先師・先達に学ぶ(その5) ー水戸五中・元校長 青木剛順先生の実践(上)ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第55回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
先師・先達に学ぶ(その5) ー水戸五中・元校長 青木剛順先生の実践(上)ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第55回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第55回は、【先師・先達に学ぶ(その5) ー水戸五中・元校長 青木剛順先生の実践(上)ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 出会いはみな偶然

ここのところの2、3年、身近で親しかった教員仲間の訃報が頻繁に届くようになった。また年賀欠礼の便りもぐんと増えている。そういう年齢になったのかと、弥が上にも思わされることだ。同期、同年齢の場合には当然年齢は分かるので改めるまでもないが、それ以外の場合には他界の年齢が気になる。経験的に、87歳までに9割以上の人がこの世を去るようだ。米寿を迎える人は稀である。

訃報に記される年齢は享年と言い、これは「天から享けた年」の意とある。行年とも言うが、これは「ぎょうねん」とも「こうねん」とも読み、「生まれてこのかたの年、これまで生きてきた年数」の意の由だ。いずれも「数え年」が本来だが、近来は満年齢で記される混同も多く見られて気になる。

私事ながら、満年齢で86、数え年では87、同期、同年では他界者の方が多く、生き残りの語を思う。生きてはいても体の不調で顔を見せなくなった者も多い。マスコミに登場している現役者に80台後半の者は殆ど見ることがなくなった。

加齢とともに多くのことが忘れられていくことは止むを得ない。そういう中にあって、今もなお鮮明、強烈な記憶として脳裏に残る、その数少ない事柄が支えとなり、力となって今の私を保ってくれているように思われる。

教頭になったのが48歳、まだ50にならない頃の某土曜日のことだ。その頃はまだ土曜日の半日出勤が常態であったから、私は常よりは早めに学校を出て車を運転していた。ふと、何の気もなくカーラジオのスイッチを入れたところ、対談が耳に入った。

この、全く偶然の私の行動から、その後の私の教員人生を大きく支え、導いてくれる出合いが生まれるであろうなどとは、知る由もない。今にして思えば、人との出合いとは、正に「人は、会うべき人には必ず会える。それも、一瞬早からず、一瞬遅からず──」という、森信三先生の名言の通りである。教育者の師父と仰がれた森信三先生の書物にさえ、その頃の私は出合ってはいなかった。だから、この名言に出合ったのもカーラジオの一件のずっと後のことになる。

さて、対談の中で、私がびっくりしたのは、対談者の次のような言葉である。

「よく、生徒理解が大事だ、と言われていますが、私は、そうは思いません。生徒理解というのは、教師が、その生徒をどのように理解しているか、ということです。言わば、教師という上から目線の言葉です。そうではなく、生徒の側が、その教師をどう理解しているかという教師理解ということの方がずっと大事だと思っています」

私は、この言葉に出合ったのが、出身地君津市の六手(むて)という地名の久保田屋という店の前であったことまで覚えている。私は、衝撃にも似た感動を覚えた。「そうか! そうだよな。そこなんだなあ!」と、心の底から思ったのだった。今から、かれこれ35年もの昔のことになるできごとなのだが、あの時の感動は昨日のことのように蘇ってくる思いがする。嬉しかった。元気が出た。「この人は本物だ。凄い人だ」と心の底から思った。

この人こそ、曾(かつ)て茨城県水戸市立水戸第五中学校校長、青木剛順(ごうじゅん)先生、その人だった。この対談の内容の大方は全て忘却の彼方に消えてしまったが、先生の著書『校長の応援歌』という書名は頭に刻みこまれた。私は早速注文して拝読し、さらに大きな感動を覚え、是非とも青木先生に直々にお会いして、いろいろとお話を伺いたいと切に思ったことだった。

イラスト55

2 青木先生の造語? 「教師理解」

青木剛順先生の「教師理解」という言葉は私にとっては初耳であり、先生の説明によってその意味を知り得たのだった。が、令和4年5月の今もネット検索をしても出てこない。ならばこれは青木先生の造語と考えるしかない。そうだとすれば、この一事を以てしても、青木先生は並の人ではない、と改めて思うのだ。先生の教育信念と教育実践の中から生まれてきた、あるいは生み出した、青木先生ならではの珠玉の言葉だと思えてくるのだ。

私が、正にはたと膝を打つ思いでこの言葉を受け止めたのは、長い教育の歩みの中で、昔から、そして今でも暗黙の内に肯定され、定理、公式ともなっている「教師が上位、子供は下位」という考え方についての懐疑から生まれたことによる。「教育は人なり」という論語由来の言葉でさえこの考えと同じである。実際その通りである。それに違いない不易の教育論とも言える。さは、さりながら! である。

現在の広告業界、販売業界の花形は健康食品と呼ばれる錠剤、粉末、飲料の類である。他に医薬部外品と呼ばれる一群もある。これらは効能書きを禁じられているようだが、使用した体験者の言葉が大きな説得力を発揮して大いに広まり売れているようである、TV、新聞、雑誌、折りこみ、ダイレクトメールなどによる宣伝は夥(おびただ)しい数に上る。また、実によく売れてもいるらしい。

似たようなことが栄養士などの発言にも見られる。「身体の為に有用な栄養素」の宣伝文にそれが見られる。医師にも同様の発言が多くある。

だが、一連の広告文は、全て「届ける側」「提供者の側」からの発言である。重要な問題は、それらの品々が、「自分に効くか」という一点にある。消費者の個々にとって一様に同じ効果が得られるとは言えない。私はこれを「吸収の論理」と呼んでいる。「提供の論理」はまことに立派だが、肝心の「吸収の論理」は、都合の良い結果が得られた一部の人によって語られているだけだ。「教育は人なり」という言葉にも、同様の問題点は残されたままである。すぐれた学級担任の指導行為は申し分ないのだろうが、全ての子供がそれを全て受容、消化、吸収し、実りとしての成果を発揮するとは限らない。同一学級でも吸収には上下優劣の差が残る。

