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堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s  Bar 一杯分だけ、話そうか。#7 ちょっとだけ「不適切」な夏休みを

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堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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堀 裕嗣 なら、ここまでやる!国語科の教材研究と授業デザイン
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣
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教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による新連載第7回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的、歴史的視野に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。

執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1.「コンプライアンス教」の教義

「不適切」「配慮不足」「誤解を招く」

昨今大流行の、「コンプライアンス教」における三つの黄金ワードである。

30年ほど前に来日し、当初は「法令遵守」を唱えていたはずの教義が、いつのまにか「ハラスメント」や「差別表現」、「情報漏洩」や「利益相反」等が教義に次々に加えられた。また、教義を広める手立てとして「炎上」という手法が開発され、日本人のすべての国民が宗旨替えを余儀なくされた。次第に宗旨替え以降に物心ついた世代が現れ、心の底からこの教義を信じる者が少なくなくなった。その数は毎年急激に増え続け、いまでは「コンプライアンス教」の教義に反することが公の場では一切言えなくなった。なんとかこの教義から治外法権的に扱われているのは他に客のいない床屋と騒がしい居酒屋くらいである。

 政治家も芸能人も教義に反する発言を指摘されるとすぐに引っ込めざるを得なくなった。「不適切・配慮不足」の発言で「誤解を招く」表現を意図的にすることを生業としていた毒舌系お笑い芸人さえ宗旨替えを余儀なくされていった。いまではこの教義が、すべての公的な場で適用され、職業人のほぼすべてが「不適切」「配慮不足」「誤解を招く」との指摘を受けないよう、言葉遣いと態度に細心の注意を払って生きている。

「炎上」はかつて「祭り」と呼ばれていたことからもわかるように、一種の祝祭行事である。祭りに参加し、「不適切」「配慮不足」「誤解を招く」と叫べば、自らは教義を守る敬虔な信者だと認められる。それをアピールすることができる。要するに「正義」の側にいられるわけだ。

ただしこれら教義の前提にはこの国にもともと浸透していた「日本教」との親和性があって、外国や外国人に対する「不適切」な発言や「配慮不足」の発言、「誤解を招く」表現には寛容であることが多い。総理大臣が法律の趣旨を誤って理解し、台湾有事について「戦艦を使い、武力行使を伴えば、どう考えても存立危機事態になり得る」と発言してもスルーされる。「不適切」とも「配慮不足」とも「誤解を招く」とも言われない。もちろん、相手国からは当然のように対抗措置が出てくるけれども。いまではもうこの発言も忘れられ、外国人観光客が数か月連続で前年比割れ、それが中国人観光客が50%以上減少しているからだという事実さえ、先の総理大臣の発言に起因すると考える国民は少なくなっている。

学校教育では「コンプライアンス教」の教義が更に拡大解釈されている。当初は子ども対応の在り方や保護者対応の在り方など、教育対象者とその関係者に対する「不適切」「配慮不足」「誤解を招く」が指摘される傾向にあったが、いまでは職員室内の「教職員間ハラスメント」にまでその対象が広げられ、「ニコニコ管理職」ばかりになってしまった。職員室内の「世代間断絶」を大きく進める結果ともなった。いまでは教師個人のSNSの使い方、「働き方改革」の進み度合、部活動の熱意度合、個人情報保護や情報セキュリティ、子どもたちの安全確保に伴う危機管理体制の具体化、子ども・保護者に対する学級通信・学年通信の発行頻度に至るまで、すべてが「コンプライアンス教」の対象として叫ばれている。個々の教職員は「不適切」「配慮不足」「誤解を招く」と言われないためのアリバイづくりに時間と労力を奪われる。すべてが「組織的対応」の名のもとに、自分の担任学級さえ裁量が奪われる始末。あ~あ……。

2.「成熟」までの時間

かつて孔子はこんなことを言った。

  吾十有五にして学に志す。
  三十にして立つ。
  四十にして惑わず。
  五十にして天命を知る。
  六十にして耳順ふ。
  七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えず。     「論語」/「為政」第二の第四章

  私は十五歳で学問に励む決心をした。
  三十歳で独り立ちした。
  四十歳で迷うことがなくなった。
  五十歳で与えられた務めを理解した。
  六十歳で他人の意見を素直に聞けるようになった。
  七十歳でやっと自分の思うままに行動しても人の度を越えることがなくなった。

孔子のこの言葉は十五歳で学問を志した孔子(「志学」)が、三十代の「而立」、四十代の「不惑」、五十代の「知命」を経て、六十代でやっと他人の意見を素直に認めることができるようになり(耳順)、七十歳にして「心の欲する所」、つまり自分の思うままに行動しても人としての節度を守れるようになった(従心)、の意である。我が国でも古くから人生の指針として引用されることが多かった。私もまた、中学校2年のときに国語の時間に暗唱させられ、以来なんとなく人生の同伴者のような位置にこの言葉がある。ああ、自分はまだまだだ。ああ、やっとこのあたりの境地まで来たかな…。そんな風にある種の「道標」としてこれを機能させてきた実感がある。

