「てびき」をキイワードに再発見する 伝説の教師 大村はまの国語授業づくり #9 大村はまの評価観と、単元「本が呼びかけてくる」

日本教育史上突出した実践を展開し、没後20年を経た今も伝説として語り継がれる国語教師、大村はま。現役時代の教え子であり、その逝去の二日前まで身近に寄り添った苅谷夏子さんが、今、改めて大村はまの国語授業づくりの「凄み」を語る連載です。
執筆/苅谷夏子(大村はま記念国語教育の会理事長・事務局長)
目次
読む力をどう捉えるか
時代の要請を受けながらいろいろ新しい要素は入ってきているが、国語教室の中心には、今でも「読み」「読解」というのがどっしりと据えられているようだ。テキストを正しく的確に読み、理解できているか、それをいろいろな角度から問い、読めていないようなら、気づくべき点を示し誤解を解き、しかるべきバランスの読み取りを教え、覚えさせて、理解度を確かめる、そういう流れが100年以上前から連綿と続いている。入学試験の国語の問題もそういう力を問う出題が多い。テキストをその細かいところまで読み取って、筆者が言おうとしていることを誤りなく、迅速に理解し、なおかつ、出題の意図も的確に読み取り、てきぱきと答える。それが、国語力の大きな部分として評価されている。それはとても真っ当なあり方だ、と言うこともできる。だからこそ100年以上も続いてきた。そうやって、優れた力を獲得する子どもの姿もたくさん見られたのも事実だ。
先日、ある読解力調査の問題が話題になった。
アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたでんぷんを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
セルロースは( )と形が違う。
A・デンプン B・アミラーゼ C・グルコース D・酵素
これは、もともとの文章が、一文が長く、複雑な構造を取り、専門的用語が多いこともあって初読の素人にはわかりにくい、という点を認めなければならないだろう。生物の教科書の一文などであったなら、読者は全体のコンテクストに助けられながら、基礎知識も持ちながら読むだろうが、ここだけ切り取ってクイズにし、読解力を示せ、というのは、一方的でしかない。最初に出てくる語「アミラーゼ」を知らないという時点で、早くも脱落する人が多いかもしれない。この読解力調査にこのような短文が何問出題されたか、調べていないが、後から後から現れるこうしたテキストに、脳を切り替えながら即応し理解し判断し答える、という行動を次から次へ展開させていく力は、確かに力の一つであることは認めざるを得ないが、その物差しで万人のことばの力を測るのは果たして幸せなことなのだろうか。
教育の世界でさまざまな工夫や努力がなされているのに、格差というものが一向になくならない理由の一つは、こういう「知的挑戦」にたいしていつでも迷わず本気を出して、「よし!」と全力で即座に取り掛かり、持っている知識とエネルギーを全投入する性格(特性?)がかなり偏ったものでしかなく、教育がそういう姿勢を持たない子どもたちを取りこぼしているからではないのか。
そして、実は「知的挑戦にいつでも迷わず本気で即座に取り掛かり、持っている知識とエネルギーを全投入する」ことに特化し、この瞬間も目覚ましい進歩を続けている最中なのは生成AIであって、私たちが今こそ大事にしたい言葉の力というのは、もっと別の角度なのではないのか、そういうことを考えたい。
いわゆる「頭のいいエリート層」はまず間違いなくこういう特性を持ち、得意としているから、測る側に回ったときに疑問なく同じような問い方をして、自分と同じようなエリートを掬い上げようとしているが、そこに問題はないのか。
「試験問題はみんななんとなく読むから、なかなかわからないんじゃないか」
この連載で追いかけている大村はまは、子どもの一人ひとりを目にも心にも留める教師であったが、その大村はこういった国語力の捉え方に与していなかった。
たとえばこんなことを言っている。
