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堀 裕嗣+宇野弘恵が厳選&解説! 発見!珠玉の道徳授業 #5 「握手」 by 新里和也

連載
堀裕嗣&北海道アベンジャーズの シンクロ道徳の現在形
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北海道公立中学校教諭

堀 裕嗣

北海道公立小学校教諭

宇野弘恵

独自開発教材を用いた道徳授業研究の第一人者である堀裕嗣先生と宇野弘恵先生が、全国各地で登壇するセミナーツアーの中で出合った素晴らしい道徳授業を紹介する連載です。毎回、お二方が執筆する授業解説付きでお届けします。堀先生と宇野先生の「授業の見方」も学べる連載です。

今回の執筆者/新里和也(北海道公立中学校教諭)

1.授業の実際

「握手」
B 相互理解、寛容
対象学年:中学校1年生~3年生

(1)「きよしこの夜」を聴く

「これからある歌を流します。みなさんは、この歌を聴いたことがあるでしょうか。」

・日本語版の「きよしこの夜」(1番のみ)を流す。
・音源の歌に合わせて、スライドに歌詞を提示する。

「この歌を聴いたことは、ありますか? 聞いたことがある人は、静かに手を挙げてください」(ここで手が挙がるのは、1クラス35人学級で10人いないのが現状である)。

「実は、この『きよしこの夜』は、世界的に有名な歌なのです。世界各国、様々な言語で、歌われています。そして、この歌は、ある季節、とりわけある時期になると盛んに歌われる歌です。どんな季節や時期によく歌われる歌なのでしょうか。日本語版の歌詞だけではわかりづらいので、これからドイツ語版、英語版の順に『きよしこの夜』を流します。先ほどと同じく、1番のみを流しますので、提示される歌詞やメロディーなどを参考に考えてみてください。」

・ドイツ語版の「きよしこの夜」(1番のみ)を流し、音源に合わせてスライドに歌詞を提示する(歌詞はドイツ語と日本語訳の二つを提示する)。
・英語版の「きよしこの夜」(1番のみ)を流し、音源に合わせてスライドに歌詞を提示する(歌詞は英語と日本語訳の二つを提示する)。

「さて、「きよしこの夜」は、どんな季節や時期によく歌われているのでしょうか。隣の人と交流してください。」

交流後、学級全体で「冬、クリスマスの時期に歌われる歌である」ことを確認します。その際、歌詞やメロディーのどのようなところからそれが感じとれるかについても交流します。

(2)「きよしこの夜」が創られた背景

「『きよしこの夜』は、讃美歌と言われる歌です。讃美歌とは、キリスト教の礼拝や集会で神をほめたたえ、感謝や祈りを捧げるために歌われる歌のことを言います。所謂、宗教歌です。さて、この歌は、いつ頃創られた歌だと思いますか。」

ここで、数名を指名して、いつ頃創られた歌だと思うかを答えさせます。その後、「きよしこの夜」が創られた背景を次のスライドをもとに簡単に説明します。

「きよしこの夜」誕生の背景

〇1818年、オーストリアのオーベンドルフ村で誕生した曲

〇1818年のクリスマスイブ前日、この村にある聖ニコラウス教会のオルガンが壊れてしまった。

〇クリスマスに歌う讃美歌が歌えない状態になって、ヨゼフ・モールが、讃美歌の代わりに歌える歌をつくろうとドイツ語で詞を書いた。

〇ヨゼフは、フランツ・クサーヴァー・グルーバーに「この詞にギターで伴奏できる讃美歌を作詞してほしい」と依頼し、この曲が誕生した。

(3)坂本龍一さんの言葉から

「1818年にドイツの小さな村で偶然生まれたともいえる「きよしこの夜」は、その後、世界各国に讃美歌として広まり、様々な国の言語で歌われるようになりました。1818年から現在に至るまで、ずっと歌い継がれているということは、この歌には、人々の心を惹きつける不思議な力があるといえるかもしれません。では、この『きよしこの夜』には、次のような力があると思いますか。」

「きよしこの夜」には、戦争を止める力はあると思いますか?

