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堀 裕嗣 の辛口時評 HOLY’s  Bar 一杯分だけ、話そうか。#19  10月15日の日本人たち~アイロニカルな多面体

連載
堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形

北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣
連載「一杯分だけ、話そうか。」バナー

教育界随一の論客、堀 裕嗣先生による連載第19回。教育というジャンルに留まらず、広い社会的視野、歴史的射程に基づいた縦横無尽な論考をお届けします。毎回最後のコラムでは、教育界有数の酒豪でもある筆者の「今、推しのお酒」も紹介します。

執筆/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

1.「希望」に読み替える孤独者

1961年10月15日、一枚のレコードが発売された。

「上を向いて歩こう」である。歌ったのは坂本九。作詞は永六輔、作曲は中村八大。
音源:https://www.youtube.com/watch?v=uaYiJOYZ9II
歌詞:https://www.uta-net.com/song/172655/

いまさら説明するまでもないほど有名な曲である。発売翌年には海外でも紹介され、1963年には「SUKIYAKI」という、歌詞とは何の関係もないタイトルを与えられてアメリカで発売された。そして同年6月、Billboard Hot 100で3週連続1位を記録する。日本語で歌われた日本人歌手の楽曲が、アメリカのヒットチャートの頂点に立ったのである。この記録は半世紀以上を経たいまも、「上を向いて歩こう」という歌の特別さを物語る逸話として語られている。

しかし、この歌にはもう一つ、不思議なことがある。

私たちはいつのころからか、「上を向いて歩こう」を「希望の歌」として聴くようになった。大きな災害が起これば歌われる。苦境にある人々を励ます場面でも歌われる。テレビ番組で昭和を代表する名曲が特集されれば、たいてい「明日への希望を歌った名曲」といった文脈で紹介される。題名だけを見れば無理もない。「上を向いて歩こう」。下を向かず、前向きに生きていこう。そんなメッセージが込められているように見える。

ところが、歌詞を改めて読んでみると、どうも様子が違う。

この歌の主人公が上を向いているのは、未来に希望を見つけたからではない。夢を見つけたからでもない。まして困難を乗り越えて前向きになったからでもない。泣きそうだから上を向いているのである。涙がこぼれないように顔を上げているに過ぎない。

主人公は悲しみを克服していない。立ち直ってもいない。誰に励まされてもいない。明日になればきっと幸せになるという保証さえ、歌のどこにもない。春の日、夏の日、秋の日を思い出しながら、夜道を一人で歩いているだけである。確かに思い出の中には幸せがあるが、それはあくまで過去の幸せである。現在の主人公は「一人ぽっち」である。

よく聴いてみると孤独の歌なのだ。

しかも、この歌では「一人であること」が最後まで解消されない。友人が現れるわけではない。恋人が戻ってくるわけでもない。家族が迎えてくれるわけでもない。何かを努力して獲得するわけでもない。ただ、涙をこらえながら一人で歩き続ける。その姿だけが描かれている。

現在の学校で好まれる「励まし」の物語とは、ずいぶん違う。努力すれば夢はかなう。失敗しても諦めてはいけない。仲間と支え合えば困難を乗り越えられる。自分を信じて一歩踏み出そう。現在の子どもたちは、こうしたメッセージをさまざまな場面で受け取る。しかし、「上を向いて歩こう」はそんなことを一言も言っていない。悲しいものは悲しい。寂しいものは寂しい。幸せだった日々を思い出せば、かえって現在の孤独が身に染みる。それでも、人は歩くしかない。そういう歌である。

とすれば、奇妙である。

なぜ日本人は、これほど孤独な歌を「希望の歌」として聴いてきたのだろう。

もちろん、坂本九という歌い手の存在は大きかったに違いない。あの明るい声、独特の節回し、そして何より、テレビ画面いっぱいに広がる笑顔。同じ歌詞を、もっと陰鬱な声の歌手がゆっくり歌っていたなら、「上を向いて歩こう」はまったく別の歌として記憶されたかもしれない。中村八大の旋律も、悲しみを悲しみのまま沈み込ませるようにはつくられていない。言葉は孤独を語っているのに、歌として耳に入ってくると、不思議な明るさが残る。

しかし、それだけだろうか。

「上を向いて歩こう」が発売された1961年、日本は高度経済成長のただ中にあった。前年には池田勇人内閣が「国民所得倍増計画」を打ち出している。東京オリンピックまであと3年。東海道新幹線の開業もあと3年。テレビ、冷蔵庫、洗濯機が各家庭に入り、人々の生活は目に見えて変わり始めていた。「昨日より今日、今日より明日」という感覚を、社会全体が共有できた時代だったと言っていい。

