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堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s  Bar 一杯分だけ、話そうか。#21  溶けて見えなくなる技術~『相棒』のゲスト俳優と熟練教師

連載
堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣
連載「一杯分だけ、話そうか。」バナー

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による連載第21回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。

執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1.25年目の「相棒」

10月21日。今夜9時、また『相棒』が始まる。

なんと25作目である。「season25」だ。四半世紀である。昨シーズンまでで465話。今シーズン、『相棒』は現行の連続ドラマとして日本歴代最長シリーズになる。杉下右京を演じる水谷豊自身、「よくぞここまで来たな」と思う一方で、「あっという間だった」とも感じるという。水谷はこの長さを自分一人のものではなく、スタッフやキャストがそれぞれの仕事を積み重ね、視聴者も含めてつくってきた「歴史」だと語っている。25年続くとはそういうことなのだろう。同じ俳優が同じ役を演じ続けるだけでは25年にはならない。

『相棒』が最初に放送されたのは2000年6月3日だった。『土曜ワイド劇場』の一作、『相棒・警視庁ふたりだけの特命係』として始まり、3本の単発ドラマを経て、2002年10月9日に連続ドラマとなった。

以来25年。杉下右京の隣に立つ「相棒」は、寺脇康文演じる亀山薫から、及川光博演じる神戸尊、成宮寛貴演じる甲斐享、反町隆史演じる冠城亘へと代わり、season21からは再び亀山薫に戻ってきた。

その間、テレビを見るという行為そのものが変わった。2002年にはYouTubeもなかった。Netflixが日本でサービスを始めるのはずっと後のことである。ドラマは毎週決まった曜日の決まった時刻に見るのが普通だった。それがいまでは見逃し配信があり、過去のシリーズまで好きな時間に見ることができる。

その変化の中を、『相棒』は生き延びてきた。

私は、その全話を観ている。

だから杉下右京についても、歴代の相棒についても、それなりに語りたいことはある。脚本についても、忘れられない回が幾つもある。政治、官僚組織、警察、企業、家族、教育……。『相棒』は事件を解決するという刑事ドラマの形式を用いながら、その時代の「社会」を描いてきた。

しかし、私が『相棒』を観続けてきた楽しみにはもう一つある。

ゲスト俳優である。

刑事ドラマというのは少し変わった形式のテレビドラマだ。主人公は毎週同じである。しかし、事件を起こす人間は毎週違う。殺される人間も違う。疑われる人間も、嘘をつく人間も、秘密を抱えている人間も違う。つまり、一話ごとに新しい人生をつくらなければならない。

しかも『相棒』では、犯人が単純な悪人であることはむしろ少ない。人を殺した。それは間違いない。しかし、なぜそこまで追い詰められたのか。何を守ろうとしたのか。何を失ったのか。どこで人生を間違えたのか。右京が真相を明らかにしても、こちらの気持ちまできれいに片づくとは限らない。決してカタルシスだけを得られるドラマではない。

犯人が逮捕されて、哀しさだけが残る。『相棒』にはそんな回が幾つもある。

だからたぶん、犯人役は難しい。

最初から怪しい顔をしていては困る。いかにも何かを隠していますという芝居をされても困る。最後の10分、右京に追い詰められる場面だけ熱演すればいいわけではない。その人物が、事件を起こす前にも生きていたこと。仕事をしていたこと。誰かを愛したこと。誰かを憎んだこと。何かを諦めたこと。その積み重ねの先に、たまたま私たちが見ている一日がある。それが見えなければ、犯人はただの「犯人役」になってしまう。

私は長く演劇をやってきた。そのせいか、ドラマを見ていても、筋を追いながら同時に役者を見てしまう。台詞をどう言うか。それ以上に相手の台詞をどう聞いているか。どこで息をするか。どこで目を逸らすか。立っているときに重心をどこに置いているか。自分に台詞がないときに何をしているか。『相棒』にはそういうところを見たくなるゲスト俳優が実に多い。

そして全話を観ていると、ときどき妙なことが起こる。

「あれ、この人、前にも出ていたな」

調べるまでもなくわかることもある。しかし別の役である。以前は犯人だった俳優が、何年かすると別の事件に現れる。前には事件の中心にいた俳優が、今度はまったく違う立場で右京たちの前に座っている。同じ顔であり、同じ声である。こちらは以前の役も覚えている。それなのに、まったく別の人生に見える。

