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堀 裕嗣✕宇野弘恵 キャッチボール連載 独自開発教材でつくる #3「一人のにんげん」by 宇野弘恵

連載
堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣

北海道公立小学校教諭

宇野弘恵
新連載「渾身の三つ星道徳授業」バナー

魅力的なオリジナル教材を続々と開発し、最先端の道徳授業実践を蓄積し続け る堀先生と宇野先生が交替でそれぞれの自信作を公開。さらには相手の教材開発と授業づくりについて解説し合う新連載です。イメージしながら読むだけで感情と思考が大きく揺さぶられる傑作揃いです。

執筆/宇野弘恵(北海道公立小学校教諭)・解説/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

 授業の実際

『一人のにんげん』
A/真理の探究  対象学年/小5以上

① 俊子の描いた「にんげん」と出会う

「今日は、一枚の絵画を紹介します。
『うまい!』『すごい!』という技術的な感想ではなく、絵画を見てどんな印象を受けるか、どんな想いが湧いてくるかに心を傾けましょう。
じっと、静かに見てくださいね。では、どうぞ」

と言って、赤松俊子さんの絵画『サーニャ モスクワの少年』を提示します。

絵画『サーニャ モスクワの少年』

1分間ほど静かに鑑賞したのち、感じたことや思ったことなどを静かに交流します。

  • やさしい感じがする。
  • あたたかい感じがする。
  • ふわっとした感じ。
  • 微笑ましい。

といった感想の他、俊子さんと少年の関係に思いを馳せたり、少年を描く動機は何かに思いをとばしたりした感想も出てきます。それらはすべて否定せず、多くの人はあたたかさとやさしさを感じたことを押さえておきます。

続けて、俊子さんのスケッチ『少年時代の住職霧野雅麿さん』を提示する。

赤松さんのスケッチ『少年時代の住職霧野雅麿さん』

『サーニャ モスクワの少年』と同様、やわらかでやさしげな絵であることを確認します。

②俊子のまなざしをさぐる

「こんなやわらかな絵を描く赤松俊子さんって、どんな人なのでしょう」 と投げかけます。

作者
赤松俊子
1912(明治45)年2月11日
ー2000(平成12)年1月13日

北海道雨竜郡秩父別生まれ。
生家は寺。
旭川高等女学校卒業後、上京して、
女子美術専門学校に入学し油絵を学ぶ。
1933(昭和8)年、千葉県市川市で小学校教諭となる。
1937ー41年にミクロネシア諸島に。モスクワを2度訪問。

旭川高等女学校は、現在の旭川西高等学校であることを付け加えます。また、『サーニャ モスクワの少年』は、恐らく1941年に行ったモスクワで描かれただろうことにも言及しておきます。

次に、俊子さんの恩師・戸坂太郎先生(美術教師)の言葉を紹介します

当時の厳しい軍国教育の時代に、
「菊を栽培するときには、立派にまっすぐ伸びているものだけではなく、小さくてどこがいいのかわからない、伸びそこなったようなものも大切に育てなさい」
と語りかける俊子さんの印象は、ひときわ異質で印象的だった。

これは、卒業後、俊子さんが女学校を訪れた際に後輩たちに語ったことだそうです。戸坂先生のお話から、俊子さんが小さいものや弱いものに目を向けるやさしい心の持ち主であることが窺えます。
また、強い体と精神が理想とされた軍国主義の時代に「小さくて弱いものを大切に」と言える信念の強さを感じます。

ここでは、軍国主義の時代について少しの説明が必要です。そうすると、「ひときわ異質で印象的だった」という戸坂先生のことばの意味が見えてきます。

「俊子さんは、やさしくて強い人」と教師が括って説明しなくとも、先生のことばや2枚の絵から俊子さんの人となりを想像することができるでしょう。

③ 俊子の描いたもうひとつの「にんげん」に出会う

俊子さんは、1941年に画家と結婚しました。二人で絵を描きながら東京で暮らしていたそうです。この説明の後、無言でスライドを4枚提示します。

スライド1
スライド2
赤松俊子による1973年の作品「にんげん」
赤松俊子の戦前の作品と戦後の作品を楢経て示したスライド

終戦前に描いた絵と並べると、大きく画風が変わったことは一目瞭然です。自ずと、何があったのだろう? という疑問が生まれます。

俊子さんのご主人は、広島県のご出身でした。1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されたことを受けて、ご夫婦で広島を訪れました。そこで目にしたのは、あまりにも悲惨な光景でした。焼け焦げて真っ黒な街、人。火傷の皮膚をぶら下げて泣き叫ぶ人。血。大人。子ども。ご夫妻はその悲惨さに目を覆いました。