そんな時代に、「上を向いて歩こう」は大ヒットした。

おそらく日本人は、この歌の中に、自分たちが見たいものを見たのではないか。

本当は孤独の歌なのに、「前向きに生きる歌」として聴いた。本当は涙をこらえているだけなのに、「つらくても頑張ろう」という歌として受け取った。未来について何一つ約束していない歌に、自分たちで未来への希望を付け加えてしまった。

もちろん、歌とはそういうものである。作品が世に出た瞬間、その意味を決める権利が作者だけにあるわけではない。聴く人間は自分の経験を重ね、自分なりの意味を受け取る。それ自体は決しておかしなことではない。

それでも、「上を向いて歩こう」の受け取られ方には、少しばかり日本人らしいものを感じないでもない。私たちは、書かれていることをそのまま受け取るより、自分たちが受け取りやすい物語に読み替えることが少なくない。悲しい話には希望を見つける。苦しい経験には「成長」という意味を与える。失敗すれば「いい経験になった」と言い、遠回りをすれば「無駄ではなかった」と言う。起こった出来事そのものを変えることはできないから、その出来事にポジティヴな「意味」を付加するのである。

それは、人間が生きていくための知恵でもあるだろう。すべての悲しみを悲しみのまま抱えて生きてはいけない。意味を書き換えることで、人は次の日を迎えることができる。

しかし、その習性には別の顔もある。

悲しいと言っている人間に「きっといい経験になる」と言う。苦しいと言っている人間に「成長するチャンスだ」と言う。本人が絶望しているのに、周囲が勝手に希望を見つけてしまう。そうなれば、それは励ましではなく、他人の悲しみを自分に都合よく解釈することにもなり得る。

「上を向いて歩こう」は、そんなことまで意図してつくられた歌ではもちろんない。

ただ、1961年10月15日に発売された孤独の歌を、私たちは六十年以上にわたって「希望の歌」として愛してきた。

歌の主人公は、いまも一人で歩いている。

涙がこぼれないように上を向きながら。

その姿を見て、「頑張れ」と言われているような気がしてしまうのは、歌のせいなのか。

それとも、私たちの側の問題なのだろうか。

2.「ひと休み」を愛する多忙者

1975年10月15日、一本のテレビアニメが始まった。

「一休さん」である。室町時代に実在した禅僧・一休宗純の少年時代をモデルにした物語で、テレビ朝日系列で毎週放送された。

このアニメは長く続いた。最終回を迎えたのは1982年6月28日。足かけ7年、全296話である。一休さんが座禅を組み、両手の人差し指を頭の上でくるくると回し、「ポク、ポク、ポク……チーン!」と知恵をひねり出す姿を覚えている人も多いことと思う。将軍さまや桔梗屋さんから難題を持ちかけられ、それを一休さんが「とんち」で鮮やかに解決する。そんな物語だった。

しかし、「一休さん」というアニメを思い出すとき、私の頭に最初に浮かぶのは「とんち」ではない。

「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み」

というフレーズである。

一休さんが急いで結論を出そうとせず、いったん立ち止まる。困ったことが起きても、周囲が騒いでも、あわてない。少し考える。ときには横になって休んでしまう。そうして、それまで誰も思いつかなかった解決策を見つけていく。いま考えてみると、ずいぶんと贅沢な態度である。

ところが、「一休さん」が始まった1975年の日本人が、そんなふうに「あわてない、あわてない」と生きていたかと言えば、もちろんそんなことはない。むしろ逆だった。日本の高度経済成長は、1973年の第一次石油危機を境に終わったとされる。1950年代半ばから続いた年率10%前後という驚異的な経済成長は終わり、日本経済は安定成長の時代へ入っていく。「一休さん」が始まった1975年はまさにその転換点のただ中にあった。

しかし、経済成長が終わったからといって、日本人が急に歩みを緩めたわけではない。戦後の日本社会は、働くことを美徳としてきた。朝から晩まで働く。会社のために働く。家族のために働く。昨日より多くつくり、昨日より多く売り、昨日より豊かな生活を手に入れる。会社員は会社へ向かい、子どもは学校へ向かう。受験競争は激化、「いい学校」に入り、「いい会社」に入ることが人生の一つのモデルとして広く共有されていく。

