【新連載】堀 裕嗣&北海道アベンジャーズが実践提案「シンクロ道徳」の現在形 ♯1 「シンクロ道徳」の条件

堀 裕嗣&北海道アベンジャーズが実践提案「シンクロ道徳」の現在形 バナー

 確固たる理論的裏付けに基づくクリエイティブな教材開発と授業実践に定評のある実践者、堀 裕嗣先生が編集委員を務める道徳の新連載がスタートします。北海道の凄腕実践者たちを中心に、毎回、「攻めた」授業実践例をリレー執筆で提案していきます。第1回は堀先生によるイントロダクションです。

編集委員/堀 裕嗣
執筆/堀 裕嗣 

1.的確な世界の切り取り方

道徳に限りませんが、教材開発が上手い人というのは、他人が抱かないような強い思いをもっていたり、大きな問題意識をもっていたり、或いは深い洞察力をもっていたりといったイメージで見られています。確かにそういう面はあるのだろうと思います。

しかし、強い思いや大きな問題意識や深い洞察力をもっていたとしても、それを1本の授業に構成するとなると、そこには別の力が必要であるように思います。それはいわば、「世界を的確に切り取る力」とでも言うべきものです。1時間の授業で学習者に思考を促すには、その入り口として世界を的確なアングルで切り取って提示しなくてはなりません。教材開発が上手い人というのは、自分が子どもたちに到達させようとしている強い思いや大きな問題意識や深い洞察に誘(いざな)うための、的確な「世界の切り取り方」をして提示しているように思うのです。授業が濁ったり授業が混乱したりすることの多い人は、その到達点にふさわしいような的確な世界の切り取りができていない。そういう人は発問を複雑にしすぎたり、学習活動や演出を装飾しすぎたりして、かえって授業をわかりにくくしてしまうことも少なくありません。

的確に世界を切り取って提示すれば、発問や構成はシンプルでも機能するのです。

2.谷川俊太郎作「生長

先日、谷川俊太郎さんが亡くなりました。御逝去が報道されるとともに、SNSにはたくさんの追悼コメントが寄せられました。特に、国語教育の関係者からはほぼ全員がコメントを上げたのではないかと思われるほどに、追悼コメントが溢れていました。谷川俊太郎さんが国語教育にいかに貢献し、国語教育者にいかに愛されたかということを再認識する機会となりました。

谷川俊太郎さんの詩で私が好んで教材化してきた作品に「生長」(『谷川俊太郎詩集』思潮社・1965年)があります。

生長  谷川俊太郎

三才
私に過去はなかった

五才
私の過去は昨日まで

七才
私の過去はちょんまげまで

十一才
私の過去は恐竜まで

十四才
私の過去は教科書どおり

十六才
私は過去の無限をこわごわみつめ

十八才
私は時の何かを知らない

この詩は中学生にとって、授業でその世界観を思考させるにはちょうど良いと思って、90年代から国語の授業で何度も教材化してきました。幼少期から青年期へと至る過程において、「過去」というものがどういう意識的変遷を辿るのか。そのことをユーモアを交えつつ、それでいて最終的には哲学的な展開へともっていく。しかもこのような「過去観」の変遷とも言うべきものを幼少期から青年期の変遷に止めたところも、この詩を味わい深いものにしています。もちろん、「過去観」は老年期に至るまで、簡単に言うなら死ぬまで変遷し続けるものであるわけですが、そうした人生全体の変遷を扱うのではなく、あくまで青年期までの変遷に止めることで、誰もが経験や体験を通して親しみ、味わうことのできる構成になっています。タイトルが「成長」ではなく「生長」であることも、「過去観」の変遷が精神的変遷のみというのではなく、肉体的生長と連動していることが表されています。まったく、谷川さんらしい見事な詩だと思います。

3.国語と道徳の違い

2010年代になって、道徳の教材開発が盛んに求められるようになり、私はこの詩を道徳でも教材化するようになりました。

国語での教材化と道徳での教材化とでは、重点が変わります。前者ではあくまで「言語教育」として、谷川俊太郎さんの提示している世界観を文脈や構成から読み取ることが求められるのに対して、後者では「道徳実践力」醸成の糧として、自らの「過去観」の変遷と比較・対照することで自らを振り返り、道徳観や道徳意識を高めていくことが求められるわけです。前者が「過去観」と「生長」の連関に対する谷川さんの考えを読み取る中で「詩の読み方」を学ぶのに対して、後者が谷川さんの詩(谷川さんの考え方)を触媒として、自分なりに「過去とは何か」「生長とは何か」を考えてみると言えばわかりやすいでしょうか。両者は目的が異なるわけです。

国語科のように、一編の詩を的確に読むことが求められるとすれば、まずはその詩を読み込まなくてはなりません。この詩の世界観をしっかりと把握することの優先順位が高くなります。もし「過去観」に関する別の詩があったとしても、それを読むのは、一般に「生長」を読み込んだ後の発展学習として、ということになるでしょう(もちろん、「比較読み」自体が目的となる国語科授業はあり得ます)。しかし、道徳の授業において、「過去」や「生長」について自分の考えを広げ深めるために、その詩を「触媒」として機能させるということになると、話は違ってきます。場合によっては触媒が複数あった方が、自らの思考が広がったり深まったりするということが充分にあり得るわけです。