しかし、現在の「コンプライアンス社会」は、孔子が七十歳で到達した境地を若い頃から求められ続ける社会となった。教師なら22歳の春から「心の欲する所に従へども矩を踰えず」の人間として振る舞うことが求められるわけだ。この構造については本連載第3回「『他人からどう見えるか』の呪縛―『振る舞いモデル』が暴走する社会」(2026.06.28)に詳しいのでご参照いただきたい。

しかし当然のことながら、孔子でさえ七十代になって実感した境地に並みの人間たる私たちが到達することなど、それも教壇に立つと同時に到達するなどということは不可能である。にもかかわらず、私たちはそれを求められる。失敗を通して学ぶことよりも、最初から失敗しないことが求められる。迷いながら成長することよりも、最初から完成された人格であることを期待される。そこには「教育」という営みに本来含まれていたはずの「成熟への時間」が存在しない。

人は未熟だから学ぶ。失敗するからこそ内省する。他者に叱られ、恥をかき、自分の世界観の狭さを知る。人は少しずつ「耳順」の境地へ近づいていく。孔子の言葉は、その当たり前の「時間の流れ」を語っている。

ところが「コンプライアンス社会」は、その「時間軸」を忘れてしまった。「教師なのだから最初からできて当然」「それができない者は教壇に立つ資格がない」という発想は、「教育者を育てる」「教育者は成長していく」「教育者もまた長い時間の中で成熟へと向かっていく」という当然のテーゼを放棄することになる。新人教師も、ベテラン教師も、一度でも逸脱すれば、「教師失格」というラベルを貼られかねない。社会は人間を「成長する主体」ではなく、「ハナから完成した主体」として扱い、「責任を取る主体」として扱うようになった。

孔子は、自らの「成熟」を七十年という時間軸で語った。その謙虚さこそ、私たちが本来学ぶべきものであったはすだ。しかし現代社会は、孔子の教えを人生の指針として引用しながら、その教えが前提としている「成熟には長い時間を要する」という当たり前の構造を忘れてしまっている。

もし孔子が現在の学校に新任教師として赴任したら、「不適切な言動」として炎上していたかもしれない。夏目漱石の「坊っちゃん」は現在、教師としてやっていけるか。『二十四の瞳』の大石先生はどうか。灰谷健次郎の描く足立先生や山田先生はどうだろう。そんな冗談が、冗談に聞こえない世の中になってしまった。

3.「コンプライアンス」を忘れる夏

夏休みが始まった。夏休みの始まりが遅い北海道でさえ、既に夏休みである。おそらく全国津々浦々、すべての学校が夏休みに入っているはずである。なんとも言えぬ解放感に包まれているはずだ。もしあなたが、既に始業式までのカウントダウンを始め、暗い気持ちになり始めているとしたら、それは「正しい夏休みの過ごし方」とは言えない。

X(旧Twitter)を眺めていると、若手教師の職場への不満、同僚への不満、労働時間への不満、労働システムへの不満、保護者への不満、子どもへの不満にあふれている。「教師のバトン」が本来の目的からはずれて、現場教師たちのネガティヴな感情ばかりが披瀝されて大きな話題となったのは2021年。あれからまる5年が経つけれども、状況はほぼ変わっていない。

5年前、私はこの手の投稿にずいぶん腹を立てていた。そんなにひどい職業じゃないよ、と。職員室で起こるさまざまな事象に対応できないのはお前に実力がないからだと。しかし、夏休みが終わりに近づいてくると、彼らの投稿が今度は目に見えて「不安だ」「いやだ」「壊れそう」といった2学期への懸念や危惧や憂慮や恐怖へと向かっていった。毎年それを見ているうちに、「そうか。時に激しい言葉で展開される若者たちの不満は、学校教育に対する批判や非難というよりは悲鳴なのだな…」ということに気がついた。行政も現場もその悲鳴に正面から応えているとは確かに言えない。教育改革はどこまでも「ポジティヴリスト」(必ずしもやらなければならないことではないが、やった方がいいものはすべて学校に抱え込ませるという在り方)で展開される。夏休みに子どもたちを学校に預けようとする文科大臣の「お願い」も、現在やっと輪郭の見えつつある学習指導要領の次の改訂も、基本的にはこの枠組みを出ていない。夏休みくらい一度「コンプライアンス」から解放されて、ちょっとばかし「不適切」で、ちょっとばかし「配慮の不足し」た、ちょっとばかし「誤解を招くかもしれない」過ごし方をした方がかえって精神衛生上良いのではないか。私は最近、そんな確信を抱き始めている。