子どもというのはテストのような問題の読み方、対し方、これは何を書いてあるか、どことどうつながるかとか聞けば、ハタと行き詰まるかもしれませんが、ひとつの目標をもってどんどん読んでいるときに、読み取らなければならないものは……よく読み取りますね。この文章の「この」がどこへかかるかなんていうと、びっくりしちゃって何も言えないか、間違えたりしますけども、そんなことを聞かずに、何をここから読みとるということが決まっていると、よく読めるし、目的がはっきりせず、なんとなく読むと読めないんじゃないかと思っています。試験問題はみんななんとなく読むから、なかなかわからないんじゃないかと思っています。
「こそあど」などは、あまり聞いたりしない方がよいのです。聞くとわからなくなるのが普通です。「この」はどこをさしているかなどと言われると、わからなくなりますが、自分で文章全体を読んでいるときは、ちゃんとわかっているのです、なんとなく。それから、書く人もあまりどこを指すなどと決めていないのです。調子を良くするためとか、いろいろなために使っているのであって…。そういうことで、とても学習が嫌いになってしまうことがあるのです。
この「なんとなく読むと読めない」「そういうことでとても学習が嫌いになってしまうことがある」というのは、ほんとうに大人でも大いに頷けることだ。「だったら、なんとなく読むんじゃなくて、いつも本気で、全力で読みなさい。嫌いなんて言ってないで!」というのは正論だが、子どもを前にして正論がどれほど通用するだろう。
世界中でファンを獲得している漫画「ワンピース」や「鬼滅の刃」を、好奇心から読んでみたことがあるが、そこに描かれている起承転結の複雑さ、心情の機微や意外な変化、大胆な省略などを見ると、これらの作品が小学校低学年の子どもたちまでも惹きつけているということに驚かざるを得なかった。もちろんすみずみまでびしっと完璧に読み取っているわけではないだろう。もし試験があったら、いい点を取れない読者もいることだろう。それでも彼らは愛読者となり、続きを知りたいと夢中になる。読みたくて読んでいるから、大事なことは受け止めている。もしわからなければ、誰かに聞くかもしれないが、わからないままでもぐいぐいと先へ読み進めるのも平気だろう。彼らはちゃんと一人の読者なのだ。
大村はまはこんなことも書いている。
ここに一つの読みものがあります。この読みものを全部の子どもが、同じ時に読みたいと思うとは考えられません。それでも、たいていの子どもは当たり前の顔で読み始めます。そういう習慣ですので、たいへん読みたいと思わなくても先生が読むといえば読むわけですが、そういうことをして、自主性のない、読書力の弱い子どもたちがそだってしまったのではないでしょうか。ぜひ、自主的な、ほんとうの読み手、本を活用できる人にと考えると、どうしても今までの方法では応じきれないものがあるのです。
「たいへん読みたいと思わなくても先生が読むといえば読むわけです」、そういう子どもの偽らざる事実を、そのまま認識して、「自主的な、ほんとうの読み手」になっているかどうかを問い続けたのが、大村はまの驚くべき強みなのではないだろうか。
大村はこうも言う。
「力を測るなら、本気になっているときの力を測らなければ」
テストだからと言って、全員が同じ熱意で本気になる保証はどこにもない。
ずいぶん前に、あるテレビ番組の中で人気グループ嵐のメンバーであった大野智が、念願の船舶免許を取得しようと、先生について熱心に勉強する様子が紹介された。その中で、彼が言ったのは、「生まれてからこれまで、試験のために勉強するっていうことを一度もしたことがなかった。いい点を取りたいとか、合格したいとか、思ったこともなかった。みんなは、こんなふうに勉強してたの?」と心底驚いていたのだ。それを聞いた私も、そうかとしんみり驚いた。試験があるからといって、即座にスイッチが入る心性は、決して普遍的なものではない。ちびまる子ちゃんやはまじを見ると良い。そして、勉学の場で容易に本気になれない子どもを責めても始まらないのではないか。
大村が言う「力を測るなら、本気になっているときの力を」という姿勢は、実にやさしく、ありがたいと思う。
