堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s Bar 一杯分だけ、話そうか。#22 人口減少後に遺されるもの~子どもたちが生きる切ない未来

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による連載第22回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。
執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)
目次
1.二つの合理性
1983年10月23日、北海道の東部を走っていた一本の鉄道路線が、その役割を終えた。
国鉄白糠線(しらぬかせん)である。
白糠線は、根室本線の白糠駅から北へ向かって延びていた。最終的な営業距離は33.1キロ。終点は北進駅と言う。現在の感覚からすれば、なぜそこに鉄道をつくったのだろうと思ってしまうような場所を走っていた路線である。
しかし、もちろん、最初から「誰も乗らない鉄道」をつくろうとしたわけではない。白糠線の建設が構想された背景には、沿線に広がる森林資源や地下資源の開発があった。北海道の内陸部にはまだ開発すべき資源があり、それを運び出す交通手段として鉄道が期待されたのである。更に白糠線は、北へ延伸して足寄方面へ至り、池北線(池田町と北見市とを結ぶ路線)と結ばれる構想をもっていた。決して白糠から内陸へわずか33キロ入ったところで終わることを目的につくられた鉄道ではない。
最初の区間である白糠~上茶路(かみちゃろ)間が開業したのは1964年10月7日。東京オリンピック開会式の3日前である。日本中が高度経済成長の熱気のなかにあった。
東海道新幹線が開業したのが、そのわずか6日前、10月1日だった。東京では首都高速道路が整備され、各地で高速道路の建設が進められていた。鉄道も道路も、これから人や物がもっと動くことを前提につくられていた時代である。人口は増える。経済は成長する。地方は開発される。いま交通量が少なくても、道路や鉄道を通せば、そこに新しい産業が生まれ、人が集まり、町ができる。少なくとも、そういう未来を想像することにそれほど無理のない時代だった。
白糠線も、そうした時代の未来予想図のなかにあった。
ところが、その未来はやって来なかった。
沿線で期待されていた炭鉱開発は思うように進まず、林業を取り巻く状況も変わっていく。しかも、日本社会そのものが急速に自動車の時代へと移っていった。白糠線が開通したころには、すでに地方の移動手段の中心が少しずつ自動車へと変わり始めていたのである。
それでも白糠線は延びた。最初の開業から8年後の1972年、上茶路から北進まで10.3キロが延伸された。駅名が象徴的である。「北進」。文字どおり、更に北へ進んでいくことを予感させる名前だった。
しかし、列車はそこから先へ進まなかった。
北進駅が白糠線の終点となった。
鉄道は不思議な存在である。線路は、二本のレールが続いているだけでは鉄道にならない。その先に人がいる。その先に町がある。その先に産業がある。そして、その二つの場所を行き来する人がいる。そういう「その先」があって初めて、二本のレールは意味をもつ。
白糠線は、その「その先」を失っていった。利用者は増えなかった。収入よりも維持するための費用の方がはるかに大きい。国鉄全体が巨額の赤字を抱えるなか、こうした地方の赤字路線をいつまで維持するのかという問題が、1970年代から80年代にかけて大きな政治課題になっていく。
そして1980年、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」、いわゆる「国鉄再建法」が成立する。輸送密度の低い地方路線について、鉄道として維持するのが適当なのか、それともバスなど別の交通手段に転換するべきなのか。その判断が全国規模で始まった。
そこで白糠線に突きつけられた数字は、あまりにも厳しかった。
営業係数、2,872。