『相棒』は25年続いている。当然、出演した俳優の数も膨大になる。長く続けば、過去に出演した俳優を別役で再び起用すること自体は珍しくないだろう。しかし、私が面白いと思うのはそこではない。何度も呼ばれる俳優がいることである。一度出演し、何年か経ってまた別の役で呼ばれる。さらに何年か経って三度目がある俳優までいる。

前には犯人だった。今度も犯人だった。しかし、同じ犯人ではない。愛する人を失う怖さから罪を犯す人間もいる。自分が築いてきたものを守ろうとして一線を越える人間もいる。正しいと信じていたことが、いつの間にか他人の人生を踏みにじっていることもある。俳優は、そのたびに別の人生を背負って『相棒』の世界へ戻ってくる。私はいつのころからか、事件そのものと同じくらい、そのことが気になるようになった。

なぜ、その俳優たちは何度も『相棒』に呼ばれるのだろう。

そしてなぜ私たちは、以前の役を知っているのにまた別の人間として見てしまうのだろう。

2.別の人生を生きる女優たち

例えば、中原果南である。

『相棒』にはこれまで三度出演している。

最初は2011年、season9第11話「死に過ぎた男」。演じたのは「川野真紀子」という女性である。6年前に死んだはずの男の遺体が発見される。男は実は生きていて、「佐藤修」という偽名を使い、弁当店で働きながら真紀子と暮らしていた。真紀子にとっては、過去を捨てて自分と生きている男だった。ところが男には、別の人生があった。妻がいた。娘がいた。真紀子は、男がその家族のもとへ戻ろうとしていると思い込み、男を殺してしまう。だが、最後に明らかになるのは、男が真紀子との結婚を考えていたという事実だった。指輪まで用意していた。真紀子は失うことを恐れるあまり、本来失われるはずではなかった幸福を自分の手で壊してしまう。

二度目は2015年、season14第6話「はつ恋」。今度はアートディレクターの「白石由紀」である。気鋭のジャンクアーティスト、山本将人が転落死する。その腹部には刺し傷があった。由紀は山本を世に出そうと支援してきた人物として登場する。ところが物語が進むにつれ、彼女が才能ある芸術家の弱みを調べ、その弱みを利用しながら相手を自分の支配下に置いていたことが見えてくる。山本にそれを知られ、由紀は彼を刺す。結果的に刺し傷そのものが直接の死因ではないことが明らかとなるが、彼女もまた傷害事件の加害者だった。

三度目は2022年、season20第17話「米沢守再びの事件」。鉄道事業本部長の「松原玲子」である。廃線をめぐって町が二つに割れている。その対立を利用しながら、自分たちに都合のいい方向へ事態を動かそうとする。そこに殺人事件が起こる。かつて鑑識課にいた米沢守が久しぶりに登場する回でもあり、鉄道といういかにも米沢らしい題材の陰で、玲子の企みが少しずつ剝がされていく。

中原果南は『相棒』に三度出て、三度とも加害者の女を演じた。しかし、一度として同じ種類の「悪女」を演じなかった。「川野真紀子」は、愛する男を失うことへの恐怖に呑み込まれた哀しい女だった。「白石由紀」は、人間の才能を愛しながら、その人間そのものを自分の支配下に置こうとする女だった。「松原玲子」は、組織と事業の論理の中で、人間を駒として扱えるところまで行ってしまった女である。

同じ顔である。同じ声である。しかし、三人の女の人生は交わらない。

中原果南は1971年生まれ。1990年、仲代達矢が主宰する「無名塾」に入った。テレビドラマでは昼の帯ドラマ『はるちゃん』シリーズの主演で記憶している人も多いかもしれない。しかし、その出発点には「無名塾」での厳しい舞台俳優としての修業期間がある。

そして『相棒』を見ていくと、「無名塾」出身の女優が他にもたくさんいることに気づく。

例えば赤間麻里子である。赤間も『相棒』に三度、別の役で出演している。2012年のseason11第1話「聖域」の「江崎絹子」、2016年のseason15第8話「100%の女」の「棚橋希代子」、そして2025年のseason23第13話「レジリエンス」の「和田彩子」である。最後の「和田彩子」は、5年前に息子を殺された母親だった。事件の被害者遺族として、長い時間を背負って画面の中にいる。