夏休みくらいは、一度「コンプライアンス」という言葉を忘れてみてはどうだろう。「適切か」「誤解を招かないか」「誰かを傷つけないか」と四六時中考え続ける生活から、ほんの数週間だけ距離を置いてみるのである。少しくらい「不適切」で、「配慮が足りない」と言われそうな本を読み、映画を観て、酒を飲み、学生時代からの友人と議論を交わす。教師という仕事は、そうした自由な時間の中でこそ、自分の教育観や人生観、世界観をじっくりと編み直すことができるのではないか。

どうせ2学期が始まれば、私たちはまた「適切」を求められるのである。「説明責任」が求められ、最大限の「配慮」が求められる。再び「正しさ」を求められる日常に縛り付けられる。もちろん教職にある以上、それは仕方のないことだ。それ自体を否定することはできない。しかし、一年365日、それだけが求められ続ける社会では、もう私たちは干上がってしまう。だから夏休みくらいは、その呪縛を解こう。教師にとって夏休みとは、休養の季節、研修の季節に止まらない。自由を取り戻し、自分を取り戻す季節でもあるのだ。

年休さえ取れば、その一日、私たちは自由である。朝から街に出れば、そこにはそそくさと仕事に向かう人々の気の毒な姿を見ることができる。そうだ。今日は平日なのだ。ああ、それなのに自分は今日、あの人たちとは違った一日を過ごすことができる。ちょっとだけ罪悪感を感じつつも「罪悪感上等!」と気ままに過ごすことができる。教職に就いてからあなたは一度でもそんな日を過ごしたことがおありだろうか。

朝から酒を飲んだっていい。誰にも文句は言われない(ただし、小さな町で数軒しかない飲み屋に行ってはだめよ。駅にして五つくらいは離れた都市に行こうね)。学生時代の友人と久し振りに徹夜麻雀をしたっていい。明日も確かに平日だが、朝の電話1本で罪悪感一切なしに休めるのである(ただし、賭けちゃだめよ。黒川検事みたいになりかねないから)。そういや、ボーナスも出たばかりだ。一度、一杯8千円のウニ丼なんて食べてみたら新しい境地に行けるかもしれない(ただし、次の日から節約しなくちゃならないけど)。要するに「明日」を考えずに何かをやる。夏休みはそれが許される唯一の時期なのである。一番近い締め切りでさえ数週間後なのだから。

「不適切」と言われそうな本を読む。教育書でもビジネス書でも教養書でもない、暴力や性、政治、宗教、人間の醜さを真正面から描いた文学やノンフィクションを読む。絶対に「子どもに薦められない」ような本を読んでみるわけだ。問題作と呼ばれた映画やドラマを観る。炎上した作品、賛否の分かれた作品を、「仕事に役立つかどうか」ではなく、「自分はこれにワクワクするか」「自分はなんでこれにワクワクするのか」「なぜ人はこれに惹かれるのか」という視座で味わう。酒場に行く。小さな居酒屋や小さなバーに行ってみる。教師でも子どもでも保護者でもない人たちと他愛もない話をしてみる。学校とは異なる価値観に触れてみる。政治や宗教について本気で議論してみる。学校では避けがちなテーマを、信頼できる友人と忌憚なく語り合ってみる。結論を出すためではなく、自分の無意識を、自分という人間の輪郭を理解するためにだ。「役に立たないこと」に時間を使ってみる。それは釣りか、登山か、ジャズを聴くことか、落語を聴くことか、美術館で半日過ごすことか、それとも「推し」を追いかけることか。なんでもいいのだ。教育実践につながらなくていいんだから。法律に触れず、著しくモラルに反した行動でない限り、許される時間がここにあるのだ。

SNSから距離をとってみる。教育界の「正論」や「教師はこうあるべき」、職員室のおかしさや同業者の危機感を煽る言説を四六時中浴び続ける生活をやめる。世間の教師に対する評価軸から一度外に出てみる。

どうせ2学期になれば、また「正しさ」に縛られるのである。夏休みくらいは、少しだけ「不適切」に、誰にも「配慮」なんてしない、「誤解を招きかねない」行動を満喫してみようじゃないか。 取り敢えず、こんな教育サイトの連載は閉じてしまうことから始めてみてはどうだろう(笑)。

タリスカー10年

ストレート 〇
  ロック 〇
ハイボール ◎

野外のバーベキューに合うウイスキーといえば、私の中ではこれ一択だ。肉と合う。野菜と合う。脂と合う。そして何より、炭と合う。餃子を焦がしちまった…。でも大丈夫。タリスカーハイボールがある。ハンバーグを焦がしちゃった。でも大丈夫。タリスカーハイボールがあればもう安心。そういう1本だ。ベーコンエッグを作った。酒は何にしよう。迷うことはない。タリスカーハイボールがベーコンエッグを一瞬でご馳走にしてくれる。スモーキーな香り。後味に残る甘味。
何杯でも飲めちゃう爽やかさ。それでいて本格的。
夏! 肉! 野菜!そしてブラックペッパー!しつこいようだが、タリスカーハイボール一択である。

タリスカー10年のボトル
堀裕嗣先生

<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

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