100円の収入を得るために、2,872円の経費がかかるという数字である。数字だけを見れば、結論はほとんど出ている。これを維持するのは合理的ではない。そして白糠線は、国鉄再建法にもとづく特定地方交通線の第一次廃止対象路線となった。全国で廃止対象となった路線のなかでも、最初に鉄道としての営業を終えることになったのである。
1983年10月23日。最終列車が走った。翌24日から、白糠線に列車が走ることはなくなった。開業から19年。北進まで延びてからわずか11年だった。
ここまでの話だけなら、白糠線の廃止にはそれほど不可解なところはない。利用者が少ない。赤字が大きい。代替となるバスを走らせることもできる。国鉄そのものが膨大な赤字を抱えている。利用者の少ない路線を税金や他路線の収益によって維持し続けることにも限界がある。廃止する理由はいくらでも挙げられる。しかも、その一つ一つには筋が通っている。
しかし問題は、むしろそこにある。
白糠線は、誰かがとんでもない判断をしたために消えたわけではない。乱暴な権力者が突然線路を剥がしたわけでもない。利用状況を調べ、収支を計算し、将来を予測し、代替交通を検討したうえで、「鉄道として維持する合理性がない」と判断された。つまり白糠線は、極めて合理的に消えたのである。
しかし、ここで一つだけ引っかかる。
鉄道をつくった1960年代にも、おそらくそこに「合理性」はあったはずなのだ。資源を開発する。人を運ぶ。地域を発展させる。将来は更に北へ延ばす。そのために鉄道を敷く。当時の人々は未来を予測し、その予測に基づいて「合理性」をもって白糠線をつくった。
そして20年も経たないうちに、今度は別の未来予測にもとづいてその鉄道をなくしたのである。
つくったときにも合理性があった。
なくしたときにも合理性があった。
だとすれば、私たちが考えなければならないのは、「白糠線を廃止したのは正しかったのか、間違っていたのか」ということではない。もっと厄介なのは、ある時代には合理的だった判断が、別の時代にはまったく逆の合理的判断に置き換わり、まったく逆の判断が下されることがあるということである。そして、白糠線のように、二つの合理性のあいだで消えていくものがある。そういうことだ。
2.合理化の円環
さて、白糠線が廃止された翌日の1983年10月24日から、白糠線に代わってバスが走り始めた。
鉄道がなくなったからといって、沿線に暮らす人々の移動手段をすべて奪ってしまったわけではない。鉄道よりも維持費の安いバスに置き換える。利用者が少ないのであれば、何両もの車両を走らせ、線路や駅を維持し、除雪をし、さまざまな設備を保守し続けるよりも、道路を走るバスによって人々の移動を保障した方がいい。これもまた、極めて合理的な判断である。
そして、この判断を「都会の人間が地方を切り捨てた」とだけ批判するのも、おそらく公平ではない。利用者が少なくなっても鉄道を維持し続けるためには、誰かがその費用を負担しなければならない。赤字だからといって、線路の補修をやめることはできない。雪が降れば除雪しなければならない。橋梁やトンネルも点検しなければならない。駅や信号設備も維持しなければならない。列車を走らせるためには運転士をはじめとする人員も必要になる。乗客が一人になっても、百人乗っていても、鉄道を一本走らせるために必要な仕組みの多くはなくならない。だから利用者が減れば減るほど、一人の利用者を運ぶために必要な費用は大きくなる。白糠線の営業係数2,872という数字は、その現実を端的に示している。
しかし、「100円を稼ぐために2,872円かかる」という言い方には一つの特徴がある。それは、鉄道を「収入と支出」という一つの尺度によって見る言葉だということである。もちろん、経営を考えるうえではそれでいい。むしろ、それを考えない経営などあり得ない。問題は、その数字が間違っていることではない。数字はおそらく正しい。問題は、数字が正確であればあるほど私たちがその数字によって「すべてを見た」ような気持ちになってしまうことである。
鉄道が一本あることによって、何が生まれているのか。
