堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s Bar 一杯分だけ、話そうか。#1 コミュニケーションの不確かな壁

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による新連載がスタート。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムで、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのボトル」も紹介します。
執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)
目次
1.的確に対応するだけで適切に対応できない人たち
ある日のことである。
コンビニの買い物で1,436円の支払いに現金10,501円を出した。お釣りは9,065円である。この5円を1円玉で渡された。「5円玉ないんですか?」と訊くと、「ありますけど、5円玉がよろしいですか?」と。二十歳くらいの女性である。ちなみに外国人ではない。
このおかしさが理解できない若者が増えた。私にはレジに立つ資格がないように思えるが、コンビニ側としてはそうも言っていられないほどに人手不足なのだろう。やり取りを見ていた隣のレジの年配女性(五十代くらいか)がすぐに気づいて対応してくれたが、それがなければ揉めていたかもしれない。昔なら小学校しか出ていない相当なおじいちゃん、おばあちゃんでもこんなことはなかった。かつてアメリカに旅行に行ったとき(90年代半ば)、スーパーのレジの女性がお釣りを数えられなくて、しかもそんなことに何度も何度も遭遇して驚いたものだが、日本もそんな国に近づきつつあるようだ。
今回のレジの女性の側から見れば、いまどき現金で支払いするなんてとか、なぜうちの店は自動でお釣りの出るレジじゃないのかとか、いろいろ言い分はあるのかもしれない。しかし、レジに立つという者にとって、この程度のスキルを持ち、配慮ができるというのは最低限の職能だろう。少なくとも、そう考える世代や階層がいるということを知っていて然るべきである。
これまたある日のことである。
私はとある研究会の講師としてある地方都市に赴いていた。会場は公営ながらとても立派な建物で、一階のロビーではあるリフォーム会社が大規模な相談会を開いていた。私が研究会の出番を終えて玄関脇にある自動販売機で飲み物を買っていると、背後から「ああ~」という大きな声が聞こえた。振り向くとリフォーム会社のベテラン社員と思しき男性(五十代後半くらいか)が嘆き顔をしている。「折れちゃってる……」と溜息交じりにつぶやく。相談会のために入口の両側に8本ずつ、合計16本の幟が立っていた。風の強い日で、そのうちの1本が折れてしまっていたのである。男性はすべての幟を片づけることに決めたようで、まずは折れた1本を地面から抜くところから作業を始めた。
しばらくして、二十代前半と思しき若い女性が出てきて「お手伝いしましょうか?」と男性に近づいた。すると男性はかがみこんだ窮屈な姿勢のまま「いいよいいよ。忙しいでしょ」と。女性は間髪を入れず、「そうですか」と踵を返した。振り返ることもなく、会場に戻って行く。
「え~~っ?」
私は心の中で叫んでいた。おいおい。そりゃないだろ。
彼女が声をかけたとき、男性は3本目の幟を抜こうとしていた。16本中の3本目である。まだ13本ある。数分後、中年女性(四十代後半くらいか)が出てきて、何も言わずに幟を抜き始めた。二人は会話をかわすこともなく、ただ当然のように無言で力仕事に取り組んでいた。なにせ風の強い日である。幟が風にはためき、1本抜くのも容易ではない。そんな作業に中年男女が黙々と精を出していたわけだ。
ここからは私の想像である。
おそらく中年女性は男性がなかなか戻ってこないので、若い女性にちょっと見てきてと頼んだ。若い女性がすぐに戻って来たので訊いてみると、「手伝いましょうか?」と言ったけれど「いい」と言われたので戻って来た、と。中年女性は呆れて、若い女性に何も言うことなく、自ら手伝いに来ることにした。そんなところなのではないか。
おそらくこの若い女性にこの話をしても、彼女からはこんな反応が返ってくるのかもしれない。
「手伝ってほしいなら手伝ってほしいとちゃんと言うべきだ。自分は手伝わなくていいと言われたから戻っただけだ。それが非難の対象にされるのはおかしい」と。
まあ、ある意味では正しい。
2.映画を早送りし非言語コミュニケーションができない人たち
数年前、稲田豊史の『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書/2022年4月)がずいぶんと話題になった。映画を早送りしながら観る人が増えたことを入り口にして、この国の若者たちのメンタリティにどんな傾向が見られるのかを分析するものである。
