堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s Bar 一杯分だけ、話そうか。#5「226事件」と日本の現在

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による新連載第5回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的、歴史的視野に基づく縦横無尽な論考をお届けします。毎回、最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。
執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)
目次
1.かつて、渋谷にて
東京渋谷の合同庁舎の一角に一見見慣れない像が立っている。ちょうど税務署の敷地の角に、NHKに向かう形で。
夜の帳が下りて、残業を済ませたNHK職員が次々にその横を通る。しかし、誰ひとり気に留める者はいない。ある者はそそくさと家路を急ぐ。別のある者はこれから飲みにでも行くのか、二人、三人連れだって談笑しながら足取りも軽やかだ。しかし、その像は沈黙を保ったまま、どこか控えめに立ち尽くしているように見える。もしかしたら一時佇んでいるだけで、再び時が来るのを待っているのだろうか。いや、よもやそんなことはあるまい。

この像は、かの「226事件」の慰霊碑である(1965年建立)。渋谷の合同庁舎は、かつての陸軍刑務所の跡地である。そして226の青年将校たちは、ちょうどこの像の立つ敷地の角で刑死した。実は本稿が公開される2026年7月12日は、226に決起した青年将校とその賛同者、あわせて15人が銃殺刑に処せられてからちょうど90年目に当たる。
今回は読者の興味を惹かないであろうことを重々承知で、まずは「226事件」について語ろうと思う。
2.かつて、国家中枢にて
90年前というと、1936年の7月12日である(この年の2月26~29日に「226事件」は起きた)。

この日銃殺刑に処されたのは、写真でいうと左側の15名である。5人ずつ刑場に連れ出され、目隠しをされて十字架に拘束されたまま正座させられ、次々に銃殺されていったと言う。ちなみに写真右側の6人は上二人が自害、下の4人も更なる取り調べの後銃殺刑に処せられている。
中には裁判において、決起に至る自分たちの強い想いを語ることを期待した者もいたと言うが、裁判は弁護人なし、再審なしで行われ、彼らは遂に何一つ語ることなくこの世を去った。そんな最後のわずかな望みも彼らには絶たれた。許されたのは辞世を残すことくらいだったと言う。
では、226青年将校の「強い想い」とはいったい何だったのか。
よく「226」と関連づけられる当時の民衆の暮らしを顕著に示す2枚の写真がある。


上の写真は「娘身売の場合は当相談所へ御出下さい 伊佐澤村相談所」と書かれた看板である。当時の農村はあまりに貧しく、娘を身売りに出す農民が多かったと言う。しかもこれは、あらんことかその斡旋を行政がやっていたという証拠写真として流布している。
下の写真は当時の小学生の写真である。当時の学校に給食などない。子どもたちは弁当持参で登校するわけだが、農家の子は大根1本を持たされ、それを食べながら昼休みを過ごしていたとされる写真である。
226に決起した青年将校たちは、こうした多数の貧困農村出身の兵たちを部下に持っていた。その意味で、貧しい実家に仕送りをする者、妹が身売りされる者、それでも成り立たない生活といった農村の現実と直接的に触れ合う立場にあった。
青年将校たちは思う。
「なぜ天皇陛下はこの民の現状を放置なさるのか。いや、陛下は民のこの現状を御存知ないのだ。陛下の周りにいる側近たちが陛下にこの現状を報告せず、隠し、それでいて私腹を肥したり権勢を我が物としたりしているのだ。陛下の周りにいる不届き者たちを除かねばならぬ」
こうして生まれたのが「君側の奸」(くんそくのかん)という論理だ。君(=天皇陛下)の側にいる「奸」(=悪人・よこしまの意)というわけである。また、「尊皇討奸」が旗印に掲げられた。