経済の方が「もう高度成長ではありません」と言っているのに、人間の身体と精神には、高度成長期に身につけた速度が残った。

止まらない。休まない。あわてないどころか、いつも何かに追われている。

そんな日本人が毎週テレビの前に座り、一休さんを見ていた。

「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み」

この言葉を愛した。

ここにも、なんとも不思議なものを感じる。

もちろん、「一休さん」が7年近くも続いた理由を、この一言だけで説明することはできない。とんち話のおもしろさがあった。個性的な登場人物がいた。子どもが安心して見られる物語だった。一休さん自身も、頭がいいだけの少年ではない。いたずらもする。失敗もする。母である伊予の局を恋しがり、寂しさに涙することもある。その人間臭さが、長く愛された理由でもあったろう。

それでも私は、「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み」が、これほど広く記憶されたことが気になる。

人は、自分が既に持っているものを、わざわざ標語にはしない。

「もっと働こう」という言葉が必要になるのは、働かなくなったと感じるときである。「人に優しく」と繰り返さなければならないのは、人に優しくすることが当たり前ではないからである。「個性を大切に」と学校が言い続けるのも、子どもの個性が放っておいても大切にされる社会なら、そもそも必要のない言葉なのかもしれない。だとすれば、「ひと休み」という言葉が愛される社会とは、みんながのんびり休んでいる社会ではない。むしろ、休めない社会だったからなのではないか。

実際、その後の日本人は休むようにはならなかった。1980年代には日本経済が再び勢いを増し、やがてバブル景気へ向かう。「24時間戦えますか」という栄養ドリンクの広告が流行するのは1989年である。働き過ぎによる「過労死」が社会問題となり、やがて「karoshi」という日本語がそのまま海外でも通用するようになる。

そう考えると、「一休さん」のあの言葉は、1970年代の日本人の生活を表した言葉ではない。日本人ができなかったことを表した言葉だったのではないか。

あわてない。

ひと休みする。

それができないからこそ、テレビの中で軽々とそれをやってのける小坊主を見て、私たちはどこかほっとしたのではなかったか。自分たちは月曜日から土曜日まで働き、子どもたちは学校へ通い、明日は今日より少しでもよくならなければならないと走り続けながら、テレビの中の一休さんには「あわてない」と言ってもらう。

考えてみれば、ずいぶん都合のいい話である。自分が休むのではない。テレビの中の一休さんに休んでもらうのである。

これは「上を向いて歩こう」と、どこか似ている。1961年、日本人は孤独と悲しみを歌った歌を聴いて、そこに希望を見つけた。歌詞に書かれていない「前向きさ」を、自分たちの側から付け加えて聴いた。

そして14年後の1975年。今度は、立ち止まることのできない社会を生きながら、「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み」と言う少年を愛した。自分たちの現実と作品の世界が食い違っている。しかし、その食い違いを気にするどころか、むしろ食い違っているからこそ、その作品を愛する。

ひょっとすると、人間は現実をそのまま映す文化ばかりを求めるわけではないのかもしれない。毎日忙しく働いている人間が、忙しく働く主人公を見たいとは限らない。自分にないもの、自分にはできないこと、自分がほんとうはそうありたいと思っている姿を、歌や物語の中に求める。

それは決して悪いことではない。文化とは、ときに現実から少しだけ離れるためにある。現実には得られないものを、物語の中で手に入れるためにある。

ただ、そこにはやはり皮肉が残る。「休むことは大切だ」と言う人間が、休んでいる人間を見ると「怠けている」と言う。「無理をしなくていい」と言いながら、自分は無理をする。「自分のペースでいい」と子どもに語りながら、「早くしなさい」と急かす。

私たちは、休むことの大切さを知らないわけではない。おそらく、ずっと前から知っている。少なくとも1975年には知っていた。毎週のように、一休さんから教えてもらっていた。

それなのに半世紀後の現在も、「休み方」をめぐる本が売れ、「何もしない時間をつくろう」と説かれ、「タイパ」という言葉を使いながら、空いた時間にまた別の予定を入れている。

どうやら私たちは、「ひと休み」の仕方を知らないのではない。知っているのに、できないのである。

1975年10月15日に始まった小坊主の物語は、そんな日本人に向かって、7年近くも同じことを言い続けた。

「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み」

それから半世紀。私たちはまだ、あわてている。あわて続けている。

3.引き際を称える不退者

1980年10月15日、一人のある国民的歌手が芸能界から姿を消した。

山口百恵である。

この日の10日前、10月5日には日本武道館で最後のコンサートが行われた。最後に「さよならの向う側」を歌い終えると、百恵はステージの中央にマイクを置き、静かに舞台を去った。その光景はいまなお、「山口百恵引退」の象徴として繰り返し放送される。しかし、正式に芸能活動を終えたのは10月15日だった。この日、所属していたホリプロの20周年記念式典に出席し、「いい日旅立ち」を歌った。その後、引退記者会見に臨み、7年半の芸能生活を終えた。21歳だった。