だからこそ、大村は一人ひとりの子どもが我がこととして思わず本気になる新鮮なプロジェックトを繰り返し持ちかけた。学力を測られるために国語教室にいるのではなく、「よし」と自分ごととして受け止めた取組を、なんとかかんとか考えを進めるために読みもすれば書きもする、話し合う――そういう中で、いつかしら「力」というものが育っていく、というプロセスを、大村は信じたのだ。そして、その力が本気で発揮されている瞬間を捉えて、今の力を測るわけだ。
こういう姿勢であったから、大村教室では教科書の文章を単調に次から次へと読み解いていく、という授業は行われなかった。言語に対する興味や感度はこれまでの連載でご紹介したように日常の中で育まれ、それが読解の一部に食い込むことはあっても、それが読み手の読む気を遮ることにはならなかったから面白い。
主体的な読み手を育てる試み―「本が呼びかけてくる」―
次の「本が呼びかけてくる」という取り組みは私自身が中学2年の9月(1970年)に実施された単元だ。大村全集第8巻に記録がある。
本が呼びかけてくる
指導のはじめに(談話)
・本を読んだ後と読む前とでは、自分が何かの点でちがってきてはいないか。力がつくとかつかないということではない。何か、それまで考えなかったことを考えていたりしないか。
・本は何かを呼びかけてくる、本を読む心に何か動くものがある。
・手に取って開かないあいだは、本は何も言わない。手に取って、そして開くと、本はしきりと話し出す。
こういう談話から始まった単元は、私にとっては大変新鮮なものだった。何が一番新鮮だったかというと、当時、優等生気質があった私は、本を読むときに、どうしてもまっさきに「書いてあることを正しく読み取る」ことを目指して突っ走ってよむような姿勢があり、その結果、読者としてはどこか頭の固い、ふくらみの乏しい状態であり、それを実はうすうす残念なことと感じ始めていた。素直な、受動的な読者であった私には、クラスメイトの自由な発想による発言などが想像を超え、驚かされるようなことがちょこちょこあった。
読む力をどんどん伸ばしている時期の生徒たちに、ぽんとこの単元を示した大村の見通しの良さは、さすがである。
全員に次のてびきが配られた。一行一行、先生の音読を聞きながら読んでいく。これから本を読むと、目の前の本が、読んでいる「わたし」に向かってたとえばこんな声をかけてくるんじゃないか? その声に引かれて、なにかが新たに浮かび上がってくるのではないか、それを掬い取ろう、というてびきだ。面白いチャレンジだと感じた。テキストは中学2年の国語教科書から7作品が使われた。文学、エッセイ、ルポルタージュ、論説文などが含まれる。9月のその日まで教科書は家に置き、開かない約束をしていた。それをいよいよ使う日が来たわけだ。一冊のアンソロジーと捉え、心を揺らせ、イメージを広げながら、読者として豊かな何かが自分の中に生まれるのを期待する。メモ用紙を沢山用意し、一枚に一項目、作品名と使ったてびきの番号を記しながら、心に、頭に浮かんだことをすかさず記録する。
本が呼びかけてくる てびき
- この本を読んで、何か、問題を発見したんではないか。
- これが疑問だろう。
- 不思議だと思わないか。
- たいへん知りたいことができたんじゃないか。
- この本を読んで考えはじめたことは?
- どう発展すると思う?
- ぜんに空想に誘われたって、どんな空想に?
- 「そうそう、そういうことがあった」すっかり忘れていたことを思い出さなかったか?
- この本を読んで、なにか、やってみたいこと、思いつかなかったか?
- なんかやる気が出てきたんじゃないか。
- 今まで思いもしなかった、ああ意外だ、って何に驚いているのか。
- なんか、ひどく考え方のちがってきたことは?
- そんなに好きなのか、そこのところ!
- ちょっとしたことが、ひどく心にしみることもあるものだ。小さなことでも、自分には大きなことなのだ。それはどこ?何?
- 「うそだ、うそだ、そんなことない」って、なにが?
- 「こんな本あればね」そう思った本はないか。
- 書いた人に聞きたいこと?それでもいい。
- 読んでいたら、とんでもないことを思いついた― そうか、どんなことを? 本に関係ないこと?自分に関係あるじゃないか。
- もっと書いておいてほしかったことがある? どんなこと?