そこで青年将校たちは1936年2月26日未明、記録的な大雪の中、1,483名の兵を率いて決起することとなる。水曜日、大安の日だったと言う。
首相官邸 栗原隊 ……… 岡田啓介首相を襲撃。首相と誤認して義弟松尾伝蔵を射殺。岡田首相は脱出。
大蔵大臣邸 中橋隊 …… 高橋是清蔵相を射殺。
内大臣邸 坂井隊 ……… 斎藤実内大臣を射殺。
侍従長官邸 安藤隊 …… 鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせる。
警視庁 野中隊 ………… 警視庁を占拠。
陸軍省 丹生隊 ………… 陸軍省・陸軍大臣官邸・陸軍参謀本部を占拠。
教育総監邸 高橋隊 …… 渡辺錠太郎教育総監を射殺。
前内大臣別邸 河野隊 … 警護の皆川巡査を射殺。牧野伸顕前内大臣は脱出。
わずか数時間の間に日本の中枢が決起部隊によって占拠されたわけである。
さて、226に決起した青年将校たちは、この後、天皇陛下にどのような態度を期待していたか。
一つは「よくやった。今後は朕自ら政を施し、お前達の行為に報いるであろう」と青年将校を褒めたたえる図である。もう一つは、「お前達の強い想いはよくわかった。しかしこの度のこと、動機は純粋とはいえ罪は罪だ。今後のことは朕に任せ、潔く自決せよ」と青年将校を理解する図である。
しかし、昭和天皇はそのどちらをも採らなかった。昭和天皇は「朕が頼りにしている重臣を殺戮する様な、凶暴な将校らを、たとえ精神だけであろうと赦すつもりはない」と憤り、決起将校たちにシンパシーを感じる陸軍幹部たちの上申にも「陸軍が躊躇するのなら、朕自ら近衛師団を率い、此が鎮定に当たるであろう」と聞く耳を持たなかった。また、そういうことならばせめて「自決せよ」との勅使を派遣してくれれば彼らも納得して死を選ぶだろうとの上申にも「自殺するなら勝手に為すべく、此の如きものに勅使など、以ての外なり」とまったく取り合わなかったと言う。
結果、「226事件」は3日後の2月29日、野中・河野両名の自決、その他の青年将校の投降(安藤は自殺未遂)によってたった3日で終焉を迎える。そして7月12日の銃殺による刑死へと進むわけだ。
我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ 野中四郎
あを嵐過ぎて静けき日和かな 河野 壽
父ハ無限ノ怨ヲ以テ死セリ。父ハ死シテモ国家ニ賊臣アル間ハ成仏セズ、君国ノタメ霊魂トシテ活動シテ之ヲ取リ除クベシ。 香田清貞
身とともに名をもけがして大君につくす誠は神や知るらん
強く生き優しく咲けよ女郎花 丹生誠忠
死がやって参りました。孝子の腹巻きに御守りが這行って居ります。広大無辺の御仏の御慈悲に浸り、唯忠を念じて瞑目致します。前途を祝福して下さい。 坂井 直
我はもと大君のため生れし身 大君のため果つる嬉しさ
たらちねの親の恵みの偲ばれて 只先立つて我は淋しき 田中 勝
226に決起した青年将校たちは一番年上の野中四郎でも三十代半ば。当然のことながら皆若かった。それゆえに辞世も妻や子、両親に宛てたものが多く、これも後世の涙を誘うこととなった。
実は当時の陸軍には、226青年将校の想いにシンパシーを抱く「皇道派」(天皇親政の国家改造を目指し直接行動も辞さない)と「統制派」(合法的に総力的な国防を目指す)とが対立していた。「皇道派」の幹部たちが226決起将校たちと通じていたか否かは遂に詳らかにされなかったが、いずれにせよ間を置くことなく陸軍の中枢からは一掃されていく。陸軍は「統制派」がすべてを仕切ることとなり、その後彼らの言う「大東亜戦争」へと突入していった。もし「226」がなければ、或いは「226」が成功していたならば、昭和の歴史はまったく違うものとなっていたかもしれない。
昭和天皇はその晩年に至るまで側近に「226のごとき動きはあるまいな」と尋ねることを常としていたと言われる。終戦時の首相であった鈴木貫太郎(226事件当時侍従長)は、226で自身にとどめを刺さなかった安藤輝三を称して「命の恩人」と語ったとも言う。
こうして「昭和」という時代に様々な禍根を残して、「226」はいまだに評価の分かれる事件として語り継がれている。以上が大変簡単ではあるが、「226事件」の経緯である。
3.かつて、麹町にて
先にも述べたが、安藤輝三は226事件において、麹町の侍従長官邸において鈴木貫太郎侍従長を襲撃した。安藤と鈴木との間にはわずかながら一面識があったようで、銃で撃って重傷を負わせた後、安藤が次のように言ったとの証言が残っている。
「鈴木侍従長閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃! 誠にお気の毒なことを致しました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」
この後、安藤が瀕死の鈴木貫太郎にとどめを刺そうと構えた折、「お待ちください!」と鈴木の妻たかが安藤を制止した。
「お待ち下さいませ。老人ですからとどめはお止め下さい。どうしても必要というなら私が致します」
これを聞き、安藤輝三は一礼をしてその場を去ったと伝えられる。