「生徒理解が大切」という一見非の打ち所のないように思える論理に対して、青木先生の「教師理解」という言葉は、その盲点を衝いて報いた鋭利な一矢と言えよう。

肝心なことは、個々の子供一人一人が、当該教師をどのように受け止めているか、という一点にある。「私を大事にしてくれる。温かい。明るい。考えが深く、いつも学んでいる。威張らない。心から尊敬できる。大好きな先生だ。親もそう思っている。この先生に出合えて本当に幸せだ」──このように「教師理解」をしている子供ならば、その先生の言うことに真剣に耳を傾けよう。

反対の場合には、担任がどんなに言葉巧みに伝えようとしたとしても耳には入るまい。言葉が巧みであればあるほど反感をさえ募らせるかもしれない。「生徒の側が、その教師をどう理解しているか、という教師理解の方がずっと大事だと思っています」という青木先生の喝破の真なる迫力を改めて思うのである。教育の急所を見事に突いた名言である。

3 青木先生の着任式辞の力

ラジオの対談は、荒れに荒れた中学校を立て直した青木先生の『校長の応援歌』という実践記録を書いた著書の反響から生まれたようである。一時ベストセラーともなったその本は、水戸市内の小売書店から刊行されたものだ。今は絶版で、アマゾンの古本で3万5千円もの高値がついている。さもありなんと納得がいく。

青木先生は当時茨城県の教育センターにお勤めだったが脱疽を患い、松葉杖で勤務をしていた由だ。水戸五中の荒廃がすさまじく収拾がつかない状況を打開すべく、市教委は最後の切り札として青木先生に白羽の矢を立てた。先生は承諾されたが、家族は全員反対したそうだ。「今でさえ並の体ではない。とても耐えられまい」との心労は無理からぬことだ。だが、先生は「どうなっても本望」と家族を説得し、赴任の初日から松葉杖を捨て、跛行の身で出勤する。決意の唯ならぬほどが思われる。

生徒はふざけ半分に爆竹を鳴らして青木先生を迎えた。聞きしに勝る荒れ様だ。

だが、着任式の挨拶に不自由な足を引きずりながら一歩一歩真剣に踏みしめるように壇を登る青木先生の動きに、さすがの生徒も静まり返った。青木校長の挨拶の第一声。

「私は水戸五中丸の船長となった。船長は、この船に乗っている一人残らずの生徒を、無事に向こう岸に届けることが任務だ。私はその任務を成し遂げることを約束する。一人残らず、全ての生徒を、大切にし、事故なく、必ず向こう岸まで届ける。みんなで力を合わせて、水戸五中丸を出航させよう。今日がその新しい船出の日なのだ」

一言、一言、振り絞るように、ゆっくりと、力強く、一人一人に眼を配りながら話す先生に、式場は静寂を以て応えた。

式が終わると、校長室にどやどやと生徒が押しかけた。札つきの、つっぱり達だ。青木校長は温顔に笑みを湛えて迎えた。

「校長! 校長は、本当に俺達みたいな者を見捨てないか。まともに相手にしてくれるか」──番長らしい一人が傲然と迫った。

「約束する。仲良く、楽しくやろう」

青木校長が番長に手を伸ばすと、番長は先生の手を固く握って絶句し、しばらく顔を上げなかった。やがて一礼をすると、一同は静かに校長室から出ていった。

「改革は、着任の初日から始まった」と青木校長は、『校長の応援歌』の中に書いている。

私如きがこの一事に蛇足、駄弁を弄するのも憚られる思いだが、つっぱりの番長を初め、その一団に、青木剛順校長との30分足らずの出合いがどのように映り、どのように受け止められたのか。語弊もあろうけれど、それまで、何人かの有力校長を水戸五中に送りこんだのだが、いずれも荒廃のすさまじさの前に為す術なく退陣、退戦をしていったのだ。学校は、荒廃の度を増しこそすれ、改善に向かうことはなく過ぎた。青木校長とは、何が違ったのだろうか。つっぱりの連中の心を動かし、揺さぶり、校長室に行かしめたのは一体何であったのだろうか。

このことについて考えることには大きな意味があるのではなかろうか。次回は、青木校長の教育観や、体を張った実践からこの問題を私なりに考えてみたい。

◆番外余滴──代稿依頼の光栄──

「教師理解」という言葉の感動に浸っていた折に、明治図書の月刊誌から「いくら催促をしても届かない原稿ができた。大至急代稿を書いて届けて欲しい」という速達の依頼が届いた。そういうピンチに、私如きを思い出して下命された光栄に私は恐縮した。心の底から嬉しく、有難く思った。快諾を電話で伝え、早速「教師理解」の感動を主たる内容として執筆し、速達で送稿したのだった。

折り返し、原稿落掌の報告と礼状が、これも速達で届いた。そこには、青木先生の「教師理解」という着想のすばらしさとともに、私の文章への讃辞とお礼の言葉が添えられてあった。その中に「普通は代稿依頼については、失礼だという叱責を受ける。代稿執筆の依頼に、光栄だと感謝されたのは初めてだ。感激した」との一文があった。

青木先生ゆかりのこれも思い出の一つである。

(次回に続く)

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2022年夏号より

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