そして、こう決心しました。

この光景を絵にする。

「権力をもった者たちは傷つかずに民衆が傷ついていくということを少しでも絵に描いて伝えていかなければ。私たちは絵描きだから、それしかできない」

ここまで説明した後、夫妻で描き上げた作品を提示します。

作品「8月6日」

『8月6日』と題されたこの作品は、後に『幽霊』と呼ばれるようになりました。有名な作品なので、知っている人も多いと思います。作者の丸木 俊さんと丸木位里さんを紹介します。

丸木 俊、丸木衣里夫妻。

赤松俊子さんが丸木位里さんと結婚し「丸木」となったことを話します。「俊子ではなく俊?」という疑問が出れば、もともと戸籍上は「赤松 俊」であり便宜上「俊子」も使用していたことを報せます。

この作品の発表は1950年。原爆投下から5年後です。俊さんはただ悲惨な姿だけを描こうとしたのではありません。被爆者一人ひとりを生身の人間として描こうとしたのです。そのために何人もの被爆者から直接話を聞き、何度もスケッチを重ねました。

この当時は、原爆被害の実態が十分に知られていませんでした。この作品が被害の惨状を視覚的に知る機会となり、驚きと衝撃をもって世界に知られるようになりました。

丸木夫妻はその後も作品を描き続け、1982年までの32年間で15部作の『原爆の図』を完成させました。

以上のことを、他の『原爆の図』を提示しながら説明します。『幽霊』に添えられた以下の文章を資料とするのも有効です。

作品「原爆の図」に添えられた作者による文章

④ 俊という人間を捉え直す

 『原爆の図』を制作する一方で、俊さんは、こんな仕事も手掛けていました。

作品1
作品2
作品3
絵本「うみのがくたい」の表紙
絵本「こまどりのクリスマス」ま表紙
絵本の本文

絵本の挿絵です。ここに紹介したものだけではなく、俊さんはたくさんの絵本の絵を描いてきました。

『原爆の図』とは作風が全く異なります。『原爆の図』と絵本の挿絵を並べて提示し、

俊さんは、なぜ『原爆の図』を描きながら絵本の挿絵の仕事までしたのでしょう。

と問います。

ここは、「生活費のため」「出版社から頼まれたから」「子どもが好きだったから」「昔からの夢だったから」という思考に流れないようにします。もしかしたらそうした事情もあったかもしれませんが、ここでは、あくまでも『原爆の図』とは全く異なるあたたかな絵を描き続けたことや、単なる絵ではなく子どもが読む絵本の絵を描いたことに着目させます。

なぜ俊さんが挿絵の仕事をしていたのかの真意は分かりません。ここでは考えを束ねず自由に交流させます。

 

⑤人間の美しさについて考える

「『原爆の図』にも絵本にも人間が描かれています。俊さんは、人間のどんな姿を描こうとしたのでしょう」

こう投げかけた後、NHK「あの人に会いたい」の動画を視聴します。俊さんの

どんなに残忍、残酷な情景であっても やられる側の人の姿は美しく描きたい

ということばを再度提示します。

画像

『サーニャ モスクワの少年』『にんげん』「戦争」と順に提示したあと、戦争を挟んで俊さんが描いた「にんげん」の変化に目を向けます。そしてその変化の中にも、俊さんが一貫して見つめ続けたものがあったのではないかと投げかけます。その後、

俊さんが見つめ続けた「にんげんのうつくしさ」とは何なのでしょうか。

と問い、授業を終えます。

2 この授業をつくるにあたって

丸木 俊さんのご生家である北海道秩父別(ちっぷべつ)町の善性寺に行ったのは確か2000年頃。善性寺には丸木位里・俊美術室があり、『原爆の図』関連の作品や俊さんの作品が飾られていました。