中原果南と赤間麻里子。二人には共通点がある。「無名塾」である。赤間は1989年から約10年間、「無名塾」に在籍した。中原が入塾したのは1990年。二人はほぼ同じ時期に、仲代達矢のもとで芝居を学んでいたことになる。他にも渡辺 梓、長尾奈奈 、大西多摩恵 など、『相棒』には無名塾で舞台経験を積んだ女優たちが多数出演している。

ただし、ここで「なるほど、『相棒』は『無名塾』の女優を重用してるんだな」と結論づけると、話は簡単にすぎる。「無名塾」とはまったく別の経歴を持ちながら、同じように私の記憶に残っている女優たちがいる。

例えば、大路恵美 という女優がいる。かなりの美形女優だ。『ひとつ屋根の下』の「柏木小梅」と言えば、私と同世代なら顔を思い浮かべられる人も多いかもしれない。そんな「知られた顔」を、『相棒』は二度、まったく違う人生に使っている。Season7「レベル4」では微生物研究所のエリート研究員「長峰千沙子」。そして11年後のseason17「10億分の1」では、職を失い、ネットカフェで暮らし、フリマアプリで日銭を稼ぐ「橋本美由紀」である。物語の冒頭、美由紀は橋の上に立っている。冠城亘に声を掛けられ、「考え事をしていただけ」とその場を去る。そして数日後、転落死体となって発見される。2008年の大路恵美は「国家的危機にかかわる研究所の人間」。2019年の大路恵美は「社会からこぼれ落ちてしまった名もない女」。こんな二つの人生を見事に生きた。同じ女優なのに、11年前の「長峰千沙子」が邪魔をしない。まして「柏木小梅」も邪魔をしない。

もう一人、挙げたい女優がいる。ハマカワフミエである。「無名塾」とはまったく別の経路からやって来た舞台俳優である。

2015年、season13第18話「苦い水」に「西崎早苗」として出演している。右京と享が被害者の周辺を調べていくと、何人もの女性が浮かび上がってくる。その中の一人が「西崎早苗」だった。美大生である。被害者と交際していた。しかも、ただ付き合っていただけではない。「早苗」は被害者の子を妊娠し中絶している。それでも二人の関係は続いていた。ハマカワフミエが面白いのはここからである。「早苗」は被害者を死なせた犯人なのだ。

殺すつもりだったわけではない。ちょっとこらしめてやろうと思った。その行為が被害者を死なせてしまう。前節で私は犯人役は難しいと書いた。最初から怪しい顔をしていては困る。いかにも何かを隠していますという芝居をされても困る。「西崎早苗」はまさにそういう役である。

初めて観る私たちには、被害者と付き合っていた何人もの女の一人に見えなければならない。しかし「早苗」を演じているハマカワフミエは、その時点ですでにすべてを知っている。被害者を愛したことも、その子を妊娠したことも、中絶したことも、他の女たちの存在に傷ついていたことも、自分が男を心ならずも死なせてしまったことも。知らないのは観ている私たちだけである。

だからといって、その秘密を表情に出せばドラマは壊れる。反対に、何も背負わず「普通の女」を演じても、最後に犯人だとわかったとき、それまでの場面がつながらない。犯人だとわかってから見返したとき、「この女はこのとき既に全部を抱えていたのだ」と見えなければならない。ハマカワフミエはそれを見事にやってのけている。ハマカワもまた、間違いなく「西崎早苗」を生きている。当時まだ30歳前後だったはずだが、大女優だと感嘆させられた。私はもう十年以上、彼女の『相棒』への再登場を心待ちにしている。

では、中原果南、大路恵美、ハマカワフミエに共通するものは何なのか。

中原果南が演じた3人の女を並べてみると、その答えが少し見えてくる。

「上手く演じている」という感じがしないのである。「川野真紀子」が哀しそうに見えるのではない。哀しさを抱えたまま何年も暮らしてきた女に見えるのだ。「白石由紀」が冷たそうに見えるのではない。自らのコンプレックスをバネにして、他人の才能を自分の論理の中に組み込んで生きてきた女に見えるのだ。「松原玲子」が強そうに見えるのではない。組織の論理の中で強く振る舞うことを長く要求されてきた女に見えるのだ。