この発問の後、「きよしこの夜」に戦争を止める力が「ある」のか「ない」のかを生徒たちに判断させ、すぐに二択の多数決をとります。多数決をとった後、坂本龍一さんの顔写真を提示し、坂本さんに関する基本的な情報(世界的な音楽家・ピアニストであること、世界や日本の平和のために活動していたことなど)を説明します。そして、生徒たちに坂本さんへの2001年のインタビューにおける次の発言を紹介します。

「戦場で敵同士が撃ち合っている時、ふと聞こえてきた歌やメロディーに銃を下ろすという音楽がまだあり得るんじゃないか」

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件についてのインタビューより

この坂本さんの発言を紹介した後、再度、次のような形で発問を行います。

「きよしこの夜」という歌には、戦争を止める力はあると思いますか? 坂本さんが言うように、戦場で撃ち合っている人たちが銃を下ろしてしまう。そんな歌やメロディーはあると思いますか?

この後、生徒個人の考えをワークシートに記入する時間をとります。

(4)戦場で敵同士がふと銃を下ろすような歌やメロディーは存在する

「坂本さんのいうような歌やメロディーが、あるのか、ないのか。実は、『きよしこの夜』には、戦争を止める力があります。それは、1914年の第一次世界大戦中、イギリス軍とドイツ軍の間で、実際に起こった出来事です。これは、鈴木まもるさんの『戦争をやめた人たち』(あすなろ書房)という絵本にも描かれています。」

絵本「戦争をやめた人たち」の表紙画像


上のような説明の後、第一次世界大戦の簡単な説明(塹壕を使った陸上戦が主な戦い方であったことなど)を、スライドをもとに簡単に説明します。そして、絵本を読む前に、次の発問をスライドに提示します。

「イギリス軍とドイツ軍の兵士は、なぜ、戦争をやめることができたのでしょうか?」という発問が書かれたスライド

イギリス軍とドイツ軍の兵士は、なぜ、戦争をやめることができたのでしょうか?

(5)鈴木まもるさんの絵本『戦争をやめた人たち』と坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」

上の発問の後、鈴木まもるさんの絵本『戦争をやめた人たち』を読んでいきます。読む際の留意点は下の通りです。

①絵本は、パワーポイントのスライドに提示し、文字は生徒が読みやすいサイズで表示する。

②絵本の表紙をスライドに提示するのと同時に、坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」(坂本龍一本人によるピアノ伴奏)をBGMとして流す。

③絵本は、読み聞かせではなく、生徒個人の黙読とする。

④絵本の最後のページには、「イギリス軍とドイツ軍の兵士は、なぜ、戦争をやめることができたのでしょうか?」に対する作者なりの考えが書かれているため、黙読の段階では、生徒に提示しない。

坂本さんの音楽を聴きながら、鈴木さんの絵本を黙読することで、絵本と音楽の余韻に浸ることができます。

絵本を読み終わった後、スライドに「イギリス軍とドイツ軍の兵士は、なぜ、戦争をやめることができたのでしょうか?」の発問を再提示し、生徒たちにワークシートに理由を記述させる時間をとります。その後、数名を指名して、どのようなことを書いたのかを発表させます。

(6)私たちが生きている時代について考えてみる

実は、絵本の最終ページには、作者の鈴木さんなりの考えが書かれています。みなさんは、この考えをどう思いますか。

<鈴木さんの考え>
いっしょにわらい、あそび、食事をし、友だちになったから、あいてにもふるさとがあり、家族や子どもがいることがわかったからです。国を大きくするために戦争するより、たいせつなものがあることがわかったから、この人たちは、戦争をやめたのです。

鈴木さんの考えを提示した後、下のスライドのように坂本さんのインタビューの言葉を再度引用し、「私たちが生きている『今』の時代に、このような音楽は存在すると思いますか?」と生徒全員に投げかけます。

そして、最後に下のスライドを提示して、授業の感想や思ったことをワークシートに記入させ、授業を終えます。

生徒たちへの最後のメッセージを記したスライド

2.この授業をつくるにあたって

この授業は、私の人生における必然的な出会いと偶然の出会い、そしてこの二つを結びつける触媒のようなものが作用したことで生まれた授業です。

必然的な出会い。それは、坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」との出会いです。私は、子どもの頃から昭和時代の歌や音楽に興味をもっていました。私が小中学生頃、最もよく見ていたテレビ番組は、毎週水曜日に放送されていた「速報!歌の大辞テン!!」(司会:徳光和夫・中山エミリ)でした。
この番組は、毎週録画して、何度も何度も繰り返し、それこそビデオテープが擦り切れるほどに見返しました。その他にも、昭和時代の音楽に関するテレビ番組が放送されると分かれば、こちらもすぐに録画して、同じように何度も何度も見ました。このようにして、昭和時代の歌や音楽に触れる機会が多かったため、世界的に有名かつ昭和時代を代表する音楽家である坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」との出会いも必然的なものでした。

