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素直、従順、受容への回帰【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第28回】

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
素直、従順、受容への回帰【本音・実感の教育不易論 第28回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第28回は、【素直、従順、受容への回帰】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 指示や命令への対し方の傾向

注意する。叱る。仕事を頼む。手伝わせる。──これらには、働きかける側に多少の遠慮やためらいや後ろめたさがある。できるならそれらを働きかけずにおくか、自分で何とか処理したいという思いがある。

しかし、相手の為を思うと、そういう自分の内部的心情を超えて、注意したり、叱ったり、仕事を覚えさせたりしなければならないという場合もある。

そういう折には、相手の出方、反応がどうしても気になる。簡単な話が、相手が気持ちよくそれに応じてくれれば嬉しいし、ほっとする。反対に、むっとしたり、反抗的になったり、という不快な表情、仕草を見せれば、こちらにいささかのためらいがあるだけに、言わなければよかった、頼まなければよかったという悔いの気持ちがよぎることにもなる。

そういうことに重ねて出合うと、自然にあの人には、あるいはあの子には、もう言うまい、言っても無駄だ、言わない方がいい、という思いを抱くようになる。そういうことが重なれば、だんだん、話しかけるのも、口を利くのも億劫になって、結局は当たらず障らず、疎遠な間柄になっていくことになる。──こんな経験や体験は誰にもあるのではないか。私は、この頃になって、そういう類いの思いが増えてきているように感じている。

注意する。叱る。頼む。手伝わせるなどということは、一般に親や教師が子供に対する場合が多い。つまり、これらの事態は親子関係、師弟関係に多く生ずることと言えるが、広く言えば上司と部下や、時には夫婦のあり方にも通用することだろう。

これらに共通するのは、昔よりも現代の傾向に多く、結局のところ「自分中心」という思いが生んでいる事態ではないかという一点だ。さらに気になるのは、そういう事態によって幸せになる者は誰もいないという皮肉な結末である。

かくて、お互いにだんだん楽しさが減り、不平や、不満、何だかすかっとしないもやもやした漠然とした不快感が広がっているのが現代なのではないか。この問題をもう少し詳しく考えてみたい。

イラスト28

2 指示や命令への「受容」の教育

いきなり注意されたり、叱られたりするということは、一般的には稀である。その前に、「こうするといい」「こうしなさい」「それはやめた方がいい」「直しなさい」というような、告知や指導や依頼や指示がなされるのが普通である。そのような場合に「はい」と受けとめて相手の意向を受け容れて従えば、その場で全ては明るく、楽しく、円滑に進行していく。これが理想的な状態であり、これをこそ重視、徹底する指導や教育が必要なのである。

受容される場合には、指示者も、受け手も、快感に満たされ、楽しく、嬉しくなり、そして事態も順調に推移する。つまり、「三方よし」となり、「生きる力」までもが培われ、人間的成長も期待できる。

実は、敗戦までの日本の教育はこの一点を重んじ、徹底することが共有されていた。老若男女、貧富上下を超越して、これこそが大事なのだということが暗黙の常識知として行き渡っていたように思うのだ。

その一つの証拠に、入学式や卒業式、その他の儀式などに来賓を招いた折の祝辞がある。私は国民学校の4年生の8月に敗戦に遭っているので、敗戦までの来賓の祝辞を思い出すことができる。来賓各位は次のような意味の祝辞をすることが多かった。「親の言い付けをよく守り、先生の教えを身に付けて立派な人になりなさい」と、どの来賓も異口同音に、と言ってよいほどに同じことを話された。大方が同じことを言うので1年生でも憶えてしまう。中には来賓の口真似を上手にやってのけて、笑いを誘う者もあったくらいだ。

祝辞の一致している内容は「親や先生の言うことは必ず守りなさい」という一点である。逆らったり、無視したり、軽んじたりしてはいけない。そんなことをすれば、「立派な人」にはなれないのだ、と諭したのである。つまり、子供というものは、親や先生、大人、長上の言うことは「受容」しなさい。そうすれば「立派な人」になれるのだと「教え」「諭した」のである。

だから、私が子供だった頃、それもとりわけ「敗戦」までの「子供」は、親や先生の言うことは「聞くものだ」「聞かなければならないのだ」と思いこんでいた。どの子も、そういう子供なりの経験知による常識を共有していたと言ってよい。

そして、実際に「言うことを聞かない子」が出た場合、それをそのままにしておく親や教師はいなかった。家により、教師によってその強弱に差はあるにしても、子供は相応の罰を受けた。痛い目に遭うこともあったが、それを世間は、むしろ当然のこととして認めていたし、歓迎さえもした。そのようにして子供は、大人や世間を甘く見ることの怖さを知り、自らを悔い、改めたのだ。素朴ながら、これが教育の原点だ。

いじめは昔にもあった。しかし、大方が一過性で「継続的に」ということは極めて稀であった。いじめた子供が親や教師から手厳しい罰を与えられ、こりごりしていじめから手を引いたのであろう。今のように「面倒な理論」はなかったが、現在の陰湿で計画的で継続的ないじめなどはなかった。今は、複雑で高度な「理論」は多くあるが、いじめがそれによって減ってはいないという「現実」をどう解釈したらいいのか。

「単純かつ明快な教育でいじめが少ない」のが昔で、「複雑で難解な理論が多くあるが、現実のいじめは増えこそすれ依然として減らない」のが現在である。──どこかに、何か、重大な勘違いがあるのではないか。そう思われて仕方がない。

3 欠けている「従順」「素直」の教育

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