演技が、その人物の人生の後ろに隠れているのである。

おそらく、『相棒』がゲスト俳優に要求しているのは、犯人らしく見せることではない。犯人であることを隠すことでもない。罪を犯してしまった一人の人間として、最初からそこにいることである。

たぶん『相棒』が求めているのはそういう俳優たちなのだ。

3.見えなくなる演技

どうやら、これは私の勝手な印象ということではないらしい。

『相棒』の生みの親とも言えるプロデューサー松本基弘は、ゲスト俳優のキャスティングについて興味深いことを語っている。「『相棒』には舞台出身の実力派俳優が多く、彼らは短い出演時間でも強い印象を残す」。なるほど、やはり『相棒』に舞台俳優が多いのは偶然ではないのだ。

では、舞台で長く芝居をしてきた俳優の何が、『相棒』というドラマに合うのだろう。

私は前節で、「演技が、その人物の人生の後ろに隠れている」と書いた。

これは不思議なことである。下手な役者はすぐにわかる。台詞を言っている。泣くところで泣いている。怒るところで怒っている。しかし、こちらには「この人はいま悲しい芝居をしている」「ここは怒る場面なのだ」ということばかりが伝わってくる。役ではなく、演技が見えてしまう。

ところが、本当に上手い役者を見ていると逆のことが起こる。

技術が見えない。

もちろん、技術がないわけではない。むしろ逆である。膨大な技術があるからこそ、その技術が見えなくなる。芝居というものは、台詞を覚えてそれらしく言えば成立するものではない。相手役が言葉を発する。その言葉を受け取る。そこで何かが起こる。少し間が空く。目線が動く。呼吸が変わる。身体の向きが変わる。その結果として次の台詞が出てくる。

もちろん台本にはそこまで書いていない。「三秒黙る」「右下を見る」「一度息を呑んでから話す」などと、すべて指定されているわけではない。役者は、その人物がその瞬間に何を見て、何を感じ、何を隠そうとしているのかを自分の中につくり、その結果として身体を動かす。しかも、それを「つくっている」と観客に感じさせてはいけない。ここが難しい。

私は芝居を見ていると、どうしても役者の技術に目が行く。間の取り方がうまい。声の落とし方がいい。相手の台詞を受けた瞬間の表情がいい。そういう見方をしてしまう。ところが、本当にいい芝居に出会うと、その見方そのものを忘れる。役者を見ていたはずなのに、いつの間にか人間を見ている。「この役者はうまい」と思う前に、「この人はどうしてこんなことをしてしまったのだろう」と思っている。

中原果南の「川野真紀子」を観ているとき、私は「嫉妬する女の芝居が上手い」と思っているのではない。男を失うのが怖くて仕方のない女を見ている。

大路恵美の「橋本美由紀」もそうだ。こちらは『ひとつ屋根の下』の「柏木小梅」を知っている。顔も知っている。声も知っている。それでも橋の上に立っている彼女を見れば、「柏木小梅」ではなく、仕事を失い、居場所を失い、どこにも行けなくなった一人の女がいる。

ハマカワフミエの「西崎早苗」を観ているときも同じである。「秘密を隠す演技が上手い」と観ているのではない。好きだった男を死なせてしまい、その事実を抱え、戸惑いながら右京たちの前に座っている女を見ている。

役者の仕事というのは、変身することなのかもしれない。ただし、顔が変わるわけではない。声が変わるわけでもない。特殊メイクをするわけでもない。同じ顔で、同じ声で、別の時間を背負う。

この人には、この場面より前にも生活があった。朝起きた。飯を食った。電車に乗った。誰かと喧嘩した。誰かに謝れなかった。夜、一人で泣いたこともあった。台本に書かれていないそうした時間を、役者が身体の中に持っている。だから、その人物が画面に現れた瞬間、私たちは「この人はここへ来る前にも生きていた」と感じる。演技とは、そこまでやって初めて消えるのだろうと思う。

