連載『大村はま先生随聞記』―担当編集者が見た最晩年の横顔― #10 終生のリアリストとして

日本の国語教育のパイオニア、大村はまが亡くなってから20年の時が流れた。小学館の『教育技術』誌記者として3年間大村の担当をした記者が、編集者の目から見たこの稀代の教師の素顔を10回にわたって描き出す連載、最終回をお届けします。
執筆/横山英行 (元編集者・「大村はま記念国語教育の会」常任理事)
目次
「良い人」と「本当の人」
大村先生の初めには詩があったということを前回に書いた。大村はまが、ことばを教える人となる前に、ことばを生む人、ことばを編む人として、ことばとともにある喜びを感じる人であったということを。
その最初は、小学4年の時に書いた愛らしい詩『押入』が少女雑誌の懸賞に入選した時のことであり、ことばというものへの手応えのようなものを感じとった初めであったと思う。「教師大村はま」が先ではないのである。ことばを生む人、ことばを調べにのせて語る人としての大村はまが、まず目覚めたのだ。
そして我々は知っている。先生の最後の表現もまた詩であったということを。98年の生涯の最後に書かれたものも、「優劣のかなたに」という詩であったことを。
ここから今にしてようやく思うのだ。先生が亡くなって20年も経ってから、やっと気づくのだ。人間の中核、個性の核のようなものは一生変わらないのではないか? と。
そして先生にとっての「教えるということ」は、幼い頃に得た「ことばで表現することの喜び」を、そこから豊かに明解になっていく世界を、他者にも伝えることではなかったか? その手立てを、道順を、後世にも伝授することではなかったか? またその過程の中でご自分自身をも、さらに豊かに鮮明にしていく作業ではなかったのか?
それが先生にとっての「教育」ということではなかったかと思えてくるのだ。
こう書いてくると、先生の教育は、詩的で文学的なもの一辺倒であったかと思われるかも知れないが、先生はそれと同時に幼い頃からむしろ現実的、科学的、実際的とも言えるクールな視点も持っておられた。先生は16歳の時に『良い人と本当の人』という作文を書かれているが、これは一見人当たりも良く誰からも好かれ、優秀でもあり、人生を難なく平穏に乗り切っていく人と、常に試練に遭い、悩みや葛藤も多く抱え、それほど優秀というわけでもないが、常に真実なもの、本当の人間というものを求めて努力している人とを対比して書き、自分は後者でありたいと述べられている作文だ。
先生には、美しくて優秀で誰からも好かれ、周囲をいつの間にか穏和な気分にさせるお姉さんがおられたが、このお姉さんに対して仄かなライバル感情とコンプレックスを持たれた時期があったようだ。当時、若い人たちの話題であった武者小路実篤らの「新しき村」についてお姉さんと議論し、お姉さんは「成功する」と言われたが、自分は「成功しない」と主張したという話もされた。
私はこれらを大村先生ご自身の口からもうかがったが、聖書の中のマルタとマリア姉妹の話なども交えつつ、先生の青春時代を支配していたテーマとして語られた。そしてこのお姉さんが早くに亡くなられたこともあり、この「良い人と本当の人」は、先生の生涯のテーマともなっていった。
「実践をもって提案」し続けた
そのせいもあってか、本来詩人のような魂を持っていらっしゃる先生は、教えるということに関して、そして自らを表現するということに関しても、生涯無類のリアリストであられた。先生は常に「実の場」ということを言われた。
現場教師の陥りがちな独りよがりの思い込みはもちろん、研究者の抽象的・観念的な教育思想にはないリアリティーを重視し、子どもの実際、教室の実際、社会の実際、時代の実際に即したものを常に追求されていた。
また、「実践をもって提案する」ということも先生は言われた。学者や旧文部省とのやり取りの中でも、思想や理論のやり取りだけではリアリティーが伝わらないと考え、「では、私の考えております授業をお見せしますから、その後にご議論ください」と言って、「古典に親しむ」という単元を開発されたことは以前にも述べた。
まさに「実践をもって提案する」であり、そうした具体的な提案こそが、理屈ではない「実の場」を生み出していたのだ。
その一方で先生は、「研究者であることは教師であることの資格である」ともおっしゃっていた。
つまりどんなに優れたセンスの教師であっても、あるいは天才的な教師であっても、それだけで一生を貫くのは現実的ではなく、それをいつも言葉の系統や体系、カリキュラムなどに落とし込んでみて磨き続ける、あるいは自分自身の研究課題やテーマを持ってそれを探究し続ける、さらにはそれを客観的な場で発表し提案して、自身を振り返る……こういう作業が大切であることを、「研究者としての教師」「教師の資格」という言葉で言い表されたのだと思う。
大村先生は優れた編集者の感覚もお持ちで、生徒一人一人の学習記録のレイアウトにまで気を配られていたことを以前に書いたが、先生のリアリズムはそこまで徹底されていた。自身の教える「国語」が実際の社会に通用するのはもちろんのこと、一人一人の一生においても有用であるか、ということまで考えられ、指導の際には具体的な「てびき」を与え、授業をデザインし視覚化されていたとでも言うべきか。
