「差別」「平等」「調和」を考える(上) 夫婦別姓論は「個」の肥大化【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第45回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第45回は、【「差別」「平等」「調和」を考える(上) ー夫婦別姓論は「個」の肥大化ー】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。
目次
1 選択的夫婦別姓「賛成7割」
NHKのニュースで表題のように報じられて驚き、ネットを開いてみた。調査主体は、早稲田大学棚村政行研究室と「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」との「合同調査」とある。その結果の発表には「関係者や支援者」が集まったとしてその写真も紹介されている。市民団体「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」の事務局長である井田奈穂氏は、この結果について「壁に穴が空いたかなと思いました」と述べ、「私たちが求めているのはたった一つ。望まない改姓をゼロにしてください、ということです」と、「期待をこめて語った」とネットでは報じていた。
選択的夫婦別姓をめぐっては、平成8年に法制審議会が制度導入を提言し、法務省が法案を準備したが自民党が反対して国会提出は見送られた。別姓制を望む人たちは裁判を起こしたが、平成27年に最高裁は、夫婦を同姓とする規定は「合憲」と判断を下した。これに反対して最高裁に上告する違憲訴訟が現在4件あるそうだ。
教育者の一人としてこのような問題をどう考えたらよいのだろうか。読者諸賢ともども考え合ってみたい。
2 「賛成7割」は世論か
「選択的夫婦別姓・賛成7割」という見出しは、いかにも「国民の7割」「市民の7割」という印象を与えるが、必ずしもそうとは言えまいという思いが残る。
第一の理由は、合同調査に当たった市民団体がそもそも「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」という別姓推進団体であり、団体の主張の正当性を裏づけるデータを求めている団体である点だ。
第二に、この結果について同団体の事務局長は「壁に穴が空いたかなと思いました」と述べている点だ。これは「一歩前進した思い」と喜びを表明したことになる。どのような表現で、どのような内容を、どのような人たちを対象に調査したのだろうかが気になる。つまり、「この調査の中では」という限定されたデータなのである。
第三に早稲田大学の棚村研究室との合同調査とあるが、この研究室が、先の市民団体の運動に反対の立場にあるとは考えにくい。そうだとすれば、同じ考えの下になされた「合同調査」と解して当然だろう。従って、この結果を共に喜んでいると想像するのは自然である。かくて、「7割」の「内実」は、「国民の7割」「市民の7割」とは到底言えまい。
3 安心、安定、秩序という私論
ごく平たく言って、人間の日々にとって「安心」ほど大切なものはあるまい。安心の反対は「不安」である。安心な日々は平安であり、幸せである。不安な日々は考えるだけでも不幸である。人々は、日々の安心を求めて人生を送っているとも言えよう。
この重大な「安心」は何に支えられて成立し、存在するのか。「安心」は「安定」によって支えられると私は考えている。血圧の安定、収入の安定、人間関係の安定、地位や立場の安定、体調の安定、などなど全てが安定していることによって初めて安心した生活ができる。安心は安定が支えるのだ。「安定」が重要なのだ。
安定の反対が「不安定」である。万事不安定であれば「安心」は望むべくもない。では、その重要な「安定」を保障するのは何か。それが「秩序」である。「秩序」の反対は「無秩序」である。秩序正しい動きや運動が「安定」を支える前提である。安定を生み、安定が継続する為には常に秩序が正しく保たれねばならない。
秩序正しい動きの典型が自然界の動きだ。春から夏へ、夏から秋へ、朝から昼へ、昼から夜へ、時は正しい秩序を保ちつつ移っていく。水は高所から低所へ、空気は温められて軽くなって上昇し、水滴になれば雨となって落下する。やまない雨は降らないし、降る雨は必ずやむ。生あるものは枯れ、死ぬことを免れない。人はやがて全て死ぬ。これが避け難い大自然の「秩序」であり、我々はその秩序の中で生きる他はない。
安心は安定から成り、安定は秩序によって保たれる。秩序が乱れ、揺れ、動くなら、不安定になる。それが不安を生み出し、不安が人心を動揺させ、人の世の乱れをも招きかねない。だから、誰だって秩序を尊重し、安定を持続させつつ安心の日々を確保したいと望む。当然のことだ。
4 人間は自然の法則に従って生きる
暑ければ脱ぐ。寒ければ着る。疲れれば休み、回復すれば動く。飢えれば食い、渇すれば飲む。眠くなれば眠る。全てが自然の秩序に従い、服する日々なのだ。大自然の摂理は壮大な秩序を整えて万物を生かしめている。自然の恵みは無私公平である。
人類の歴史は、自然の摂理に倣いつつ法を作り、ルールを定めて人工の秩序を生み出し、それを守り合うことによって安定を保ち、安心を享受しようと努めてきた。
人為、人工のルールは「法律」の名で定められ、それが、人為、人工の「秩序」を作る。法は、長い時間と多くの知見を得て成る。
