連載『大村はま先生随聞記』―担当編集者が見た最晩年の横顔― #9 詩人としての大村はま

日本の国語教育のパイオニア、大村はまが亡くなってから20年の時が流れた。小学館の『教育技術』誌記者として3年間大村の担当をした記者が、編集者の目から見たこの稀代の教師の素顔を10回にわたって描き出す連載第9回。
執筆/横山英行 (元編集者・「大村はま記念国語教育の会」常任理事)
目次
はじめに
大村はま先生に少しでも関心を持ち、大村はまの何らかの著作物を読んだことのある方ならすぐに気づくことであろうが、大村はま先生は、単なる「国語の先生」ではない。
一般的に言う「国語教師」や「国語学者」でもない。大村先生は、「作家」と呼ばれることには躊躇されるかも知れないが、私に言わせれば「作家」であり「創作者」であり「詩人」である。謙虚な先生のことであるから、笑ってかぶりを振られることであろうが、少なくとも「創作者」「表現者」としての面は認めてくださることと思う。
なぜなら先生は、その全集を見てもわかるように、普通の学者の全集とは大きく異なり、単に筋張った論理やコチコチの教育実践記録に終始されてはいない。
その間を埋める、また行間ににじむある種の自由、寛ぎ、随想的な着想などに満ちていて、どこか文学の香りがするのである。そして、いわばその文学性のようなものが、先生の全集を極めて親しみやすい、読みやすいものにしていると思う。
これは先生の数々の単行本(『教えるということ』から『こころのパン屋さん』まで)を読んだ方ならより具体的に感じているであろうし、事実先生は、そういう表現性、創作性、文学性のようなものをお嫌いではなかった。
私は、いつもお側についていて、先生のこのしなやかさ、安らぎや潤いのようなものを何という言葉で表現しようかと迷っていたが、ある時「先生は旅人ですね!」という言葉を思わず口走ってしまった。長い講演旅行を終えて帰宅された時のことであったと思うが、先生はこの言葉を喜んで受け入れてくださり、何か一瞬、大村はまの核心がこの自分にも手を差し伸べてくださったという感触があった。
そして先生の没後20年を経た今、自分には「旅人」の他に、大村先生を形容するもっとふさわしい言葉があるように思う。それは「詩人」──教育の詩人としての、詩人にして教育者の大村はまである。もっともこれは生前に、自分のごとき青二才が申し上げたのでは説得力も真実味も持たない言葉であったろうが、先生が亡くなられて20年という時が流れた今改めて思うと、先生はつくづくと教育の詩人であったと思われる。だから今こそそれを、先生に追送したく思われるのだ。
そもそも大村はま先生はどうして国語教師になられたのか? そのルーツをたどる文章は大概、先生の自叙伝などに基づき、共立女学校時代、アフリカの伝道師メリー・スレッサーの『いのちがけ』との出会いから説き起こす。『いのちがけ』を読んで感銘を受け、書いた感想文が当時の若い国語教師・児玉愛子先生に褒められたことから始まり、続いて捜真女学校で理想の国語教師・川島治子先生と出会われ、国語教師の道へとぐんぐん惹かれていき、それが生涯の仕事となるという流れである。
このこと自体にむろん間違いはない。しかしそのことに加えて自分がこの際特筆しておきたいのは、先生がすでに横浜の元街小学校の時代から、自分の経験を文章に書き表現する少女であったということだ。
次に紹介するのは、先生が10歳の時、婦人の友社の少女雑誌『新少女』に応募されて一等賞を取った『押入』という作品である。当時の選者は河合酔茗、大正8年11月号の掲載だが、大村先生の出発点にはすでに幼くして明らかな詩心、創作心があったと感じさせるものがある。
押入
私はお家のおしいれよ、
わたしの中にはおふとんが
澤山入れてございます。
向うの仲間はおもちゃさん、
隣りは行李や毛布さん、
外の仲間はよいけれど
私がいつでも困るのは
をりをり坊ちゃん嬢ちゃんの
かくれんぼうの隠れ場所、
そーとぬき足さし足で
ふすまに近づき手をかけて
そーとあけると大いそぎ
轉がるやうにもぐりこむ。
その度ごとに私は
痛い思ひをいたします。
お蒲団さんもおほこぼし
ぐんぐん抑へつけられて
息もできない苦しさを
早く鬼さん 助けぶね。

どうであろうか? 小学生にしてこの七五調の定型を守るということだけでも大したものであるが、加えて10歳の少女の作とはとても思えないような機知と楽しく溌溂としたポエジーが働いており、後世の大村はまを髣髴とさせるような種子が、すでにこの中には宿っていないだろうか?