あえて言うなら、先生は「言語」の基盤づくりという視点から、生徒たち一人一人の生涯のデザインをされていたようにさえ思われる。

優劣のかなたに
実際、大村先生の心の中で、この天性の詩人気質と無類のリアリスト気質が衝突、葛藤して、静かな火花を散らしているような瞬間を私は見た。
それは先生の遺作となった詩「優劣のかなたに」の原稿の推敲の段階において垣間見たものだが、先生はご自分に残された生命の最後の一滴までをふり絞って、渾身の見極めの姿をこの私にまで示してくださったように思う。
『優劣のかなたに』
優か劣か
そんなことが話題になる、
そんなすきまのない
つきつめた姿。
持てるものを
持たせられたものを
出し切り
生かし切っている
そんな姿こそ。
優か劣か、
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか、
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れて、
学びひたり
教えひたっている、
そんな世界を
見つめてきた。
学びひたり
教えひたる、
それは 優劣のかなた。
ほんとうに 持っているもの
授かっているものを出し切って、
打ち込んで学ぶ。
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない。
優劣を忘れて
ひたすらな心で、ひたすらに励む。
今は、できるできないを
気にしすぎて、
持っているものが
出し切れていないのではないか。
授かっているものが
生かし切れていないのではないか。
成績をつけなければ、
合格者をきめなければ、
それはそうだとしても、
それだけの世界。
教師も子どもも
優劣のなかで
あえいでいる。
学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。
この詩の生まれたきっかけは、ある雑誌のインタビュー取材にあった。それは文部科学省の季刊誌『特別支援教育』の巻頭言の取材であった。
2005年3月も終わりに近い温かな春の日、先生の晩年のお住まいである横浜市緑区の「桜湯園」に、文部科学省のS視学官とアシスタントの女性が訪ねて来られた。
大村先生は車椅子で園の集会室に出られ、そこで取材を受けられた。いつもテレビやラジオの取材の時に使っていらっしゃる、日差しの温かな、眺めの良い部屋である。
その日は先生の教え子でもある苅谷夏子さん(現「大村はま記念国語教育の会理事長)と私もお側にいた。
この日の取材は、先生の教えられたある支援の必要な子のお話を軸として進み、最後には教育における「優劣のかなた」についての先生のお考えも少々うかがって、約1時間あまりで終わった。
それから10日ほどして、S視学官から私のところにA4判で2枚ほどの当日のまとめ原稿が送られてきた。早速先生のご自宅へファックスを送り校正をお願いすると、翌日すぐに、その校正が返ってきた。
ただ4、5箇所だけの校正であったので、むしろ心配になり、お電話を差し上げると、「ある程度のお立場にある方の原稿なので、そんなには手直しできないでしょ?」と尋ねられた。こういう言い方をされる時、先生は決して原稿には満足しておられない。しかも、まとめられた相手の方に対してというよりは、ご自身の仕事に対して満足されていないのだ。
また「話し言葉」と「書き言葉」の間には差があると感じておられて、特にその頃は講演テープから起こした記事には大幅な校正を入れられることが多かった。講演の後などにも、お送りするタクシーの中などで、「(ご自分の)お話がまずくなかった?」と聞かれることがよくあった。覚醒した意識は、いつもご自身の老化と闘っておられて、厳しい自己評価を下されていた。
ところが、それから2、3日した4月11日朝、先生から4枚のファックスが送られて来た。見ると、幅の広い罫紙に大きな手書きの文字で、ゆったりと文章が記されている。
冒頭に「優劣のかなたに 大村はま」とあり、瞬間、ご自分の名前を記されているのは珍しいなと思った。すぐにお電話を入れ、「先生、あのファックスは?」とうかがった。「ああ、あれね。どこかに使ってちょうだい、どんな形でもいいから」そう先生はおっしゃった。それで私は安心して、「はい、わかりました。では、あの中から何行か使わせていただいて、先日のまとめの文の不足な部分などに充てさせいただきます」というようなことを言った。先生は、「ええ、それでもいいし、どうぞお好きなようになさって」と言われたと思う。
その日、私は他の仕事であくせくしていた。手帳を見返すと、契約書を作るとか、回議録を書くとか、中教審の取材とかがメモされているから、心に余裕がなかったのだろう。それらの1日の仕事を片付けて、ようやく落ち着いた夜の9時頃、私はもう1度先生から送られてきたファックスを手にとって読んだ。そして驚いた。 これは詩だ。ひとつの完結した詩だ。だから、一部を切り取って使うとか、どこか他のところへ補填するとか、そういうものではない。何という失礼なことを自分は言ったのだろう、そう思って、夜遅いのも顧みず、先生のご自宅へ電話を入れた。
「先生…あれは、詩ですね?」
挨拶もろくにせずそう申し上げると、先生はかすかに笑われて、
「でも、詩にするには、もう少し句読点を付けたり、聯に分けたりしなければならないでしょ? それに言葉の重複なども、もう少し切りつめて…」と言われた。