高校生が町の学校へ通うことができる。高齢者が病院へ行くことができる。買い物に出ることができる。離れた町で働くことができる。人が訪ねて来ることができる。荷物が運ばれる。そして何より、「ここから別の場所へ行ける」という感覚をその土地に暮らす人々がもつことができる。こうしたものは、切符の売上には必ずしも表れない。一本の鉄道が地域にもたらしている価値のすべてを、運賃収入として回収することはできないからである。
これは鉄道に限った話ではない。例えば郵便局。一日に訪れる客が少ない小さな郵便局を、経営効率だけで見れば、大きな郵便局に集約した方がいいという結論になるだろう。例えば病院。一日に診察する患者が少ない診療所なら、設備も医師も大きな病院に集約した方が効率がいい。例えば商店。例えば銀行。例えばガソリンスタンド。例えばバス停……。
一つ一つを取り出して採算を計算すれば、「なくしても仕方がない」という結論が出る。そしてその判断は一つ一つを見ればおそらく間違っていない。
ところが、それらが一つずつなくなっていくと、あるところで事情が変わる。郵便局まで車で40分。病院まで1時間。買い物をするにも隣町まで行かなければならない。高校へ進学すれば毎日長い時間をかけて通学する。冬になれば、その移動自体が容易ではなくなる。そうなると、その土地に暮らすことそのものが少しずつ難しくなっていく。
人口が減ったから店がなくなる。人口が減ったから交通機関がなくなる。人口が減ったから病院がなくなる。ここまでは分かりやすい。
しかし、その先には逆向きの矢印がある。店がなくなったから住みにくくなる。交通機関がなくなったから住みにくくなる。病院がなくなったから住みにくくなる。
そして、人が出ていく。
つまり、「人が減ったからサービスがなくなる」という現象と、「サービスがなくなるから人が減る」という現象とは、実際には一つの円環をつくっている。この円環の厄介なところは、一つ一つの判断には合理性があるということだ。利用者が少ない鉄道を廃止する。患者の少ない診療所を統合する。客の少ない店を閉じる。利用者の少ない施設を集約する。それぞれの判断を単独で取り出せば、説明はつく。しかし、「それぞれの判断が合理的であること」と、「合理的な判断を積み重ねた結果として生まれる地域の姿が望ましいこと」とは、同じではない。
そして現在、これとよく似たことが学校でも起こっている。
少子化が進んでいる。
子どもの数が減る。学級数が減る。一学年に数人しかいない学校も生まれる。教員を配置するにも限界がある。校舎を維持するにも費用がかかる。体育館があり、グラウンドがあり、暖房設備があり、給食設備があり、それらを数十人、場合によっては十数人の子どものために維持していくことになる。
だったら近隣の学校と統合した方がいい。
子どもたちはスクールバスで通えばいい。
人数が増えれば、一定規模の集団のなかで学ぶこともできる。教員数も確保しやすくなる。部活動や学校行事の選択肢も広がる。施設を集約すれば行政コストも抑えられる。これまた筋の通った話だ。
実際、「小規模校には小規模校の良さがある」「地域から学校をなくしてはいけない」と情緒的に語るだけでは、学校統廃合の問題を考えたことにはならない。子どもがほとんどいなくなった地域に、かつてと同じ数の学校を維持し続けることはできない。人口構造が変われば、社会の仕組みも変えざるを得ない。
それでも、ここには白糠線とよく似た問いが残る。
子どもが減ったから、学校をなくす。これは分かる。
では、学校がなくなった地域に、子どものいる家庭は増えるだろうか。若い夫婦が移住先を探すとき、「この町には学校がありません。子どもは毎朝スクールバスで隣町まで通います」と聞いて、それでもその町を積極的に選ぶ人がどれだけいるだろう。
学校は、そこにいる子どもを教育する施設である。しかし、それだけではない。学校があるということ自体が、「ここでは子どもを育てられる」という地域からのメッセージにもなっているのだ。
そう考えると、学校統廃合もまた、二つの方向から見る必要が出てくる。子どもが減ったから学校がなくなる。学校がなくなるから、子どものいる家庭がその土地から遠ざかる。どちらか一方だけが正しいのではない。おそらく、どちらも同時に起こる。だとしたら、私たちは少し妙な場所に立っている。