この大村はまの持つ詩心は、長くあまり注目されず、人はたいてい教育者としての、職業人としての大村はまの経歴のみを述べて来たが、私は先生の詩人としての面、詩心を持った教育者としての面をいつも身近で感じてきたので、この際特にその点を述べておきたいと思うのだ。
大村先生の担当をさせていただいた三年間は短いとは言ってもそれなりの時間である。言葉についてのお話、国語に関するお話が詩に全くつながらないことの方が、不思議である。
「詩ね…。全集をご覧になってもわかると思うけど、私は詩の実践の方はそんなに多くないんです。でも、やりたいと思っていた。今からでもそう思うくらいに。」
そうおっしゃった時、先生は97歳であったと思う。何しろ、単元の構想やその実践のお話になると、先生は完全に年齢を超越されている。
「やりたいと思っていた。」先生のその口吻から感じられたことは、やりたかったけれどできなかったという印象である。なぜなら、先生は国語の中でも「文学鑑賞」やそれについての「話し合い」、そして「創作」ということを高度な学習と位置づけ、これを教室で教えるには中学三年生くらいのしっかりとした言語力を身につけていなければならないと考えておられた。中学一年と二年の学習課程を踏んで、その習熟の後初めて三年生で試みられるべき単元であると考えられていたからだ。
しかし当時の学校の管理者である校長は、主として受験対策の面から大村先生に三年生のクラスを担任させようとはしなかった。それで詩の単元も又、多くは生まれなかったという可能性は高い。
しかし大村先生は、絶筆となった「優劣のかなたに」の他にも、その教職期間中にこんな詩を書かれている。
「ひなまつり」
一
うらら春の日 雛祭
紅こぼる 桃のはな
雛(ひいな)かざりて ほほえみぬ
ちよと小鳥も窓ちかく
二
ゆかしきさまに 内裏雛
仕え人らにまもられて
御調度きよら うす光り
かすかにきこゆ笛太鼓
三
おさなごころよ 雛まつり
おとめごころよ 雛まつり
お白酒をくみかわしつつ
われらが春を歌うかな
諏訪高女の教諭の時代、昭和11年の春3月、大村はま29歳の時の作詩である。当時、新築成った学校では女子生徒の情操教育の一環として雛人形を購入。正規の授業として位置づけた。何でも校長自らが上京して雛人形を買いつけたという。
その当時、国語科教諭であった大村はまが作詩を担当。音楽科教諭であった藤沢紫郎が作曲を担当して歌までができたのであったが、何だか花巻農学校時代の宮澤賢治による「精神歌」誕生の経緯と妙に重なる。若き大村はまの詩心や、はつらつとした胸の鼓動が聞こえてくるようだ。
「蓼科の歌」
1
青葉照る 蓼科の原
山並みは 幾重はるけし
谷川の流れささやき
鶯のほがら うたえる
2
落葉松の 林の小道
友とゆく 足をとどめて
仰ぎ見る大空澄めり
わたりゆく 雲のかがやき
3
草匂う 蓼科の原
山風の そよ吹きくれば
青草の かろきさざめき
桔梗(きちこう)の紫揺るる
4
ここにして 山は親しも
山ゆきつ 山に遊びつ
われの身は 我の心は
山の子となりて うたえり