美術室に入ってひときわ目についたのが、大きな大きな『原爆の図』でした。教科書で見たことはあったけれど、実際に見たのは初めて。地の底を這うような人々の苦しみと哀しみとともに、俊さんと位里さんの怒りのようなものを感じたことを記憶しています。あまりにも迫力があって恐ろしくて、長くじっと見ていることはできませんでした。

『原爆の図』の向こうに、俊さんが描いた絵がありました。その中の一つに、赤、オレンジ、ピンク、黄色など、きれいな色たちが渦のように重なる作品に目が留まりました。明るくてあたたかなこの絵を観た瞬間、私は、

「え!? 『原爆の図』を描いたのと同じ人が描いたの

と信じがたい思いになりました。あまりに作風が違い、絵の前からずっと立ち去れなかったことを覚えています。

本授業は、堀先生企画「戦争と道徳」という道徳セミナーに合わせてつくったものです。「戦争」というテーマについて考えているときに丸木夫妻の『原爆の図』を思い出しました。そういえば、昔、観に行ったなあと。そこで丸木さんについて調べ始めたところ、戦前と戦後でまったく画風が変わっていたことを知ったのです。

『原爆の図』で伝えようとしたものは、戦前に描いた『サーニャ モスクワの少年』で伝えようとしたものとは違うはずです。画風が変わるのは当然です。『にんげん』という戦後の作品が『サーニャ モスクワの少年』と異なる画風なのも、そこに込めようとした思いや人間へのまなざしが変化したからなのかもしれません。私には、そこに戦争(原爆)という経験を通して深められた人間観が表われているように思えます。二つの絵の画風の違いは、表現したい人間観の違いなのではないかと思うのです。

俊さんは、『原爆の図』を描きながら、多数の絵本の挿絵も手がけていました。俊さんがなぜ両極にあるような二つの仕事を同時に行っていたかは分かりません。『原爆の図』が世界中で有名になり、画家としての使命ともいえる仕事を成しているのですから、絵本の挿絵などしなくてもよいのではないでしょうか。

画家としてのキャリアとしてはそうかもしれません。しかし、『原爆の図』を描くには、残忍で残虐な光景を作品にする辛さ、難しさ、怒り、哀しみ……、があったのではないでしょうか。絵本の挿絵は、そうした精神的な苦しさからの解放だったのではないかと私は推察します。カラフルで明るい色使い。人物たちのコミカルな表情。こうした幸せな絵を描くことが心の均衡を保つのに必要だったのではないか、そう思うのです。

これは全くの私の想像ですので、本当にそうだったかどうかは分かりません。しかし、私自身は、かつて善性寺で抱いた疑問に合点がいったように思いました。

俊さんは、NHKの番組の中で「どんなに残忍、残酷な情景であっても やられる側の人の姿は美しく描きたい」と語っています。俊さんの考える「にんげんのうつくしさ」とは何か。戦争を体験し、被爆地広島を訪れた俊さんは、どのように人間の美しさを見つめ続けたのか。

やわらかな少年の絵を描いた俊さんと『原爆の図』を描いた俊さんは、別人ではありません。そのどちらも一人の人間である俊さんの姿です。

本授業『一人のにんげん』は、丸木俊さんの描いた『にんげん』の変化と、そして、丸木俊という一人の人間の両方を手掛かりに、『にんげんのうつくしさとは何か』と考える試みです。

芸術作品を観て、聴いて、或いは読んで、衝撃を受けることがある。

それまで経験していなかった、それでいて自覚していなかったのに確かに自分の中にあった、自分の一部であったのだと瞬時に確信できる臓物のようなものが沸き上がり煮えたぎってくる。まだ言葉にはならないが重い重い存在感をもって。

私は宇野さんの授業を知るまで不明にして丸木 俊という画家を知らなかったけれど、宇野さんと丸木 俊との出逢いがこうした質のものであったことは経験から理解できる。こうした出逢いがあると、自分に衝撃を与えたものが何なのか、それを言葉にしたくて、なんとか理解し納得したくて、さまざまに調べ始めることになる。そしてその作品に対する、或いはその作者に対する自分なりの「解釈」を創り上げることになる。

