そうした立ち位置を「振る舞い」で見せなくては断罪される危険性があるのだから。

こうして誰もが常に人目を気にしながら振る舞う現在の世の中が形成されてきた。「俺は俺だ!」「私は私よ!」は決して許されない。職業に就き、いやいやながら、或いはよくわからないままに仕事をしているうちに「ああ、これは天職なのだ。これが自分の役割なのだ」とアイデンティティを獲得していく従来の「大人化」の在り方も見られなくなった。そりゃそうだ。どんなに仕事に充実感を感じ、これが天職かもと思っても、ちょっとした振る舞いが不適切と判断されれば断罪される世の中なのである。四六時中安定して適切な振る舞いをし続けられる人間などこの世にはいない。たとえ自分の役割を果たしていても振る舞いが悪いと断罪されるのならば、人は「適切な振る舞いをできない自分」を常に意識しながら、後ろ指さされないように生きることが第一義となる。生涯「アイデンティティ拡散」を生きなければならないわけだ。まったく、孔子もエリクソンもびっくりの世の中である。

さて、私は冒頭の報道を見て「川村葉音被告に対する以上に裁判長に腹を立てた」と書いた。私も最初は、なぜ自分がこんなにもこの裁判長を腹立たしく思うのか、よくわかっていなかった。しかしよくよく考えてみて、いまではこういうことだったのではないかと考えている。

この裁判長は自分の意見を表明するのに川村葉音被告に対する質問の形を採った。わざと答えにくい質問をして正義を盾に憤るという振る舞いを見せた。あたかも自身は「対話」しようとしたのに、川村被告が対話を成立させない答えを返したという構図をつくって。つまり、この裁判長は自らの裁判長としての「振る舞い」を周りに見せるために川村被告を利用したのではないか。それも「裁く側」と「裁かれる側」という圧倒的な立場の差があるにもかかわらず、である。私はこんなにも正義を司る立場の立派な人間である。それを示すために、圧倒的に立場の弱い者に向かって、取る必要もないマウントを取って見せたのである。そうでなければおかしいではないか。別に毅然として「あなたのやったことは私には許せないことだ」と言えば済む話なのだ。それが「役割」としての裁判官の仕事なのである。それをいかにも教え諭すように声をかけ、無意味に相手を追い込み、相手がまともに答えないからと激する演技をして見せる。私から見ればなんともいやらしい振る舞いである。私が「この裁判官のコミュニケーション力にも大きな難がある」と言うのも、こうした構造が見え隠れしたからなのだ。

2.「振る舞い」とエスカレーション

江別市の大学生集団暴行による強盗致死事件にも、実は同様の構図が見て取れる。

この集団暴行に加わった16歳の高校生は、警察の「なぜ加わったのか」との質問に「とても断れる空気感ではなかった」と答えたと言う。最近流行りのこの「空気感」という言葉がとても気に入らない(そもそも「空気」という言葉の中に既に「感」というニュアンスは色濃く含まれている)が、ここではそれは措こう。

この「断れる空気感ではなかった」という言葉自体に、おそらく暴行に加わった彼ら彼女らの意識が、暴行時において被害者の大学生に対してではなく、自分と同じ周りの加害者たちに向いていたであろうことが見て取れるのである。彼らは自らの「振る舞い」が周りに認められ、評価され、その評価が高まっていくのを感じたことによって、それぞれが自らの行動をエスカレートさせていったのではなかったか。つまりは、彼らは被害者の状況など見ておらず、周りの加害者たちの「空気感」だけを感じながら残酷な暴行を繰り返したのではなかったか。先の裁判長と川村葉音被告のやりとりに即して言うなら、加害者たちは自分の威勢の良さや気の大きさ、或いは年下の少年たちなら忠誠心を周りに示すために、被害者への暴力を利用したのではないか。そういう意味である。そもそも6人のうちの3人は被害者である大学生と面識がなく、この日初めて会っているのである。恨む気持ちもなければ憎む気持ちもない。そしてここにこそこの事件の残虐さがあるのだ。

先日、懲役20年の判決を受けた瀧澤海裕被告は、暴行のさなか、「ライダーキック!」と叫んで飛び蹴りをしたと報道されている。そして「それがみんなの暴行に勢いをつけた」と裁判でも証言したと言う。この笑いながら飛び蹴りする際の「ライダーキック!」という叫び声は、瀧澤被告にとっていったいに誰に聞かせるための掛け声だったのだろうか。それは被害者大学生であるはずがない。周りにいた仲間を喜ばさせるためであり、「俺っておもしろいだろ?」と自己承認を求めるためである。本物の仮面ライダーが「ライダーキック!」と叫ぶのが、ライダーキックを受けるショッカーの怪人に聞かせるためでなく、テレビ画面を食い入るように見つめる男の子たちに聞かせるためであるのと同じ構図と言える。

瀧澤被告は逮捕直後、警察官に向かって「俺、そんなに悪いことしたかな…」と呟いたと報道されている(事実、直接的な暴行は「ライダーキック」を含めて五発程度だったらしい)が、本人にこれほど罪の意識がないのも直接的な暴行だけが罪だと認識しているからだろう。しかし、暴行をエスカレートさせる振る舞いもまた、暴行と同様に罪深いわけだ。おそらく八木原亜麻・川村葉音の女性二人のけしかける言葉も、同じようにエスカレートを更に増幅させる機能を果たしたものと思われる。