人口が減ったから、維持できないものをなくしていく。そして、維持できないものをなくしていくことによって、人口が更に減っていく条件をつくっている。しかも、その一つ一つについて、私たちはちゃんと説明することができる。利用者が少ないから。子どもが少ないから。費用がかかりすぎるから。ほかに方法があるから。どれも嘘ではない。どれも間違いとは言い切れない。だからこそ厄介なのだ。
地域は、ある日突然なくなるわけではない。鉄道がなくなる。学校がなくなる。病院がなくなる。商店がなくなる。郵便局がなくなる。バスが減る。そのたびに、それぞれについて合理的な理由が説明される。そして最後に人がいなくなったとき、私たちは「人口が減ったのだから仕方がなかった」と説明する。しかし、本当に人が減ったから、それらはなくなったのだろうか。それとも、それらが一つずつなくなっていったから、人はそこで暮らせなくなっていったのだろうか。たぶん、その二つをきれいに分けることはできない。
3.行き先を失った橋
先日、芦別市へ行った。
目的は旧三井芦別鉄道の「炭山川橋梁」を見ることだった。
国道から山の中へ入っていく。現在の芦別市街からそれほど遠いわけではない。しかし、車を進めるにつれて人家は少なくなり、周囲は次第に木々に覆われていく。その山あいに、突然、赤茶けた鉄橋が姿を現す。
炭山川橋梁である。
橋長94メートル。深い谷をまたぎ、最も高い橋脚は30メートルほどある。1945年、三井鉱山が芦別炭鉱の石炭を運ぶ専用鉄道を延長するためにつくられた橋である。現在は国の登録有形文化財となり、橋の上には当時を思わせるディーゼル機関車と石炭貨車が置かれている。

実物を見ると、かなり大きい。
写真で見ると、森の中に古い鉄橋が一本残っているだけに見える。しかし、現地に立つと印象が違う。これほどのものを、よくこんな山の中につくったものだと思う。しかも建設されたのは1945年である。戦争末期、資材も人手も不足するなか、政府の石炭増産要請を受けて建設されたという。2年間をかけて二つの橋梁がつくられ、そのうち現在まで残ったのが炭山川橋梁である。
なぜ、そこまでして橋を架けたのか。
答えは簡単である。その先に炭鉱があったからだ。
石炭があった。石炭を掘る人がいた。掘り出された石炭を運ぶ必要があった。だから鉄道を敷いた。谷があれば橋を架けた。そして鉄道が通れば、今度は人も動くようになる。
三井芦別鉄道は、もともとは石炭輸送のための鉄道だったが、1942年には小型客車による旅客輸送も始まった。1949年には地方鉄道に改組され、その後1972年まで旅客輸送が続いた。石炭輸送はその後も続き、鉄道そのものが廃止されたのは1989年である。
つまり、かつてあの橋の上を人が行き来していた。通勤する人がいた。買い物へ向かう人がいた。学校へ通う子どもたちもいただろう。炭鉱で働く人たちがいて、その家族がいて、その人たちを相手に商売をする人がいた。そこには生活があった。
炭鉱町という言葉から、私たちはつい炭鉱だけを想像する。しかし、炭鉱が一つできるということは、坑口が一つできることではない。人が集まるということである。人が集まれば住宅ができる。商店ができる。学校ができる。病院ができる。飲食店ができる。娯楽施設ができる。道路がつくられ、鉄道が通る。そこで子どもが生まれ、育ち、恋愛をし、結婚し、また次の世代が生まれる。一つの産業が、一つの町をつくる。北海道にはそんなふうに生まれた町がいくつもあった。そして、その多くが炭鉱の閉山とともに急速に縮小していった。
ここで興味深いのは、炭鉱が閉じた瞬間に町がなくなるわけではないということである。炭鉱が閉じる。まず仕事がなくなる。働く人が町を出ていく。子どもが減る。学校が統合される。商店の客が減る。店が閉じる。公共交通の利用者が減る。便数が減る。病院や診療所を維持することも難しくなる。そして、それらがなくなることによって、今度は残っていた人たちにとっても生活が難しくなる。前節で見た円環が、ここではほとんど目に見える形で起こる。
人口が減ったから町の機能が失われる。町の機能が失われるから、さらに人口が減る。その繰り返しの果てに、かつて何千人もの人が暮らしていた場所がいつしか森へ戻っていく。
しかし、不思議なことに、すべてが消えるわけではない。