21歳である。

いま考えても、ずいぶんと若い。

1973年、「としごろ」で歌手デビュー。「ひと夏の経験」「横須賀ストーリー」「秋桜」「プレイバックPart2」「いい日旅立ち」……。歌手として次々とヒット曲を出し、映画やテレビドラマにも出演した。三浦友和との共演も続き、まさに人気絶頂だった。仕事がなくなったわけではない。人気が落ちたわけでもない。時代に取り残されたわけでもない。

その絶頂期に、百恵はやめた。

そして、本当にいなくなった。

ここが山口百恵という人の、いまなお特別なところなのだと思う。

芸能人の「引退」は珍しいことではない。引退を表明し、数年後に復帰する人もいる。「一夜限りの復活」がある。「デビュー何十周年」を機に再びステージに立つ人もいる。テレビの「あの人はいま」のような企画に登場することもある。芸能活動そのものには戻らなくても、インタビューを受けたり、記念イベントに顔を出したり、自伝を出版したりといったこともある。それを責める理由は何もない。人間の気持ちは変わる。人生の事情も変わる。一度決めたことを一生守らなければならないというものではない。

ただ、山口百恵は戻らなかった。

歌手として戻らなかっただけではない。芸能界そのものに戻らなかった。テレビにも出ない。歌番組の懐かしの映像を振り返る企画にも本人は現れない。かつての仲間たちと並んで思い出話をすることもない。自ら「山口百恵」を語ることで、過去の名声を現在へつなぎ直すこともしない。

歌が残った。映像が残った。そして本人だけがいなくなった。

それから四十年以上が過ぎた。いや、あと数年で五十年である。

考えてみれば、これもまた日本人の生き方とは、どこか食い違っている。

日本人は、引き際を美徳として語るのが好きである。「立つ鳥跡を濁さず」と言う。「惜しまれているうちが花」と言う。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉も好んで用いられる。スポーツ選手が絶頂期に引退すれば「潔い」と称賛し、長く地位に居座る政治家や経営者を見れば、「いつまでやっているのだ」と批判する。ところが、自分の番になると、なかなか難しい。

役職を降りても口を出す。退職しても元の職場が気になる。自分のやり方を後輩に残そうとする。政治家は「次の世代へ」と言いながら立候補し続ける。経営者は後継者を育てると言いながら権限を手放さない。組織をつくった人間ほど、その組織から離れられない。もしかしたら、これは日本人に限った話ではないのかもしれない。

人間は、自分が長くいた場所ほど離れにくい。そこで評価され、そこで必要とされ、そこで自分が何者であるかを確認してきたのだから当然である。仕事をやめるということは、収入を失うことだけではない。肩書を失う。居場所を失う。自分を必要としてくれる人を失う。そして何より、「私は何者であるか」という答えを一つ失う。

だから、やめることは始めることより難しい。始めるときには未来がある。やめるときには、自分がいなくなったあとの未来を受け入れなければならない。自分がいなくても会社は動く。自分がいなくても学校は動く。自分がいなくてもテレビ番組はつくられる。自分がいなくても世の中は何一つ困ることなく続いていく。この事実を受け入れるのは、案外つらい。

山口百恵は、それを21歳でやった。

しかも、彼女の場合には、「必要とされなくなったからやめる」のではなかった。逆である。日本中がまだまだ「山口百恵」を見たがっていた。レコード会社も芸能事務所もテレビ局も、そしてファンも、彼女が活動を続ければ喜んだに違いない。必要とされているのに、自分から終わらせたのである。

だからこそ、人々はあの引退に「潔さ」を見たのだろう。

ここにも、10月15日の妙な皮肉がある。5年前の1975年、日本人は忙しく走り続けながら、「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み」と言う一休さんを愛した。そして1980年、日本人は今度は、自分たちがなかなかできない「やめる」という行為をやってのけた21歳の女性に喝采した。