- 次はどんな本を読むか。
このてびきは、どれをどういう順番で使ってもいいし、多少変えてもいい、使わなくてもいい、示唆されて別のことを考えてもいい。その他、というのももちろんいい。とにかく、本に導かれて多彩に読むということを体験すればよい。てびきのことばは、軽やかに、上手に発想を誘い、これに導かれることは面白かった。
大村全集に記載された当時14歳の私の記録の一部を紹介しよう。数字はてびきの数字を指す。
「ラスコー洞窟の壁画」
9 こんなことがしてみたい
もし私が2万年も前の世界の人となることができたなら、偉大なる芸術家のすみかをたずねたい。そして話をしてみたい。瞬間写真ほどの鋭い目を一つのことに熱中して向けている、そんな人、とても魅力的だから。彼らはきっと動物を愛しているだろう。
「野生のエルザ」
2 これが疑問
たくましく、人間にすっかりなついて成長したライオンを、自然のふところに返すことが、そんなに必要だろうか。自分の力で野獣を倒せるようになることが、エルザにとって本当に喜ばしいことだっただろうか。野に帰ったエルザは幸せだったろう。でも、人間の世界で一生を過ごしたとしても、作者のような人たちの中にいたのなら、幸せだったんじゃないかと思う。
7 空想
エルザが森を歩いていると、土人が来て,ワアワアと騒いて槍を投げてきました。エルザは今までやさしい人間だけしか知らずに過ごしてきたので、このようなことをする動物も人間だということがわかると、裏切られたような悲しい気持ちになりました。とびかかりたいのを我慢して、エルザは、森の奥へと入ってゆきました。……こんなことがあった後、「わたし」が会いに行ったとしたら、エルザはどんな行動をするのだろうか。
大村は、生徒がそれぞれ何番の手引きをつかったか、それも把握している。
ちなみに私はこんな使い方をしたようだ。
1-ゼロ回 2―2回 3-1回 4-1回 5-3回 6―ゼロ回 7-1回
8-ゼロ回 9―1回 10―1回 11-2回 12-1回 13-5回
14-4回 15-2回 16-1回 17-3回 18-2回 19-1回
20-3回 0(その他)-3回
この使用回数のまとめは全員が手にした。私のてびきの使い方の「満遍なく、ソツがない」様子はいかもに優等生らしいことだが、1、6、8のてびきを使う機会がなかったことは、自分でも少し思い当たる節があって、重大なこととして捉えたのを覚えている。
1 この本を読んで、何か、問題発見したんではないか。
てびきの冒頭にあるこの声にこたえて堂々と言葉にするほどの「問題」というのは、私にとっては手が届かなかった。ちょっとした疑問とか、不思議というようことでなく、「問題」とまで言えることを自分の中から浮かび上がらせることは、難しいことだった。
今考えればもっと気楽でよかったとも思うが、一方で、大村はまが言語感覚をしっかり育てているあの教室で、「問題」ということばを軽く受け止めまいとしていたこともまた意味があるように思う。
6 どう発展すると思う?
8 「そうそう、そういうことがあった」すっかり忘れていたことを思い出さなかったか?