偶然の出会い。それは、鈴木まもるさんの絵本『戦争をやめた人たち…1914年のクリスマス休戦…』(あすなろ書房)との出会いです。私の教員生活が10年目を超えていた数年前の12月下旬、冬休み前の終業式の日でした。この終業式の中で、当時の校長が全校生徒に対して『戦争をやめた人たち』の読み聞かせを行いました。私は、このとき初めてこの絵本と出会ったのですが、読み聞かせが終わった後,私は、絵本の余韻に浸っている自分に気が付きました。すぐにこの絵本を購入し、何度も読み返しました。「素敵な絵本に出会うことができた」と心が躍ったことを覚えています。あの時、当時の校長がこの絵本を読んでくれていなければ、未だに出会えていないかもしれません。まさに偶然の出会いでした。

必然の出会いと偶然の出会いを得て、私の頭の中に二つの材が共存したわけですが、すぐにこの二つを結びつけた授業がひらめいたわけではありませんでした。それには、触媒のようなものが必要だったのです。その触媒となったのが、私が参加している道徳授業づくりセミナーにおける授業づくりのミッションでした。そのミッションは「エモーショナルな道徳授業とは」でした。エモーショナルな道徳の授業をつくろうと考えを巡らせていた時、数年前の終業式の日、絵本の余韻に浸っていたことをまず思い出しました(鈴木さんのあの絵本を授業でつかってみよう!)。そして、何かこれとコラボさせられる材はないかと考えた時、絵本のサブタイトル「…1914年のクリスマス休戦…」から、坂本さんの「戦場のメリークリスマス」「坂本龍一」が連想されました。その後、坂本さんの活動やインタビュー記事などを調べていく中で、授業で使用したインタビューの言葉を発見し、この言葉を絵本と坂本龍一さんを結びつける接点として、発問という形で用いました。  

こうして、必然的出会いの材と偶然的な出会いの材が、道徳授業づくりセミナーを触媒として結びついてできたのが今回の授業です。

この授業のおもしろさは、かなり無理のある問いから始まっているところだ。

「『きよしこの夜』には、戦争を止める力はあると思いますか?」

という問いである。普通に考えれば、「ない」と答えるしかない。戦争は国家間の政治的、経済的、軍事的な対立によって起こる。そこへ一曲の歌を持ってきて、「この歌で戦争を止められるか」と問われても、そんな簡単な話ではない、と誰もが思う。

ところが、この授業はその「そんなわけがない」という感覚を意図的につくる。冒頭では、まず日本語版の「きよしこの夜」を聴かせる。続いてドイツ語版、英語版を聴かせ、この歌が世界各地で歌われてきたクリスマスの讃美歌であることを確認する。更に1818年、オーストリアの小さな村で生まれた経緯を紹介する。ここまでは曲について学ぶ授業に見える。生徒たちもおそらく、「きよしこの夜」という一曲についての知識を得ているという感覚で授業を受けているだろう。

その流れを突然切断するように、「戦争を止める力はあると思いますか?」と問う。そして、まず二択で判断させる。この段階で生徒に長々と考えさせる必要はない。「歌で戦争なんか止まるわけがない」「でも、もしかしたら……」という程度の素朴な判断でいい。むしろ、その素朴な判断を一度つくらせておくことに意味がある。授業の後半でその判断が揺さぶられるためには、まず自分がどちら側に立っているのかを決めておかなければならない。

そこで、坂本龍一の言葉が入ってくる。坂本は、戦場で敵同士が撃ち合っているとき、聞こえてきた歌やメロディーによって銃を下ろすような音楽がまだあり得るのではないかと語る。「歌で戦争は止まらない」という常識と、「いや、音楽にはそこまでの力があり得る」という坂本龍一の言葉。この二つの「あいだ」に生徒が置かれることになる。