その要諦は、映画の「間」に暗示される人間関係や感情の変遷を読み取れずに、必要なことはすべて台詞で伝えられるはずだと考える人が増えたということなのだが、なるほどすべてが台詞に表現されるとすれば、少しくらい早送りをしても台詞が聞き取れればいいということになる。
前節のエピソードで挙げた二人の若者も、確かに台詞(=言葉)には反応している。レジの女性は私の「5円玉はないんですか?」という問いには、ある意味的確に対応していると言えるかもしれない。また、幟の片付けを手伝わなかった女性も、男性の「いいよいいよ。忙しいでしょ」という言葉に真正面から対応していると言えなくもない。
しかし、彼女たちは相手の言葉に「的確」に反応しているかもしれないが、「適切」には反応できていない。コードに基づいたテキストにのみ目を向け、その言葉がどういう背景で発せられているかというコンテクストに目が向けられていない。彼女たちにあるのは言葉というものの機能を「情報を伝達する」ことのみにあるとする無意識の確信である。
さて、『映画を早送りで観る人たち』において、最も象徴的な事例として話題になったのは、「『嫌い』と言ってるけど本当は好き、が通じないんですよ」というある脚本家の言である。この事例は年長世代にとってある種の衝撃をもって迎えられた。この本にはこんなエピソードも紹介されている。
とある作品のワンシーンで、男女が無言で見つめあっているが、互いに相手から視線をはずさない。明らかに好意を抱きあっている描写だ。しかしある視聴者は、それが相思相愛の意味だとわからず、誰かから教えられると、こう反論した。
「でも、どっちも『好き』って言ってなかったから、違うんじゃない? 好きだったら、そう言うはずだし」
こうした質のコミュニケーション不全が現在の若者のどの程度を占めているのかはわからない。しかし、前節で紹介した幟を片づけなかった若い女性が、私の中ではまさにこのエピソードと重なるのである。「だって私が『手伝いましょうか』って言ったのに対して、〇〇さんは『いいよいいよ、忙しいでしょ』って断ったんですよ」と。要するに言葉になっていないものはこの世に存在しないし、言葉になったものに関しては絶対なのだと。私は〇〇さんの言葉に的確に対応しただけだと。
しかし、「言葉」には、狭義の言葉と広義の言葉とがある。「狭義の言葉」とは発話者が意思や情報を伝えるために言語を用いる、「道具としての言葉」だ。これに対して「広義の言葉」とはいわゆる言語のみならず、非言語コミュニケーションと一体化した「言霊としての言葉」である。長時間会話はかわさないものの、互いに視線をはずすことなく見つめ合っているという描写も「広義の言葉」だし、1,436円の支払いに現金10,501円を出すのも、広義には「できるだけ細かい硬貨はまとめて欲しい」という意味の「言葉」である。いわばこれらは、実際に音声化されないものの「比喩的な言葉」なのであって、決して蔑ろにして良いものではない。
かく言う私にもこんな経験がある。ある日私は比喩の授業で、「公孫樹の樹も箒になった」(高村光太郎「冬が来た」」)を例に隠喩を解説していた。「これ、どういう意味だと思う?」と訊くと、多くの生徒たちが「イチョウの樹で箒をつくった」と言う。ほう、と一呼吸、「それ、何も喩えてなくない?」と問い返すと、「ああ、そっか」との反応。そこでもう、生徒たちにはそれ以上のイメージがわかない。もちろんこれは公孫樹の樹が落葉し、冬枯れのような枝だけになったという意味であるわけだが、ついぞそんなイメージを提示する生徒は現れなかった。
もしかしたら、これは生徒たちばかりでなく、二十代、三十代の若者たちも同じなのかもしれない。たとえ彼らにその意味を説明しても、「そんなのわかるわけない」と言われるのがオチなのかもしれないのだ。確かに生徒たちは「これはこういう意味だよ」と説明するとなるほどという顔はしたけれど、それは私と生徒たちとの人間関係故のことであって、知らないおじさんに対してなら「そんなのわかるわけない」と叫ぶかもしれないのである。
比喩は「誘惑」である─そう喝破したのは寺田 透だが、「公孫樹の木も箒になった」は確かに冬のおとずれを形象させる表現として私を誘惑する。浮かんだ情景はその後、白い雪原へと連想を膨らませ、ついには樹氷のイメージにさえ連なっていく。生まれてから半世紀を超えて北海道に住み続ける私には、落葉のイメージは長い冬の寒さと、その美しさを連想させるのだ。言葉にはそういう機能がある。言葉は豊穣なのだ。
しかしその逆に、言葉には確かに限界がある。映画において、十秒の間でじっと遠くを見つめるとか、数十秒の間で目を潤ませながら見つめ合うとか、一瞬の間に軽蔑を込めて一瞥するとか、一日の仕事を終えて控室にボーっと長時間たたずむとか、こうした場面を台詞で描写する機能を言葉はもたない。映像作品の「間」には、こうした場面がふんだんに散りばめられている。「間」の創り出すこれらの機能のすべてを台詞で表現できるわけがないのだ。いや、むしろ台詞などに閉じ込めてよいはずがないのである。
