ボツになった三つの原稿 ー上司、上役の判断、決断の「気がかり」ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第59回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
ボツになった三つの原稿 ー上司、上役の判断、決断の「気がかり」ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第59回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第59回は、【ボツになった三つの原稿 ー上司、上役の判断、決断の「気がかり」ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 「自由保育」への疑問

幼児の教育の方法に大きく二つの考え方がある。一つは「自由保育」であり、もう一つが「設定保育」(または「一斉保育」)である。

「自由保育」は、子どもの興味や関心に基づき自由度の高い環境で実施されるものだ。長所としては、子どもの主体性や想像力、自発性などが育つと考えられている。子ども中心の教育方針とも言えるだろう。

これに対する「設定保育」は、指導者が作った指導計画に沿って実践され、子どもたちは一斉に同じ活動に取り組む。子どもたちの協調性や忍耐力が育つと考えられている。その反面、指導者の指示に従う「指示待ち」型に育つとの批判もあるようだ。

保育と教育とは言葉が違うのでその意味合いも異なってくる。「保育」は、乳幼児を保護し、育てることであり、現在は「0歳児保育」という言葉も使われている。

これに対して「教育」は「教え育てること」であり、一般に乳児は含まれず、「知識、技能、規範などの学習を促進する意図的な働きかけ」と言われている。

「保育」と「教育」は用語が異なるので上記のような区別はあるものの、広い意味では共に「幼児教育」に携わる活動と考えてよい。保育士と幼稚園教諭の免許を両方とも取得するようにと奨める養成機関も増えているようだが頷(うなず)けることだ。「保育はするが教育はしない」という考えはもはや通用しない考え方だと私は考えている。

幼稚園に負けない教育を実践している保育園はたくさんあるし、認定こども園は、「教育・保育を一貫して行い、いわば幼稚園と保育園の良いとこどりをした施設」と受けとめられ、ますます増えている状況にあるようで合点のいくことである。

さて問題は、そこで行っている実践の内実、正体である。私が参上する園は幼稚園、保育園共に全て「設定保育」「一斉保育」の実施園であり、「自由保育」の園は皆無である。これを私は嬉しく思っているのだが、聞くところによると全国的には圧倒的に「自由保育」の思想が幼児教育の王道となっているというのだ。幼稚園は法的には学校に属し、文部科学省の管轄下にあるのだが幼稚園でも「自由保育」の潮流が大きいとも聞く。そこでは、文字の読み書きや数の計算などを「教える」のは本来ではなく、幼児教育の本質は「遊び」にあると考えているようだ。遊びこそが子どもにとっての本来の姿であり、遊びを通して、想像力、自発性、主体性が育まれるというのだが、本当にそうなのだろうか。

ある時期、小学校の一年生でも学級崩壊が生じたと報じられ、話題になったことがある。曾(かつ)て「お行儀」の良い「ピカピカの一年生」と愛された「素直な」子どもたちが、今では親や教師の言うことに従わず、授業が成り立たないクラス、つまりいわゆる学級崩壊になってしまう、というのである。

このような事態を生む原因や背景を一概に「幼児教育」の不備と片付ける訳にはいくまいけれど、少なくとも無関係とは言えないだろう。いやむしろ私は大いに関係があると考えている。それも「自由保育」的な考え方との関係が深いと思っている。

幼児の頃から、その子の主体性、自発性、個性を育むのだという考え方は美しく聞こえるが、それは正しいと言えるのだろうか。私はそうは思わない。私の幼児観の中心はずばり「無知、未熟」である。だから、いろいろなことを折に触れて教え、学ばせなければならないのだ。これが時空を超えた不易の真理である。その故にこそ幼稚園や保育園、あるいは認定こども園が必要なのだ。「人学ばざれば禽獣に同じ」という格言は幼児にも通じることなのだ。

幼い頃から、いや幼い内にこそ本物の教育、正しい教育をすべきなのだ。そのような確たる基礎を学んだその上での個性や主体性、自発性にこそ価値があるのだ。圧倒的に多いと言われる「自由保育」の考え方に、私は大きな疑問を持っている。じっくりと互いの立場から話し合ってみたい私の重要関心事である。

イラスト

2 ボツになった三つの原稿

前掲の「自由保育」への疑問という文章は、某月刊誌の巻頭論文をと依頼されて書いたものである。読者諸賢はどのような感想を持たれただろうか。「本音・実感、我がハート」を執筆のモットーとしている私は普段から考えていた私の疑問をそのままに述べ、多くの方の叱正を戴きたいと執筆した一文である。残念ながらボツになって陽の目を見ずに終わった一篇なのである。

その理由は分からない。「こちらの不手際で申し訳ありません」という釈明文の内実は依然不明のままなのだが、「自由保育」という「圧倒的多数」の現実に対する批判だったからだろうとしか私には考えが浮かばない。圧倒的多数派の読者から「今でもそんなことを考えているのか!」という叱言や叱責が編集部に届くと困ると判断をしたのかとも思う。もしそうなら残念なことだ。私は「じっくりと互いの立場から話し合ってみたい。私の重要関心事である。」と文章を結んでいる。むしろ批判や反論を歓迎しているのだ。だから、その貴重な機会が葬られてしまうことになって、残念という外はないのである。