休めない人間が、休む人間を愛する。

やめられない人間が、やめる人間を愛する。

どうも私たちは、自分にないものを持っている人間に憧れるらしい。

しかも、山口百恵の場合、その「やめる」は一度きりの演技ではなかった。引退コンサートでマイクを置くだけなら、誰にでもできる。そこには演出もある。観客もいる。拍手もある。スポットライトも当たっている。難しいのは、その翌年も、その十年後も、その三十年後も、マイクを拾わないことである。

山口百恵は拾わなかった。だから、あのマイクはずっと武道館のステージに置かれたままであるように、私たちには感じられる。

その後、日本社会では「生涯現役」という言葉がしばしば肯定的に語られるようになった。人生100年時代とも言われる。定年後も働く。高齢になっても社会参加する。それ自体は決して悪いことではない。能力も意欲もある人が活動を続けることには大きな意味がある。

しかし、「いつまでもできる」ということと、「いつまでもやる」ということは同じではない。

まだできる。まだ求められている。だから続ける。そうしているうちに、自分で終わりを決める機会を失っていく。仕事だけではない。人間関係もそうである。役割もそうである。自分が築いたものもそうである。始める勇気について語られることは多いが、終える勇気について語られることは意外に少ない。

1980年10月15日、山口百恵は21歳でそれをやった。日本人は、その姿を「伝説」にした。おそらく、あまりにも見事だったからだ。

そして、おそらくもう一つ。

自分たちにはなかなかできないことだったから……そんな理由があるように思うのだ。

4.「帰還」を待ち続ける不屈者

2002年10月15日、5人の拉致被害者が日本に帰国した。

地村保志さん、富貴恵さん、蓮池薫さん、祐木子さん、曽我ひとみさんである。いずれも北朝鮮によって拉致された人たちであり、24年ぶりの帰国だった。

この出来事は前節までに見てきた10月15日とは明らかに性質が違う。1961年には一枚のレコードが発売された。1975年には一本のテレビアニメが始まった。1980年には一人の国民的歌手が芸能界から姿を消した。いずれも文化の出来事である。そこには日本人のものの見方や生き方を重ねて、いささか皮肉っぽく眺める余地があった。しかし、2002年10月15日は違う。この日だけは、笑って「皮肉」と呼ぶわけにはいかない。

5人は、自分の意志で日本から消えたのではない。消されたのである。1970年代後半、ある日突然、自分が生きていた場所から切り離された。家族から引き離され、友人から引き離され、日本という国から引き離された。そして長い年月を北朝鮮で過ごした。

2002年9月17日、小泉純一郎首相が平壌を訪問、金正日国防委員長との日朝首脳会談が開かれた。その席で北朝鮮は、日本人拉致を初めて認めた。それまで長年にわたって疑惑として語られてきたものが、国家による拉致という現実であったことが、北朝鮮自身によって認められた。そしておよそ一か月後の10月15日、5人が日本に帰ってきた。

あの日の映像を覚えている人も多いだろうと思う。羽田空港に政府専用機が到着し、5人が日本の地を踏んだ。家族と再会する。その一つ一つの光景がテレビを通して全国に伝えられた。

24年である。24年という時間は、簡単に「長かった」と言って済ませられるような長さではない。小学生なら大人になる。高校生なら四十歳近くになる。若い親なら、子どもが自分と同じくらいの年齢になる。人間の人生そのものが一つ進んでしまうほどの時間である。その年月を、家族は、待った。

ここで、前節までに書いてきたことが、少しばかり揺らいでくる。私は山口百恵について、「やめることは始めることより難しい」と書いた。日本人は引き際を美徳として語りながら、自分ではなかなか引くことができない。そして、絶頂期に自ら終わりを決めた山口百恵に「潔さ」を見たのではないか、と。

しかし、世の中には、決して終わらせてはいけないこともある。諦めてはいけないこともある。引き際など決めてはいけないこともある。拉致被害者の家族にとって、それが「家族が帰ってくる」という願いだった。

何年経っても待つ。何度訴えても、事態が動かなくても、なお訴える。周囲から見れば、もう望みは薄いのではないかと思われるような時間が過ぎても、決して終わったことにはしない。終わらせて良いはずがない。そこには「潔い」とか「潔くない」とかの価値判断などない。むしろ、終わらせないことそのものが、その人が確かに存在しているという事実を守ることなのである。

ここに、10月15日のもう一つの皮肉があるように思う。1980年10月15日、山口百恵は、自分の意志で人々の前から姿を消した。そして22年後の2002年10月15日、自分の意志に反して日本から消された人たちが帰ってきた。同じ「消える」という言葉を使っても、その意味は正反対である。一方は、自分の人生を自分で選ぶ自由であり、もう一方はその自由そのものを奪われることだった。