もちろん、触媒が複数あった方が良いと言い切れるかどうかには議論の余地があります。しかし、道徳の教科書教材の多くが、あまり「力」のある教材ではないにもかかわらず一つの教材で触媒としての機能を果たそうするために、現場がなかなか子どもたちの心に迫る授業ができない現実に陥っていることを思えば、複数の触媒の効果は一度、真剣に考えてみる必要があるでしょう。私は明確に複数教材論者です。

4.小泉𠮷宏作『戦争で死んだ兵士のこと』

さて、私は谷川俊太郎作「生長」とコラボさせる教材として、例えば小泉𠮷宏の絵本『戦争で死んだ兵士のこと』(ベネッセ・1997年12月)を選びます。

「今はのどかな森の中の湖のほとり、/ひとりの兵士が死んでいる」と始まるこの絵本は、26頁にわたってこの兵士の過去を遡っていきます。10日前に彼女にプロポーズし、7日前に彼女を両親に紹介したこと。大学生のときに父親の会社が倒産し、学費免除の資格を得るために学内の陸軍予備士官学校に入ったこと。高校でバスケットに夢中だったことや小学生のときに犬と散歩に出て迷子になったこと。少しずつ少しずつ、しかし確かな存在感をもって、兵士として死んでいくまでの彼の短い人生が可逆的に語られていきます。

ウクライナ、パレスチナと、死者は毎日、「数」として報道されます。その数が多ければ私たちは気の毒に思い、日本に生まれて良かったなとの感慨を抱くことになります。しかし、この絵本はそうした死者たちにも具体的な人生があったことに思いを至らせます。そうした想像を喚起し、遠い地に思いを馳せる気持ちを呼び起こします。

私たちの記憶に新しいところでは、あのコロナ禍の初年度、2020年以来、3年以上にわたって私たちは毎日、新規感染者と感染による死者を「数字」として把握させられてきました。数字ではない感慨として受け止めたのは、身近な人が亡くなったのでない限り、志村けんさんや岡江久美子さんといった著名人だけではなかったでしょうか。著名人の死が私たちに大きなショックを伴って受け止められるのは、そこに彼や彼女の具体的な「歴史性」を感じ取るからです。ああ、あんなギャグを通じて我々を楽しませてくれた。チョーさんが亡くなったときのあの表情が忘れられない。あのドラマのあの役柄を見事に演じていた。朝のワイドショー番組の司会者として長年にわたって親しみをもってきた。そうした具体的な「歴史性」を感じ取るからこそ、著名人の死は数字には還元されなかったのです。

しかし、『戦争で死んだ兵士のこと』は、そうした具体的歴史性を知らない市井の人々にも、両親がいて、兄弟がいて、家族がいて、恋人がいて、仲間がいて、長年にわたる喜怒哀楽のあれこれが確かに存在したであろうことを思い起こさせます。「過去」とか「生長」とかといったものは、その具体的な「歴史性」抜きには語れない、考えられないものだということを実感させます。私はこの絵本を歴史に遺すべき素晴らしい作品だと思っています。

5.シンクロ道徳の条件

この絵本を谷川俊太郎「生長」とコラボして読む。「生長」を読んだ後に『戦争で死んだ兵士のこと』を読むのもいいし、『戦争で死んだ兵士のこと』を読んだ後に「生長」を読むのもいい。いずれにしても、どちらか一編を読むよりも、「過去とは何か」「生長とは何か」を広く深く考えることができます。両者が構成も表現手法も異なりつつも、基本的には同一のテーマ性を扱っているからです。

このように二つ以上の教材をコラボさせて、複合的に「触媒」として機能させる道徳授業を、私は「シンクロ道徳」と呼んでいます(詳細は拙著『道徳授業10の原理・100の原則』明治図書出版・2023年5月)。

「シンクロ道徳」を成立させるには、教師の力量として幾つかの条件があります。

まず第一に、言うまでもないことですが、たくさんの「教材の原石」を知っている必要があります。これまで述べてきた「生長」と『戦争で死んだ兵士のこと』のコラボ授業は、両者を知っている、知っているというよりは両者を読んだことのある者にしか作れません。

もちろん、ここで言う「教材の原石」は必ずしも活字資料や書籍資料である必要はありません。音楽だったり、映画だったり、テレビドラマだったり、YouTube等を含めた様々なメディア報道であったり、学校でのあるあるネタであったりと様々です。いずれにしても様々な情報に日常的に触れ、しかもそれをストックしているという条件が必要です。

第二に、そうした題材(=情報)に触れている、つまり「生長」や『戦争で死んだ兵士のこと』であれば、それを「読んでいる」「読んだことがある」という程度では教材化できません。その題材について深く思考した経験をもっている。その題材について自分なりの深い解釈を得ている。そうした題材同士でなければコラボ教材にはなり得ません。それはいわば、二つの題材について深く思考した経験をもち、自分なりの深い解釈を持ち得た者だけが獲得できる、「的確な世界の切り取り方」として立ち現れてくるものなのです。

谷川俊太郎さんも、小泉𠮷宏さんも、自分なりの問題意識に従って自分なりのアングルで「世界」を切り取った結果としてこれらの作品を創作しました。教師がそうした作品に敬意を抱きつつ、且つ自らの独自の問題意識とアングルを発揮して「世界」を切り取る。しかもできるだけその「解像度」を高める。少なくとも高める努力を怠らない。「シンクロ道徳」はそうした地点に生まれるのです。

※この連載は、原則として毎月1回公開します。次回をお楽しみに。

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