さて、「ボツ」になったのは本件で実は3回めである。北海道教育大学函館校に籍を置いていた折に、某新聞社の知り合い記者からコラムの連載を頼まれて毎週一篇を書いていた。殆どそのまま掲載されていたのだがその中の二篇がボツになった。

最初のボツは、ある人物の少年時代の美談をエピソード風に紹介し、その結びを「やがて、件の少年は一国の宰相になった。その人の名を森喜朗という。」と書いた。どうやら、この一文がその社の上役の気に入らなかったものらしい。担当の記者が詫びの電話をくれたが、こればかりはどうにもならない。「ボツになったことについては一切心配無用です。良い勉強になりましたから──」と伝えた。「良い勉強」というのは、その新聞社の上役はどうやら自由民主党がお嫌いだったらしいと思えたことだった。私の憶測が当を得ていたかどうかは定かではない。

2回めのボツは、国民の恐らく大多数が待ちに待っていたであろう、当時の妃殿下雅子様の御安産、愛子様の御誕生を国民の一人として「我が国の最大級の慶事」と書き、「心からお祝いを申し上げ」「どの教室でもこの喜びを共にしたい。」と結んだ一篇だった。これについても、事前に記者から上司の命令によって「申し訳ないのですが」と不掲載の電話があった。

小さなコラムに、こんなめでたいことを書くのも恐れ多いことと思っていた私にとって大きな驚きだった。これも、先の一件と共通しているのは、左翼的視点かと思う。

マスコミはとかく「斜に構えがち」であることは承知していたつもりだが、私の書いたことは至極当たり前のことであろうと、今でも私は思っている。

そして、3回めが今回の「自由保育」の一件である。これについては前述した。

3 「気がかり」な「上司」の判断

これらの三つの体験についていろいろと考えたことがある。いずれについても筆者の文章や内容に「公共の福祉に反する」ような点はないと思うし、それは誰にも認められることだろうと思う。ごく一般的に言えば、ボツにされることは異常であり、想定外の事態と言えるのではあるまいか。大袈裟に言えば、私の「思想、良心の自由」が侵害された一件とも言えなくはない。

私はこれまで数十年に亘っていろいろの出版社との関わりや御縁に与(あずか)ってきたが、自分の原稿や内容についてボツにされたことは先の三件以外にはない。それらの体験から私なりの自信も持ちながら繋がりを保ち得てきた訳である。だから、先の三件は全く例外的な事例なのだが、それらについて私は一言の問いも抗議も不平も発しなかった。あっさりと引き下がっただけである。人それぞれに、それなりの考えや判断があってのことだろうと思ったからだ。

先に、私の「思想、良心の自由」が侵害された、とも言えなくはないと書いたが、これは野口の立場からの思いに過ぎない。私の考えに対して、「これは掲載できない」と考えた人の判断、思想もまた「侵害」されてはならない、という考えも成り立つ訳だから、これは争うべきではないと、私は考えたのだ。

これはこれで一件落着である。それはそれとして、別の考えを一言添えておきたい。それは「上に立つ者の判断」の重要性についてである。

某新聞のコラムでボツになった二件は、時の総理大臣と皇室に関する「良い話」「善なる話」である。平たく言えば、国民の一人としても「同慶の至り」というのがごく自然、かつあるべき姿と言えるだろう。それを快く思わないという「上司」の個人的な考え一つで、記事としての採否が決められるという事実は「気がかり」だ。私の書いたコラムが採用され、何人かの人が読んでくれたなら、その人たちの心は仄仄(ほのぼの)とした気分になったことだろう。ボツになったことでそれが消えたのも「気がかり」だ。

幼児教育のあり方についても同様の思いを持つ。「無知、未熟」の幼児を善導していく働きかけをする立場と、そういう働きかけを努めて控え、子どもを中心として好きなようにさせておくことと、どちらが本来的なあり方かという議論が生ずることは善であろう。その「善」が一人の上司によってボツという形で消えてしまった。これも「気がかり」ではある。

話が変わるが、宅配便の品物の中に一言お便りを添えるのは「良い心遣い」で、それを読む人の心は和むだろう。贈り物に手紙を添えるのはごく自然の温かく好ましい配慮である。民間の配送会社でそれを禁じている所は皆無である。良いことだし、良い慣行だ。

ところが郵便局だけがこれを禁じている。ゆうパックへの信書の同封は「違反」なのだ。信書とは書状やハガキの類とある。郵便局こそ、「贈り物にはぜひ手紙を添えましょう」と働きかけるべき立場ではないか。「気がかり」なので「公開質問状」を書いて然るべき所に送ろうと宛先を教えて欲しいとお願いしたら、教えて貰えなかった。応対に出た女性はかなり高い立場にある「上司」だったようだが、「お答えできません」と繰り返すばかりだった。

「贈り物には一言添えましょう」という美風が広まったなら、ぎすぎすしたこの世も少しは和むことになるのではないかと思うと、ますます「上に立つ者」の「判断」「決断」が「気がかり」になったことであった。


「最も気がかり」なことを述べたい。上司、上役、責任者の「判断」や「決断」が、「善」や「正義」を貫くことよりも自分の立場や責任上、現在の「平穏、無事」を保つための「保身」に傾くことである。それは、「公」よりも「私」を重んずることである。漱石は晩年「則天去私」の境地に到達したとされる。見事である。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

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