もちろんその「解釈」はあくまでも「解釈」である。しかも不完全で未熟な、「その時点の解釈」に過ぎない。いつしかふとした瞬間に、「ああ、あのときはわからなかったけれど、あれはこういうことだったのかもしれない」と「解釈」が更新される。そのとき、「これからもこの解釈は更新されるのだな」との確信を抱く。この段階に来ると、その作品や作者が「人生の同伴者」となる。そんな同伴者を幾人持っているかが人間に「深み」を与える。人生とはそういうものである。

宇野さんにとって、丸木 俊はおそらく、そんな「同伴者」の一人であるのだろうと思う。それもかなり存在感の大きな「同伴者」として宇野さんの中にいるのだろうと思う。この授業が作品それ自体よりも、丸木 俊という「人物」にその焦点を当てていることからもそれがわかる。おそらく宇野さんの丸木 俊の授業づくりはこの一作では終わらないのだろうな……とも思う。

この授業は重い。

衝撃を受けた同伴者を題材に重い授業を創るというとき、教師が陥りがちなのは自分の経験を子どもたちに「追体験」させたいとの衝動を抑えられなくなることだ。自分の感じたこの衝撃をわかって欲しい。できれば子どもたちにも同じように感じて欲しい。できるならこの作品、この作者を同伴者として人生を送って欲しい。この作者が感じた葛藤(と自分が解釈している葛藤)の質を子どもたちにも抱いて欲しい。そういう願いを抑えられなくなるのだ。ちょうど、文学作品を研究しすぎて教材化した文学教育者が、浮世離れしたとてつもなく難解な授業を展開して子どもたちにそっぽを向かれるように。

宇野さんはこのあたりのバランスもよく理解していて、この同伴者丸木 俊の授業でも子どもたちに強要・強制し過ぎないスタンスを保っている。まったくたいした実践者であると感嘆させられる。まあ、私のこの見解も、これまでの論理に即して言えば、「宇野弘恵」という他者に対する私という人間の「解釈」に過ぎないわけだけれども。

さて、宇野さんの授業とは直接には関係しないけれども、私が若手の道徳模擬授業を見ていて最近強く感じていることを最後に書かせていただく。

道徳授業(多くは模擬授業だが)を見ていて、その授業づくりが「軽い」ものが多いのだ。これは題材自体が軽いとか深みがないとかいった問題ではない。題材に対する解析が甘いのである。ちょっと調べて時系列で並べましたとか、いま話題の人物だから裏話を紹介してみましたとか、こんないい話があるのに皆さん知らないでしょ? とか、そんなスタンスの授業づくりである。結果、私は講評において、あなたはその題材の何に価値があると考えているのか、あなたはその題材のどんなところに衝撃を受けたのか、あなたがその題材を授業化したいという衝動の質は何なのか、と問うことになる。簡単に言えば、授業者自身にその授業を作るだけの「問題意識」が欠けているのだ。

自主開発教材による道徳授業は、授業者の「問題意識」から出発する。この出来事はあまり知られていないが、世の中にとって誰もが知るべきと思われるほどの価値があると自分は思う。最近の子どもたちを見ているとこういうところに難があるから、この題材でそのあたりのことを深く考える機会としたい。この出来事とこの出来事とは一見何のつながりもないように見えるが、実は人間の思考回路のこうした共通した構造から生まれた相互に関連性のあるネガティヴ事案であると思うのだがどうか。そんな「問題意識」である。

本来やるべき教科書教材の授業と入れ替えて取り組もうとする授業である。せめてその程度の問題意識を授業者が持っていて然るべきではないか。私はそう思う。

堀裕嗣先生

ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

宇野弘恵

うの・ひろえ。北海道公立小学校教諭。民間教育研修などに参加、登壇し、今日的課題や教員人生を豊かにすることを学んでいる。著書に『あと30分早く帰れる! 子育て教師の超効率仕事術』(学陽書房)、『スペシャリスト直伝!高学年担任の指導の極意』『伝え方で180度変わる!未来志向の「ことばがけ」』、『生き方を考える!心に響く道徳授業』(以上明治図書出版)など多数。

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