鷲田清一が生田久美子『「わざ」から知る』(東京大学出版会/2007年11月)を引いて、こんなことを言っている。芸能において師匠は弟子に比喩的な言葉で指示するというのである。舞で扇子を開くときには「天から舞い降りる雪を受け入れる」ように。闇のなかで蛍を追う振りの工夫に苦労していたら「指先を目玉にしたら」。人の到着をいまかいまかと待つ振りを、「揚げ幕に丸い穴をあけてそこから向こうをのぞくように」。決して「腕をもっと上にあげて」とか「指先に全神経を集中させて」などとは言わない。
台詞にすべてが説明されると考える若者たちが芸事を習うとき、師匠にこのような比喩的指示を与えられたらどう応えるのだろう。「そんなのわかるわけない」と言って師匠を責めるのだろうか。その裏で、実は「腕をもっと上にあげて」「指先に全神経を集中して」という指示を欲するのだろうか。できるだけ芸事の習熟を早送りしたい、そんな思いを抱きながら─。
3.理念ばかりを先行させ現実を見ていない人たち
私はなにも、いわゆる「Z世代」を批判したいわけでも非難したいわけでもない。現在私の学年にも新卒教師が二人いて、特に彼らとのコミュニケーションに不便も不全も感じてはいない。そもそも私は中学校教師であり、日々中学生と向き合う毎日を過ごしている(彼らは「Z世代」の下の世代として昨今は「α世代」と呼ばれるらしい)。確かに冒頭の二つの事例以上のコミュニケーションの断絶を感じることはあるが、彼ら彼女らはまだ「子ども」であり、「教育の対象」であるわけで、多少のすれ違いがあったとしても腹が立つことはない。
ただ私が危惧するのは、この国の教育改革(学習指導要領の更新を含む)がこうした若者たちの実態を調査したうえで立案されているのか、ということである。
行政に諮問された審議会が抽象的な大文字の理念に従って学校改革を叫ぶのは致し方ない面もある。これからの時代に必要な理念的な資質能力を子どもたちに求めたくなる心象も理解できなくはない。しかし、これからの学校改革を具体的に進めていくのは現在「若手」と呼ばれる教師たちである。「Z世代」も既に三十代になろうとしている。学校を具体的に、中心的に運営していくのは彼らなのだ。子どもたちについても同様である。理念的に正しいとされる資質能力を身につけていくだけのレディネスが子どもたちに備わっているのか。備わっていないとすれば、それを補充するための手立ては具体的に採られているか。そもそもそうした補充的手立ての在り方が特別支援教育にのみ向けられてはいまいか。これまで本稿で例に挙げてきた若者たちは決して「特別な支援」を要する成育歴をもつ人たちではないのだ。それともそういうことは「個別」の事案だから現場で工夫せよと言うのだろうか。それが「個別最適化」であると。
この国の教育改革は常にその時代その時代の理念に基づいて展開されてきた。データもエビデンスもなく、西洋をモデルとした「これこそ本物の教育だ」「これからはこういう教育が必要だ」とする声高な抽象的理念によってである。もちろんそれらは日本の子どもたちにとって、この国が更に発展することを願って、「善意」によって採られてきた政策であろう。それを疑っているわけではない。
しかし、この国の文教政策は、新しいものを採り入れて大きな改定をするときに、その改定によってこれまでの慣習が知らず知らずのうちに培っていた何かが失われる可能性がないかと考えることを、それを真剣に検討することを怠ってきたのである。これまでの臨教審以来の教育改革は、理念的に正しいはずだという確信のもとに、それまでの「日本らしい教育」「日本人に適した教育」「日本人の誰もが『まあこんなものかな』と腹落ちする教育」の要素を次々に削ぎ落してきたのではなかったか。そして、データもエビデンスもないままにやはり理念的な課題が自覚され、また新たな「あるべき教育」という理念によって無反省に更新することを繰り返してきたのではなかったか。そしてそろそろ、その弊害が限界を迎えつつあるのではないか。現在の若者たちの姿は、その反映なのではないか。少なくてもその可能性がないか。そろそろこうしたことが本格的に検討されなくてはならないと思うのだ。
今夜は、この一杯。
デュワーズ12年 水楢
ストレート ◎ ロック ◎ ハイボール 〇
2026年5月26日に発売されたばかり。ストレートは香りがフルーティにしてスパイシ ー。テイストはバニラ感とともにスパイシー感が際立つ。ボディは通常のデュワーズ12年 と比べてかなり重い。ロックではボディが少しだけ軽くなるが、甘さとミルキーさが前面 に出てくる。
ストレートとロックは好みが分かれるところ。私はロックに1票。

<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。
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