こちらは東京に移られてからの府立第八高女時代、山本猛校長のもとでの作詩。昭和10年代、当時まだ結核は不治の病として猛威をふるっており、女生徒の中にも毎年クラスに一名くらい病に倒れる者がいた。そんな折、校長の発案で、当時「腺病質」と呼ばれた身体の弱い生徒達を夏休みに信州蓼科高原に連れて行くことになった。その高原生活で、毎朝の朝礼のために歌う歌がほしいと求められ、一夜で作った詩。作曲をする人はいないので、島崎藤村の「椰子の実」の旋律で歌ったという。
そのせいか、藤村の『若菜集』のようなしらべが感じられるが、青春の日の高原の冷気がこちらの心にまで流れ入るようだ。生と死を見つめる若き心に寄り添いつつ、自然の懐深く抱かれて健やかな力を得ようとする当時の大村先生の祈りのような心が伝わってくる。
人は、国語教師と言うと、正しい文法を教える人、正しい漢字の書き方や読み方を教える人、文意を正しく読解することを教える人、国語のテストを作る人、あるいは国語のテストで高得点を取ることを教える人……そういうニュアンスのみでとらえてはいないだろうか? ことにも戦後の国語はそういう傾向を帯び、クイズのような断片的情報処理が主体になってはいないだろうか?
美しい文字を書くとか、美しい表現をするとか、内容のある機知に富む文を書くとか、美しく生き生きと話すとか、豊かで幅広い柔軟性のある話し合いができるとか、そういう戦前には当たり前であった表現性・創作性の国語学習になっていないのではないか? そんな懸念があったので、今回は特に国語教師の持つべき創作者としての、表現者としての側面に光を当ててみたのだ。
俳句を教え、短歌を教えるが、自身では俳句も短歌も詠んだことがない。そんな教師が多くはないだろうか? 自分では詩はもちろん、日記も随想も童話も書いたことがないのに、文章の読解や解釈を教えている、そんな教師もあまりにも多くはないだろうか?
しかし古くは万葉集の時代から、まずは歌が先にあり、そこから文法や解釈や評論が生まれたのである。自分には、現代の国語はちょうどその逆をやっているように思えて仕方がないので、今回その反例としての詩人・大村はまを語りたく思ったのである。
総じて大村先生の作詩には、ひとつの機会に臨んだ時の機会詩としての性格を強く感じる。学びの日々の中でのかけがえない節目、何処か“はれの”と言いたくなるような、胸を張り、目を輝かせて臨みたくなる“同志”や共同体の“いわい”の時。そこに向かって、思わず胸にこみあげてくる詩心のように思えるのだ。
「優劣のかなたに」を作詩された時の先生の心も、この文脈、この系列の中で考える時、何処か心に思い当たる節がある。先生は最期まで、そして亡くなった後までも、同じ学びの同志たちに向かって創作し表現し続ける、教育の詩人であった。

<著者プロフィール>
よこやま・ひでゆき。1954(昭和29)年、石川県金沢市生まれ。
札幌南高等学校を経て上智大学文学部哲学科に学ぶ。
小学館編集者時代は、『週刊少年サンデー』や『月刊コロコロコミック』の漫画誌、『小学一年生』『小学三年生』の学年誌、『中学教育』『小六教育技術』の教育誌に在籍。2003年から2005年まで『中学教育』の編集長時代に、大村はま先生の担当を務めた。
現在は「大村はま記念国語教育の会」常任理事。「NPO日本教育再興連盟」顧問。
大村はま先生の貴重な講演動画!「忘れ得ぬことば」大村はま先生 白寿記念講演会 5つのことばがつむぎ出す、国語教育の源泉【FAJE教育ビデオライブラリー】〈有料動画約60分〉がこちらでご覧いただけます。