後に鈴木貫太郎は「安藤がとどめをあえて刺さなかったから自分は生きることができた。彼は私の命の恩人だ」と述べたうえで次のように安藤に対する理解を示したと言う。
「首魁のような立場にいたから、止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」
事実、安藤輝三には「軍服はいつもヨレヨレ」で、新しい軍服を買うこともなく、貧しい実家への仕送りの足しにせよと、使える金のほとんどを部下の兵に渡していたという証言が多数残されている。部下の兵たちの信頼も厚かった。226が失敗に終わるとわかってからも、安藤部隊だけは一人も欠けることなく安藤と行動をともにしようとしたとも伝えられる(しかし、歴史は物語化され、美談として語り継がれることが多いので、史実かどうかは正直わからない)。
また、若い頃の安藤輝三と親交のあった秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟)は、安藤の刑死後、安藤の遺族に対し、「遺書を見せて欲しい」旨の申入れをなさったと言う。遺族は持参して御目にかけたが、再び遺族の手に戻された時には、立派な軸物となっていたとも伝えられている。
国体を護らんとして逆徒の名
万斛の恨 涙も涸れぬ あゝ天は 昭和十一年七月十一日夜 鬼神輝三
一切の悩みは消えて 極楽の夢 昭和十一年七月十二日早朝
刑死の前日と刑死の朝の辞世である。このひと晩で、どんな心境の変化があったのか。私はこの時期が来るたびに思いを馳せる。
4.いま、国家中枢にて
日本人には、「動機の純粋性」に対して甘いところがある。つまり、罪を犯したとしてもその動機が純粋であれば、罪は罪として裁くとしても同情的な理解を示すところがある。事実、戦後、226青年将校たちにはかなり同情的な言説が多い。『憂国』『英霊の声』と226青年将校を自らの代表作で描いた三島由紀夫は、226青年将校たちと特攻で死んだ青年たちに「などてすめらぎは人間となりたまひし」(なぜ現人神は人間なんかになってしまったのですか)と恨み言を言わせた。これでは自分たちの死は無駄死にではないか、というわけである。また、映画にも「重臣と青年将校 陸海軍流血史」(土居通芳監督/1958年)や「226」(五社英雄監督/1989年)など、226青年将校に対するシンパシーを描いたものが多い。特に安藤輝三は常に、清廉な憂国の人として描かれており、前者では宇津井健、後者では三浦友和と大スターが演じている。
226青年将校の「動機の純粋性」には、二つの方向性がある。一つは天皇陛下に対する並々ならぬ忠誠と敬意であり、いま一つは民に対する慈しむ心である。
さて、現在、国家運営の中枢にこうした「動機の純粋さ」は見られるか。「昭和100年記念式典」においては天皇陛下ご夫妻をお呼びしておきながら御言葉を頂戴せず、自衛隊の演奏する昭和後期歌謡に興ずる。果たして「昭和」とは昭和後期の歌で語られるべき時代なのか。加えて最近は、愛子内親王に対する「愛子さまっていうのはあり得ないんですよ」「愛子さまもお気の毒ですね、自分がなれないのにそんなことを言われて」「愛子さま大変ですよ、まず結婚する人もいないですよ」「愛子さまも男性のお子さんを産まなきゃならないというすごいプレッシャーもあるわけですね」という上から目線の発言まで現れる始末である。どうも「皇族に対する敬意」があるとは到底思えない動きが散見される。
「民への慈しみ」も見られない。もちろん226の時代ほど悲惨な状況ではないにしても、現在、国が発表している数字でさえ、国民の6人に一人が貧困にあえいでいる。国民の大半が物価高に不安を感じている。1年間に生まれる子どもはとうとう70万人を割ってしまった。国民の将来不安たるや、戦後最高を更新し続けていると言ってまず間違いない。なのに「民への慈しみ」に基づく政策の優先順位は著しく低い。
青年将校ならずとも「憂国」の意を抱かざるを得ない。もちろん、決起などしないけれど……(笑)。
今夜は、この一杯。
グレンモーレンジ12年
ストレート ◎
ロック 〇
ハイボール ◎
「樽のパイオニア」とも呼ばれ、創業以来のキリンのように首の長いポットスチルで蒸留を続けるグレンモーレンジ蒸留所の最もスタンダードなボトルである。甘く、柑橘を思わせる香りと味わいがウイスキーファンばかりでなく、女性ファンをも惹きつける。真夏のハイボールにこれ以上のモルトはないと確信している。私はバレンシアオレンジをたらすことが多い。ストレートも上々、ロックはちょっとだけ苦みが出る。

<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