残るものがある。コンクリートの建物が残る。橋脚が残る。線路跡が残る。駅のホームが残る。人間が暮らしていたころには単なる生活の道具だったものが、人間がいなくなってから「遺構」と呼ばれるようになる。
炭山川橋梁も、その一つである。この橋は、もともと保存するためにつくられたものではない。観光客に見せるためにつくられたものでもない。石炭を運ぶためにつくられた。必要だったからつくられた。そして、その必要がなくなった。ここでもまた、白糠線と同じことが起きている。必要があったから鉄道をつくった。必要がなくなったから鉄道をなくした。極めて合理的である。
しかし、炭山川橋梁の前に立っていると、その「合理的」という言葉だけではどうにも説明しきれないものが残る。なぜなら、橋の向こう側にかつて存在していたのは、「需要」ではないからだ。
人間の生活なのである。
統計の上では、人口が何人から何人になったと書くことができる。炭鉱の年間出炭量も記録できる。鉄道の輸送人員も計算できる。学校の児童生徒数も残っている。商店の売上も、バスの乗車人数も、それぞれ数字にすることができる。しかし、それらの数字をすべて集めても、一つの町がなくなったという出来事の全体にはならない。
例えば、毎朝同じ列車に乗っていたこと。帰りにいつも寄っていた店があったこと。学校の窓から見えていた山があったこと。祭りの日に町中に人が出ていたこと。隣の家の子どもと一緒に学校へ通ったこと。雪が降った朝に、誰かが家の前を除雪してくれていたこと。そういうものは、人口統計には残らない。
だが、人間にとって「町」とは、おそらくそういうものの集積である。だから、町が消える日を特定することは難しい。炭鉱が閉山した日か。鉄道が廃止された日か。学校が閉校した日か。最後の商店が閉じた日か。最後の一世帯が転出した日か。おそらくどれも違う。町はある日消えるのではない。そこで暮らす理由が、一つずつ失われていくのだ。働く理由がなくなる。子どもを育てる条件がなくなる。買い物をする場所がなくなる。病院へ行く手段がなくなる。誰かを訪ねて行く理由がなくなる。そして最後に、「ここに住み続ける理由」がなくなる。それが、町が消えるということなのだ。
炭山川橋梁はいまも谷の上に架かっている。橋というものは、本来、こちら側と向こう側とを結ぶためにつくられる。橋は残っている。けれども、かつてこの橋が結んでいた世界の方が先になくなってしまったのだ。「こちら側」も「向こう側」もなくなってしまったのである。いわば、行き先を失った橋。
そして考えてみれば、地域から失われていく学校も、鉄道も、病院も、商店も、それぞれが一種の「橋」なのかもしれない。人と人をつなぎ、現在と未来をつなぐ。ここで暮らすことと、別の場所で暮らすこととをつなぐ。子どもが育つことと、その土地の次の世代とをつなぐ。私たちは、その橋の利用者が少なくなると、「合理的な判断」によって一本ずつ橋を外していく。
もちろん、外さざるを得ない橋もある。しかし、橋を外したあとで初めて、その橋が何と何とを結んでいたのかに気づくこともある。
炭山川橋梁の上にもう列車は走らない。
それでも橋だけはいまもそこにある。
かつてそこに人間の生活があったことを、妙に雄弁に語りながら。
4.未来の遺構
ここまで炭鉱町の話を書いてきた。炭鉱が閉じる。人が減る。学校がなくなる。商店がなくなる。鉄道がなくなる。そして最後に、かつて人間の生活を支えていた橋や建物だけが残る。どこか遠い場所の昔話のように聞こえる。
しかし、おそらくそうではない。
炭鉱町で起きたことは、一つの産業が急速に衰退したために人口減少がほかの地域より何十年か早く、しかも劇的に起こったというだけの話である。とすれば炭鉱町は「過去」ではない。むしろ、私たちの「未来」を少し先に経験した町だったと見ることもできる。
日本の人口は減り続けている。国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2020年に1億2,615万人だった総人口は、2070年には8,700万人程度になる。半世紀ほどのあいだに、およそ4,000万人がいなくなる計算である。