この二つのてびきを一度も使わなかったことも、ちょっと残念なことだった。自分の頭の固さが表れたように思った。「正しく読み取る」という呪縛は、こういう方向を私から遠ざけていたのかもしれない。無念な気がした。
ともかく、この単元をきっかけに、「問題を発見できる人でありたい」「自由に本と行き来しながら読む世界も持ちたい」と私ははっきり思うようになった。14歳でそう自覚したことで私の読書は変わったのだ。

生成AI時代の評価はどうあるべきか
これは主体的な読み手として本に向かうことを誘う一つの実例に過ぎない。全員がばらばらにこうした活動の結果をまとめ、少し発表し合ったように思うが、この単元の成果としてなにが正しいというような評価が入りこむことはなかった。
大事なのは、主体的な読み手として本の世界を広げるその瞬間を味わうことであり、同時に、そのために読むということそのものを丁寧に、誠実に、熱心にする、という経験を積んだことだった。「何をここから読みとるということが決まっていると、よく読める」ということの実例だろう。
そういう国語教室で大村は試験のための練習的な授業をしなかった。
なんど量っても、量ることでは砂糖は増えない。
などと可笑しな例え話をしてくれたりした。くりかえし試験問題を解いても、それで力はつかない(砂糖は増えない)。
読解の力がいつのまにか少しずつしかし確かについていくような多彩な試みを、そのつど汗をかきかき夢中になって重ね、気づけば力はついてゆき(砂糖は増え)、ある時測ってみれば嬉しい手ごたえを得る、そういう見方を大村は生徒にも示して、焦りや不安をなだめた。
最初に挙げたセルロースの問題も、注意深く丁寧な読み手が本気を出して読めば正解に達することはできる。大事なのは、いかに「注意深く丁寧な読み手」を育てるかだ。
もう一つは、力というものをどう測るか、という評価の問題も大きなポイントだろう。後から後から問題を出せばいいというものではないだろう。それを後から後から正解する子どもはいつの時代にもいるだろうが、その見方が別のタイプの子どもの成長を阻害していないか。生成AI登場の時代にそんなことが評価の型になっていいのだろうか。
99歳を目前に亡くなった大村はまは、亡くなる直前の時期にどうしても伝えたかったことを3点あげていた。その一つが「てびき」、二つめが「話し合うことの指導」、そして三つ目が「評価」だった。

<大村はま略歴>
おおむら・はま。1906(明治39)年横浜市生まれ。東京女子大学卒業後、長野県諏訪市の諏訪高等女学校に赴任。その後、東京府立第八高等女学校へと転任。すぐれた生徒たちを育てるが、戦中、慰問袋や千人針を指導、学校が工場になる事態まで経験する。
敗戦後、新制中学校への転任を決め、後に国語単元学習と呼ばれるようになった実践を展開。古新聞の記事を切り抜いて、その一枚一枚に生徒への課題や誘いのことばを書き込み、100枚ほども用意し、駆け回る生徒を羽交い締めにして捕まえては、一枚ずつ渡していったと言う。1979(昭和54)年に教職を去るまで、単元計画をたて、ふさわしい教材を用意し、こどもの目をはっと開かせる「てびき」を用意して、ひたすらに教えつづけた。退職後も、90歳を超えるまで、新しい単元を創りつづけ、教える人は、常に学ぶ人でなければならない、ということを自ら貫いた。著書多数。
2005年、98歳10ヶ月で他界。その前日まで推敲を進めていた詩に、「優劣のかなたに」がある。
<筆者略歴>
かりや・なつこ。1956年東京生まれ。大田区立石川台中学校で、単元学習で知られる国語教師・大村はまに学ぶ。大村の晩年には傍らでその仕事を手伝い、その没後も、大村はま記念国語教育の会理事長・事務局長として、大村はまの仕事に学び、継承しようとする活動に携わっている。東京大学国文科卒。生きものと人の暮らしを描くノンフィクション作家でもある。
主な著書に『評伝大村はま』(小学館)『大村はま 優劣のかなたに』『ことばの教育を問い直す』(鳥飼玖美子、苅谷剛彦との共著)『フクロウが来た』(筑摩書房)『タカシ 大丈夫な猫』(岩波書房)等。

ロングセラー決定版!
灯し続けることば
著/大村はま
「国語教育の神様」とまで言われた国語教師・大村はまの著作・執筆から選びだした珠玉のことば52本と、その周辺。自らを律しつつ、人を育てることに人生を賭けてきた大村はまの神髄がここに凝縮されています。子どもにかかわるすべての大人、仕事に携わるすべての職業人に、折に触れてページを開いて読んでほしい一冊です。(新書版/164頁)
大村はま先生の貴重な講演動画!「忘れ得ぬことば」大村はま先生 白寿記念講演会 5つのことばがつむぎ出す、国語教育の源泉【FAJE教育ビデオライブラリー】〈動画約60分〉がこちらでご覧いただけます。