次第にエスカレートしていき、遂には死に至らしめるという北海道の事件として、更に有名なのが同じ年の春に旭川市神居古潭で起こった女子高生暴行殺人事件だ。21歳と19歳の女性加害者が暴行の末に神居大橋から女子高生を落下させ死亡させたという事件である。当時19歳だった小西優花には懲役25年の求刑に対し懲役23年(既に刑が確定して受刑者となっている)、当時21歳だった内田梨瑚被告には先日、懲役27年の求刑に対して、減刑なし、求刑通りの判決が出た。

この事件は二人の間で、小西受刑者が内田被告の「舎弟」になるとの関係性を結んでいたことが大きく報道されている。被害者の女子高生に対する激しい暴行や乱暴に至る直接的な原因は、移動中に二人がコンビニに寄った際、女子高生がコンビニ店員に助けを求めようとしたことに内田被告がキレたことにあるとされるが、このことに「キレる」という内田被告の心象としては「私にナメた態度を取った」ということだろうと思う。「ナメられる」ことに極度に腹を立てる。ここにおそらく、「舎弟」である小西受刑者の自分を見る目があったであろうことは想像に難くない。「舎弟の前でナメた態度を取ったのを許すわけにはいかない」というわけである。その内田梨瑚の心象を察知したからこそ、小西優花の行為も、「舎弟」としてできるだけ内田の意に沿うものへとエスカレートしていったのではなかったか。要するにここにも、内田被告は小西受刑者の目を意識し、小西受刑者は内田被告の目を意識することで互いにエスカレートしていくという「振る舞いモデル」の構造があったと考えられるのだ。

こうした「振る舞いモデル」構造によるエスカレートは、何も犯罪ばかりで起こるわけではない。

例えば今月上旬、衆院予算委員会において、中傷動画問題で伊佐議員(中道)の「週刊文春オンラインの音声を確認したか」という質問に対して、高市総理は「台風対応のあと事前通告の答弁書をつくっていて、伊佐議員の通告を読んだのが朝方の3時半だった。総理大臣として忙しくてとても聞く時間はなかった」という意の答弁をした。これは伊佐議員が音声を聞いたか聞かなかったかを答えることを求めているのに、どれだけ一所懸命に仕事をしていたかという総理大臣としての「振る舞い」をアピールしたことによるズレを示している。しかも最初は落ち着いた「振る舞い」を演じていた高市総理も答弁に納得しない伊佐議員の更なる質問で次第に落ち着いた「振る舞い」が崩れていかざるを得なかった。

翌日、参院に場を移して行われた塩村議員(立憲)の「なぜ文春を訴えないのか」という質問に対しても、「私はいま国家経営に忙しくてそんな暇はない」とやはり総理としての「振る舞い」をアピールした。午後になっての山添議員(共産)の質問に対しては、既に冷静さを欠き、山添議員にずいぶんと失礼な態度を取りながらの答弁になっていたように私には見えた。これらのすべてがYouTube上に映像として残っていて検索すればすぐに見つかるので、興味のある方はぜひご覧になっていただきたい。

高市総理の答弁がなぜこんな風に乱れ混乱していくのかも、やはり高市総理が「振る舞いモデル」を基準に毎日を過ごしているからなのではないかと私には思えるのだ。高市総理は質問者の質問に答えているように見えて、実はテレビを見ている国民(自分の支持率を担保してくれている国民)の目の方に意識が向いていたのではないか。自らの総理大臣としての「振る舞い」をアピールすることによって、自らの正当性をアピールしようとしたわけである。しかし、当然のことながら質問者もそれでは納得しないから、ピンポイント的な重ね質問に次々にさらされることになる。それによって高市総理は自家中毒的に感情をエスカレートさせていってしまったのではないか。私にはそう見えた。よく高市総理の批判者は「虚偽答弁」ではないかと言うが、嘘の答弁で騙そうとしたというよりは、冷静さを欠いてしまったというのが本当のところなのではないか。

高市総理は国際舞台でもトランプ大統領やメローニ首相に抱きついたり、ワシントンではサプライズでX JAPANの曲がかかった際に激しく踊りだしたりということで一部で不評を買っている。しかしこれらも、高市総理の中では「ポジティヴな振る舞い」として肯定的に捉えられているのに対して、それを批判する人たちには国のトップとして「下品な振る舞い」としてネガティヴに捉えられるというズレがもたらしたものであろう。

SNSでの炎上、コロナ禍での自粛警察なども、「振る舞いモデル」によるエスカレートの顕著な例だ。「自分は正義の側にいる」とアピールする「振る舞い」をしているうちに、集団性に乗じてエスカレートした結果として起こったものである。実は学校現場では我々教師にも、自分は正義の「振る舞い」をしているはずだという思いが強すぎ、あまりにもその正当性を疑わないときに「視野狭窄」に陥るという例が数多見られる。気をつけたいものである。

エドラダワー12年 カレドニア

ストレート ◎
  ロック ◎
ハイボール 〇

シェリー樽の後熟。後熟と言っても半年や1年ではない。オロロソシェリー樽で4~5年じっくりと。ストレートでは何と言っても香りの濃厚さ。ドライレーズン+オレンジ、熟したリンゴといった趣。味わうと甘味だけでなく、とろみが舌にまとわりつき、アフターはドライでスパイシー。ロックになるとこれらすべてが抑えられ、飲みやすくなる。ハイボールはシェリー樽独特のえぐみが出るか。

個人的には人形町の老舗「BAR 内藤」で勧められ気に入った1本。帰りの電車ですぐにポチッた。いつもは教員のお小遣い程度で買えるボトルを紹介しているが、なんせ今回はボーナス月。12,000円ほど。年度またぎのドタバタを乗り越えて半年間頑張った自分へのご褒美にいかがだろうか。

堀裕嗣先生

<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

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