山口百恵は、もう歌わないと自分で決めることができた。どこで暮らすか、誰と生きるか、自分で選ぶことができた。拉致された人たちは、その選択そのものを奪われた。人間にとって自由とは、何かをする自由だけではない。やめる自由もある。残る自由もある。去る自由もある。帰る自由もある。そして、どこにいるかを自分で決める自由がある。そんな、ごく当たり前に見える自由が、他国によって奪われることがある。2002年10月15日は、そのことを日本人が目の前の現実として突きつけられた日でもあった。

しかも、話はそこで終わっていない。2002年に帰国した5人は、その後も日本に残ることになった。そして現在も、拉致問題そのものが解決したわけではない。政府が拉致被害者として認定している人たちのうち、帰国が実現していない人がいる。大勢いる。つまり、「10月15日に帰ってきた」という物語を、私たちは簡単に「よかった」で閉じることができないのでいる。

ここでもまた、私たちは出来事に自分たちが受け取りやすい意味を与えたくなる。24年ぶりの帰国。家族との再会。失われた時間を取り戻す。どれも間違いではない。しかし、その映像を「感動的な再会」として消費してしまえば、そこからこぼれ落ちるものがある。帰国できなかった人たちがいる。家族を待ち続けている人たちがいる。解決していない問題が残っている。そして、家族にはもう時間が迫っている……。

1961年、日本人は孤独の歌に希望を読み込んだ。1975年、休むことのできない日本人が「ひと休み」を愛した。1980年、やめることのできない日本人が、潔く去った山口百恵に喝采した。そして2002年、そんなふうに出来事を自分たちの物語へ読み替えてきた日本人の前に、読み替えることのできない現実が現れた。いや、正確には、読み替えてはいけない現実が現れた。

悲しい出来事に希望を見つけることがときに人間を救う。走り続ける生活の中で「ひと休み」という言葉に安らぐことも悪くない。自分にはできない生き方を誰かに見て憧れることもある。しかし、現実には、意味を付け加える前に、まずそのまま見なければならないものもある。自分たちに都合のいい物語にしてはいけないものがある。

10月15日という一日を眺めていると、妙なことに気づかされる。孤独の歌が希望の歌になった日。休めない国で「ひと休み」と言う少年が現れた日。やめられない人々の前から一人の女性が見事に消えた日。そして、消されていた人々が24年振りに帰ってきた日。どれも10月15日である。

もちろん、そこに歴史的な必然があるわけではない。まったくの偶然である。しかし、偶然だからこそ興味深い。一つの出来事だけを見ていれば「日本人とはこういうものだ」と簡単に言える。ところが、同じ日の別の出来事まで眺めてみると、その見方がすぐに裏切られる。

希望を見つける日本人。休めない日本人。やめられない日本人。そして、決して諦めなかった日本人。どれが本当の日本人なのか。おそらく全部なのだろう。人間というものは、そんなに一貫していない。私たちはときに都合よく意味を書き換え、ときに自分にはできないことに憧れ、ときには何十年たっても一つのことを諦めない。  

10月15日には、そんな日本人が幾つもの姿で立っている。だから、この日を「○○の日」と一言で括ることはできない。むしろ、その括りきれなさこそが、10月15日という一日のいちばん興味深いところなのかもしれない。

BLACK NIKKA DEEP BLEND

ストレート 〇
 ロック ◎
ハイボール◎


2,000円以下で買えるウイスキーとしては、かなり攻めた1本だと思う。アルコール度数45度。新樽由来のウッディな香りが強く、バニラのような甘さが追いかけてくる。最後にピートと少しだけ樽の苦みが残る。ストレートもまずまず。この価格帯のウイスキーはどうしてもハイボール要員になりがちだが、ディープブレンドは小さなグラスに注いでそのまま飲める。ロックにすると甘味が前に出てくる。ハイボールにしても45度あるからソーダに負けない。濃いめにつくれば、焼肉でも唐揚げでも十分に相手をしてくれる。

スペシャルが毎日の晩酌なら、ディープブレンドは同じニッカおじさんでも、ちょっとだけ夜更かししたい日の酒だ。高級酒ではない。希少酒でもない。酒屋やスーパーで普通に買える。それでいて、今日はウイスキーを飲んだなあ、という満足感がちゃんと残る。

#19 ウイスキー写真

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堀裕嗣先生

<今回の執筆者のプロフィール>
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。筆者のnote→https://note.com/hirotsugu1966

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