それを受け容れ、守るのが「保守的」であり、それを改め、変えていくのが「革新的」である。部分的に、ゆっくりと、少しずつ、現状を良くしていくのが「改善」であり、「改良」であり、「保守的」である。全面的に、急激に、がらりと変えていくのが「革新的」「革命的」である。季節も時の流れも、天候も、潮の干満も、その動きはゆるやかで静かで安定を乱さない。時にその自然の秩序が狂えば、津波、台風、竜巻、地震などの災害となって人々を不安と恐怖に陥れる。天災の正体は、一時的かつ大規模な大自然の秩序が乱れる現象なのだ。
さて、これらの考察が「夫婦別姓」問題とどのようにつながるのか。
5 「自然」の秩序に従う「文化」
造物主は、「宇宙間の万物を造った者」であり、「造化の神」「天帝」「上帝」などと擬人化して称される。一切の「自然」は神によって造られたと考えられており、そう考えるのはごく自然だ。神の産物の総体が「大自然」であり、人智によって造られた総体を「文化」と呼ぶ。「文化」は「自然」の秩序に従って生まれ、造られている。「夫婦同姓」は、日本の文化として長く、広く認められ、日本国憲法にも反しない。このことによって秩序づけられ、安定的に守られ、その法に従うことで安心の日々が約束されて今日に及ぶ。
「終戦」という言葉は、「戦争の終結」という意味で、それは何となく「安堵」と「安らぎ」を思わせる。だが、「敗戦」と言えば、「負けたのだ」という思いが生まれる。日本は、先の大戦に敗れたのだ。占領され、自国の「文化」は大きく変えられた。そのキーワードが「民主化」である。それは「軍国主義」「帝国主義」の対概念と教えられ、広まり、75年を経た。
米国が主となってなされた占領政策は様々な功罪を齎したが、私が大きな問題点だと考える一つに「個人主義」の「肥大化」がある。
戦前戦中の日本人は「一億火の玉」になって「滅私奉公」、「お国の為に」「命惜しまぬ」「忠君愛国」を誓い合い、「欲しがりません。勝つまでは」「贅沢は敵だ」と励まし合い、戒め合って生きてきた。「私人」「個人」よりも、「国家」「公益」が優先された。「お上(かみ)」に逆らう者は投獄される「全体主義」が世を覆っていた。
占領政策はここに着目し、「個人重視」「人権尊重」「平等思想」「自由主義」を鼓吹し奨励した。そして急速に広まった。
75年間の日本人の戦後生活は、日本人の考え方を大きく変えてしまった。「一億火の玉」など「以ての外」で、「個性」を重んじ、「多様性」を認め、「主体性」を育て「強制することなく」「自ら考え、自ら判断する」「人権」を「擁護」するようになったのだが、日本人は果たして幸せになったのだろうか。
神の造った「大自然」は、正しい「秩序」によって「安定」し、「安定」によって万物に「安心」を与えている。「大自然」は「全体主義的」だから、ある生物にとってのみ好都合という現象は一つもない。
例えば鼠にとっての猫と同様、蛙にとって蛇は天敵である。小魚は大魚に食われ、キリンはライオンに襲われる。だが、蛇が蛙を、猫が鼠を、ライオンがキリンを、大魚が小魚を食い尽くすことはない。草も牛馬に食い尽くされたことはない。これを私は「不平等の大調和」と呼び、「全体主義的」な大自然の営みの本質ととらえている。
人為、人工の「文化」も、基本的にこの「不平等による調和」「個よりも全体」という「大自然の摂理」に逆らうことはできない。小さな浅智恵で神の怒りを買うべきではない。
6 「個」の価値は「集団」に従属
「夫婦別姓」は「選択的」であるにせよ、「不自然」であり、「自然の理」に合わない。その原理は「個」を「全体」の上位に置くからだ。「夫婦同姓」は自然の理に合っている。「個」を「全体」の一部に置くことが、「大自然の理」に合うからだ。
太陽のお陰で地球は生命を育むことができ、地球のお陰で生物が生まれ、人間も存在し、生存できる。地球上に海と陸地があり、境界を定めて国家がある。国家の一つに日本があり、日本の国土に日本人は住める。国民が暮らす根本原理は憲法に定められ、これが最高法規となり、法律も、条例も、通達も憲法を遵守し、違背することはできない。これらの全ては大自然の営みに合わせた人類の模倣的対処とも言える。個は全体の中にある。全体的調和に部分である個が貢献することによって、個もまた生かされ、生存し、生活ができる。
日本における婚姻の原理は、「家」というまとまりを望ましく保つことに置かれてきた。その故にこそ「○○家と○○家」「両家の婚儀」という言い方がなされてきたのだ。それは、公的な宣言の形をとるべく媒酌人を立て、関係者を招いて式典を公開する形を長くとってきた。
近頃は、憲法にも「両性の合意のみに基いて成立し」とあるように、○○君と○○さんの結婚式と呼ぶ個人と個人の契約が増えてきた。これらも、「家」というまとまりよりも、部分としての「個」を尊重するという考え方への傾斜ととらえられるのではないか。夫婦別姓を認めよという声も、「全体よりも個が大事」という考え方の表れの一つと言えよう。
勿論、一人ひとりの個はかけがえのない存在ではあるが、「個の尊重」は、あくまでも、その個が属する集団の望ましい発展に寄与できることによってなされるべきである。集団の中でかけがえのない価値を発揮できるからこそ、初めて「個」の価値が尊重されるのである。
「個」が、所属集団と無関係に肥大化することは、時により事によれば集団を破壊に追いやりかねない。「国家百年の計は教育にあり」と言う。教育に携わる者として胸襟を開いてじっくりと話し合う場が欲しい。
(次回に続く)
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2021年1月号より