道徳授業では、この「あいだ」が大切である。教師が正解を説明するのではなく、二つの考えの間に子どもを立たせる。「どちらなのだろう」と少しだけ戸惑わせる。その「わからなさ」が次の教材を必要なものにする。この授業では「きよしこの夜」についての知識が増えていくことよりも、最初は簡単に答えられたはずの問いにだんだん簡単には答えられなくなっていくことの方が重要なのである。

そこで登場するのが、1914年のクリスマス休戦だ。第一次世界大戦中、対峙していたイギリス軍とドイツ軍の兵士たちが一時的に戦闘をやめた。授業では鈴木まもる『戦争をやめた人たち』を用い、「イギリス軍とドイツ軍の兵士は、なぜ、戦争をやめることができたのでしょうか?」と問う。

ここで、この授業を少し意地悪に読んでみたい。実際には、「きよしこの夜」が戦争を止めたわけではない。第一次世界大戦そのものは終わっていない。クリスマス休戦のあとも戦争は続いた。それでは、あの夜、いったい何が止まったのだろうか。おそらく、兵士たちが一時的に、目の前の相手をただの「敵」と見ることをやめたのである。

戦争をするためには、相手を「ドイツ兵」「イギリス兵」として見なければならない。「敵軍」「敵兵」というカテゴリーに入れることで、目の前にいる一人の人間が見えなくなる。どこで生まれたのか、どんな家族がいるのか、何が好きなのか、何を恐れているのか。そうした一人の人間としての具体性を消し、「敵」という記号に変える。そうしなければ、人間は目の前の人間を殺すという行為に耐えられない。

ところが、歌が聞こえてくる。自分たちも知っている歌である。相手もクリスマスを祝っている。やがて彼らは塹壕を出て、一緒に笑い、遊び、食事をする。すると、それまで「敵兵」という記号だった人間の背後に、自分たちと同じ生活が見えてくる。鈴木は絵本の帰結で、兵士たちが一緒に笑い、遊び、食事をして友達になり、相手にも故郷があり、家族や子どもがいることがわかったから戦争をやめたのだ、と書いている。授業では、この最終ページを最初から読ませず、生徒自身に理由を考えさせたあとで提示している。

ここに、この教材の道徳的な核心があるように思う。戦争を止めたのは、「平和は大切です」という理念ではない。相手が「人間」に戻ったことなのである。もう少し正確に言えば、もちろん相手は最初から人間だった。ただ、「敵」という言葉によって見えなくなっていた人間が、もう一度見えるようになったのである。

この授業の内容項目は「B 相互理解、寛容」である。しかし、授業中に「相互理解とは何でしょう」「相手を理解するためにはどうすればよいでしょう」といった発問は出てこない。

「相互理解」という言葉を正面から扱うと、道徳授業は急速に予定調和へと向かっていく。「相手の立場に立つことが大切」「違いを認め合うことが必要」「話し合うことが大切」。もちろんどれも間違ってはいない。しかし、中学生なら教師が求めているその程度の「正解」はすぐにわかる。教師が「相互理解について考えよう」と言った瞬間に、生徒たちは授業の出口まで見通してしまう。

この授業は、そうした日常的な人間関係からいったん大きく離れ、殺し合っていた者同士という極端な状況を置く。昨日まで自分の仲間を殺したかもしれない相手であり、明日には自分を殺すかもしれない相手である。その両者がある夜にだけ銃を置く。なぜそんなことができたのか。ここまで「理解すること」が困難な関係を置かれると、「相互理解」という言葉がきれいごとではなくなる。

実は、これは戦争だけの話でもない。私たちは日常生活でも人をカテゴリーで見ている。「嫌いな人」「苦手な人」「話の通じない人」「あのグループの人」。学校ではもっと小さな分類が無数に生まれる。カテゴリーは便利である。一人ひとりをいちいち理解しなくても人間関係を処理できるからだ。しかし、その便利さと引き換えに、カテゴリーの向こう側にいる一人の人間を見なくなることがある。

クリスマス休戦の兵士たちが経験したのは、まさにその逆の出来事だったのではないか。「敵」という巨大なカテゴリーの向こうから、一人の人間が現れたのである。そう考えると、この授業は「戦争はいけない」という平和教育に収斂する授業でもない。「人はなぜ他者を敵として見ることができるのか」「その敵が再び人間に戻るのはどんなときなのか」を考える授業として読むことができる。そこに「相互理解、寛容」という内容項目との深い接続がある。