演技が消えると、役だけが残る。いや、役さえ残らない。一人の人間が残る。

私は、それが熟達というものなのだと思う。

熟達した人間は、技術をたくさん見せる人ではない。むしろ技術が見えなくなる。何気なくやっているように見える。自然にやっているように見える。本人にとっては、それほど難しいことをしているようにさえ見えない。しかし、その「何気なさ」の後ろに、何年も何十年もかけて身につけた技術がある。

相手を見る。声を聞く。間を取る。身体を置く。余計なことをしない。必要なときだけ動く。そういう無数の技術が身体の中に沈み込み、いちいち意識しなくても出てくるようになる。それが「自然」に見える。「自然」とは、何もしないことではない。技術の痕跡が消えていることなのである。

『相棒』を観ていると、ときどきそういう役者に出会う。

そして私はそのたびに思う。

上手い人ほど、上手く見えない。

4.身体に溶ける技術

実は同じことは教師にも言える。

若いころの私は、授業の技術を一つ覚えるたびに、それを使いたくて仕方がなかった。発問を工夫する。指名の順番を考える。板書を構成する。子どもの発言をつなぐ。沈黙を待つ。教室を歩く。どれも教師にとって必要な技術である。

しかし、技術を覚えたばかりの教師の授業には、ときどき「技術」が見える。

ここでこの発問をしたかったのだな。この発言を拾って次へ進みたかったのだな。この場面で子ども同士を交流させたかったのだな。教師の意図が透けて見える。もちろん、それが悪いわけではない。誰でも最初はそうやって技術を身につけていく。

しかしやがて、経験を重ねると少しずつ技術が見えなくなる。予定していた発問をしない。子どもの一言で授業の流れを変える。いつもなら拾う発言を敢えて拾わない。教室がざわついてもすぐには注意しない。逆に、誰も問題にしていない小さな表情の変化に声を掛ける。

外から見れば、何もしていないように見えることさえある。しかし、何もしていないのではない。

見ているのである。聞いているのである。そして、それまで身につけてきた無数の技術の中から、その瞬間に必要なものだけを選んでいる。いや、「選んでいる」という意識さえないことも多い。技術が身体の中に溶けているのだ。

教師の世界では、優れた実践を言語化し、技術として共有することが大切にされてきた。私自身、長い間そういう仕事をしてきた。それは必要なことだと思っている。言葉にしなければ、技術は他人に渡せない。

ただ、一つだけ忘れてはいけないことがある。

言葉にされた技術は、まだ技術の入口なのである。それを何度も使い、失敗し、捨てたり拾ったりしながら、最後には自分の身体の中に溶けていく。沈んでいく。そうして初めて、技術はその教師のものになる。

今夜9時、『相棒』がまた始まる。

私はたぶん事件の行方を追いながら、またゲスト俳優を観る。そして、上手い役者が出てくれば、その上手さを忘れてその人物の人生を観る。それでいいのだと思う。

技術というものは、最後には見えなくなるためにあるのだから。

中原果南と大路恵美とハマカワフミエ、出ないかなあ…。

はい。ただのファンです。ごめんなさい。

ジャックダニエル

ストレート 〇
 ロック ◎
ハイボール◎(コーラ割◎)


世界で最も有名なアメリカンウイスキー。テネシーウイスキーである。蒸留した原酒をサトウカエデの木炭で濾過する「チャコール・メローイング」という製法で知られる。誰でも一度は黒い四角いボトルを目にしたことがあるだろう。香りはバニラ、カラメル、バナナ。口に含むとしっかり甘い。しかし、ただ甘いだけではなく、奥に木の香りと少しばかりの苦みがある。ストレートも悪くないが、私はロックかコーラ割。ジャックダニエルのコーラ割は特に「ジャックコーク」と呼ばれる。

ジャックコークには、上品な肴はいらない。唐揚げ、フライドポテト、ソーセージ、ハンバーガー。ケチャップもマスタードもどんと来いである。私はベーコンをカリカリに焼いて合わせるのが好きだ。脂っこいものをひと口、ジャックをグイッ。これでいい。

冷蔵庫に肉がある。今夜はジャックでいい。

いや、今夜はジャックがいい。

#20 ウイスキー写真

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堀裕嗣先生

<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。筆者のnote→https://note.com/hirotsugu1966

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