しかし、人間だけが消えるわけではない。現在の日本には、1億2,000万人を超える人々が暮らすことを前提につくられた膨大な構造物がある。住宅がある。学校がある。病院がある。道路がある。橋がある。鉄道がある。駅がある。商業施設がある。そして、それらは人口が減ったからといって一緒に小さくなってくれるわけではない。
人間は減る。しかし、コンクリートは残る。
これまでの日本社会は、「これから増える人間のために何をつくるか」を考えてきた。人口が増えるから住宅をつくり、子どもが増えるから学校をつくり、車が増えるから道路をつくった。
人口減少社会では、問いが逆になる。人が減った後、余ったものをどうするのか。すでに住宅ではその問題が始まっている。2023年の住宅・土地統計調査では、全国の空き家は900万戸、総住宅数の13.8%に達した。木造住宅なら、まだ想像しやすい。誰も住まなくなり、傷み、やがて解体される。しかし、鉄筋コンクリートはどうするのだろう。
例えばタワマンである。数十階、数百世帯、ときには千世帯を超える巨大な建物も、当然ながらいつか老朽化する。建物が古くなる一方で住民も高齢化する。修繕にも金がかかる。住人が減れば管理費や修繕費を負担する人数も減る。そして、いつかは壊さなければならない。そのとき、誰が壊すのだろう。誰が「この建物を終わらせる」と決めるのか。誰が解体費用を負担するのか。そもそも数十階の巨大な鉄筋コンクリートの塊を壊すことはどれほどの事業になるのか。
ここには妙な非対称がある。つくった世代と、壊す世代が違うのである。
ある時代の人々が必要だと判断してつくったものを、何十年後かの、それをほとんど利用していない人々が壊すことになる。しかも、そのころには人口が減り、費用を負担する人間そのものが少なくなっている。
炭山川橋梁は幸いにも文化財として残された。しかし、すべての橋を文化財にすることはできない。すべての校舎も、団地も、マンションも保存することはできない。残すものと壊すものを、どこかで選ばなければならない。百年後の人々が現在の東京を歩いたとき、私たちが炭山川橋梁を見るのと同じような目で、21世紀初頭につくられた巨大なタワマンを見上げている可能性だってある。
「あのころは、こんなにたくさんの人がここに住んでいたらしい」
そう考えると、炭山川橋梁は決して過去の遺構ではない。
これまで私たちは未来のために何をつくるかを考えてきた。おそらくこれからは違う。何を残すのか。何を壊すのか。そして、誰がそれを壊すのか。
人口減少とは単に人間の数が減ることではない。人間がいなくなったあとに残されるものを、残った人間が引き受けていくことでもある。炭山川橋梁の前に立ったとき、私はかつてそこにあった町のことを考えた。しかしいま思えば、あそこで見ていたのは過去ではなく、未来だったのかもしれない。
日々、私たちがかかわっている目の前の子どもたちは、いったいどんな世界を見ながら社会を歩んでゆくのだろう。この問題を思うとき、目が眩むような切ない未来像しか、私には浮かばない。
今夜は、この一杯。
イチローズ モルト&グレーン
ストレート ◎
ロック 〇
ハイボール◎
いまや世界的な人気を誇る秩父蒸溜所、イチローズモルトの定番ボトルである。いわゆる「ホワイトラベル」。複数の国のモルト原酒とグレーン原酒をブレンドしてつくられている。アルコール度数46度。人気銘柄だからと身構えて飲む必要はない。実に親しみやすいウイスキーである。
香りは柑橘、青りんご、少しだけ蜂蜜。口に含むと軽い甘味のあとからスパイスが追いかけてくる。ハイボールが人気のようだが、私はストレートが好きだ。
イチローズもすっかり有名になってしまい、手に入りにくいボトルも増えた。値段の高いイチローズモルトもたくさんある。でも、私はこの白いラベルが好きだ。ウイスキーは値段で飲むものではない。
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<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。筆者のnote→https://note.com/hirotsugu1966