「詩ですね?」という問いに、先生はそうだとはお応えにならず、「でも、詩にするには…」とお応えになった。何という謙虚さかと思う。
「先生、どうなさいますか?その句読点や聯に分けるお仕事は?」
最近めっきりお疲れのご様子なので、私は少し踏み込んでお聞きしたかも知れない。
「やってみてちょうだい。任せるから」
瞬間、やや意外の感に打たれた。先生独特のこだわりが、あの執拗なまでの完成への意欲が、ふっと緩んでいる。
「わかりました。では、私がやってみますので、それに校正をお入れになってください」
「ええ、ええ」
そんなやり取りで電話は終わった。
翌々日、何とか仕上げた詩の試案をファックスでお送りし、また電話でお話しした。お疲れかと思っていたら、この時の先生は、何か精神が溌剌とされていたような記憶がある。
「先生、この詩はいいですね。何か、先生の『雨ニモ負ケズ』のような気がします。賢治の『雨ニモ負ケズ』は、雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも…と、連用形、連用形で続けていって、最後に、そういう者にわたしはなりたいと結んでいます。それに対して『優劣のかなたに』は、優か劣かそんなことが話題になる、そんなすきまのないつきつめた……と、連体形、連体形で持っていって、最後にやはり、『学びひたり 教えひたろう 優劣のかなたで』と結論が来る。優でも劣でもない、かなたが来る……」
そこまで話した時、先生はちょっと急き込むように、「ええ、何かそういうことね」と、謙虚さと強い肯定が一つになったような、不思議な応え方をされた。
瞬時に私は、「やはり」と思った。やはり、先生はこれを一つの詩として書かれたのだ。ただ、こちらの意識がその高さに追いついてくるまで、待っておられたに違いない。
そこで続けて私はうかがった。
「先生、かなり後の方の聯に、『成績をつけなければ、合格者をきめなければ、それはそうなのだ』という部分があります。ここはしかし、『それはそうだとしても、それだけの世界。』と言い切られてはどうでしょうか。先生の『評価』に対するお考えは、明らかにこうしたことを超えて、そのかなたを目指されているように思いますから」
「そこが確かに一番はっきりとしていないところなのよ。そうしていいものかどうかというので、そうなっているわけだけれど…」
「評価」という言葉の二義性の前で、大村はまの心は最後まで揺れていた。即ち、「評定」、裁き、試験、自然界の適者生存や経済的競争原理への対応という一面と、福祉、求道、許しや啓蒙、より良き学びや指導への指針、終生を生き抜く力となる自己評価能力の獲得という一面。何よりも、友とともに師とともに「一つの学び」を獲得する喜び。この両面性の前で、リアリストである大村はまは、最後までいずれか一方だけに甘い軍配を上げなかった。しかし、それでも勝敗ははっきりとしている。「学びひたり 教えひたろう 優劣のかなたで。」なのである。
そこで、大村先生と私のその日の話は終わった。そしてそれが大村先生のお声を聞いた最後となった。

おわりに
今あらためて思い返すと、大村先生はやはり教育の詩人であった。大村先生10歳の時の詩『押入』と98歳の遺作『優劣のかなたに』が、生涯の両端を飾っているから。
まだ幼く、とにかく表現することが喜びであった時と、亡くなる直前に疲労困憊されつつも“ことばの真実”を追い求められていた時と、いずれの時にも詩という形が、先生の命の精髄から無意識にこみ上げて来るように思われたから。
そして私は、密かにこうも思っているのだ。先生は私に詩をもって最後の授業をしてくださったのではないかと。
3年間、担当者としてお側についている間に、先生はお好きな文学の話もしてくださったし、宮沢賢治の話もしてくださった。私が中学の頃から詩を書き続けているという話をした時には、「詩ね……」と軽く溜め息をつくように話し始められ、「全集をご覧になってもわかると思うけど、私は詩の実践の方はそんなに多くないんです。でも、やりたいと思っていた。今からでもそう思うくらいに」とおっしゃった。そんなある日のやりとりなども心の何処かで覚えておられて、先生はその生涯の最後に、私に対して「詩」という単元を、身をもって示してくださったのではなかったか?
ことにも「評価」というこの最後まで二面性を持つことばに逡巡しつつ、推敲する姿を敢えて示され、残る命の最後の一滴までも、“教えるということ”に費やされながら。
<完>
<著者プロフィール>
よこやま・ひでゆき。1954(昭和29)年、石川県金沢市生まれ。
札幌南高等学校を経て上智大学文学部哲学科に学ぶ。
小学館編集者時代は、『週刊少年サンデー』や『月刊コロコロコミック』の漫画誌、『小学一年生』『小学三年生』の学年誌、『中学教育』『小六教育技術』の教育誌に在籍。2003年から2005年まで『中学教育』の編集長時代に、大村はま先生の担当を務めた。
現在は「大村はま記念国語教育の会」常任理事。「NPO日本教育再興連盟」顧問。
大村はま先生の貴重な講演動画!「忘れ得ぬことば」大村はま先生 白寿記念講演会 5つのことばがつむぎ出す、国語教育の源泉【FAJE教育ビデオライブラリー】〈有料動画約60分〉がこちらでご覧いただけます。