授業者自身、この授業が「エモーショナルな道徳授業とは」という授業づくりのミッションを触媒として生まれたことを明かしている。このセミナーを企画したのは私だから、よく覚えている。函館での会だ。坂本龍一「戦場のメリークリスマス」と、偶然出会った鈴木まもるの絵本。この二つが授業者の中で長い時間をかけて結びつき、今回の授業になった。

実際、この授業はかなり感情に訴える構造をもっている。生徒たちは「きよしこの夜」を聴き、クリスマス休戦の出来事を知り、坂本龍一の言葉に触れる。そして「戦場のメリークリスマス」をBGMにしながら絵本を黙読する。授業者はあえて読み聞かせではなく黙読を選択しているが、それによって生徒たちは音楽と物語の余韻を自分一人で受け止めることになる。おそらく授業の終盤、教室には独特の静けさが生まれただろう。生徒の中には胸を打たれる者もいたはずだし、「戦争とは何だろう」「人間とは何だろう」と考え込む者もいたかもしれない。授業者が目指した「エモーショナルな授業」はおそらく充分に実現され得る。

ただ、道徳授業において感動は万能ではない。むしろ感動は、ときとして思考を止めてしまう危険をもっている。美しい音楽を聴き、心を揺さぶられる物語に触れれば、人は簡単に「戦争は悲しい」「平和は大切だ」という結論に辿り着く。もちろんそれ自体が悪いわけではない。しかし、その結論だけで授業を終えてしまえば、生徒は何を考えたことになるのか。教師が感動させたい方向と、生徒が考える方向とが完全に一致してしまったとき、道徳授業は知らず知らずのうちに教師による感情の誘導にもなり得る。

この授業がそこに陥らずに済んでいるのは、音楽と絵本の間に「問い」が置かれているからだ。「なぜ、戦争をやめることができたのでしょうか?」と問われた生徒たちは、感動しただけでは終われない。その理由を自分の言葉にしなければならない。そして最後には、再び坂本龍一の言葉に戻り、「私たちが生きている『今』の時代に、このような音楽は存在すると思いますか?」と投げかけることになる。

ここでも答えは閉じられていない。音楽だけで世界を変えることなどできないのかもしれない。しかし、音楽によって目の前の相手の見え方が変わることはあるかもしれない。相手の見え方が変われば、自分の行動が変わることもあるかもしれない。そのくらいの小さな可能性として音楽の力を捉えるなら、坂本龍一の言葉は俄然現実味を帯びてくる。戦争を終わらせるほどの力はなくても、いま引こうとしている引き金から一本の指を離させる力くらいなら、音楽にはあるのかもしれない。

この授業には「握手」という題がつけられている。とても象徴的なタイトルである。握手するためには銃を置かなければならない。握手するためには相手との距離を縮めなければならない。そして何より、握手するとき、相手はもはや遠くから眺める「ドイツ軍」「イギリス軍」ではない。手を伸ばせば届くところにいる、一人の人間になる。

相互理解とは、必ずしも相手の考えを完全に理解することではないのだろう。まして、相手に賛同することでも、相手を好きになることでもない。自分とは違う。好きになれない。どうしても理解できないところもある。それでも、カテゴリーの向こう側に自分と同じように生きている一人の人間がいることだけは忘れない。その最低限の想像力が失われたところから、私たちは人を「敵」と認識する。

1914年のクリスマスの夜、兵士たちは世界から戦争をなくすことはできなかった。それどころか、彼らを包んでいた戦争という巨大な仕組みそのものを変えることさえできなかった。それでも一晩だけ、彼らは国家や軍隊によって与えられた「敵」という名前から離れた。そして、歌を歌い、食べ、笑い、遊び、相手を一人の人間として見た。

この授業で生徒たちに残したいのは、「戦争をしてはいけません」という結論ではない。人間はときに他者を「敵」にしてしまう存在である。しかし同時に、その「敵」の中にもう一度「人間」を見つけることのできる存在でもある。その両方が人間なのだ。そういうことなのだろうと思う。

「相互理解、寛容」という言葉は、ともすれば「相手の気持ちを考えましょう」という程度の、穏やかで平板な道徳的メッセージに回収されてしまう。しかし、その言葉の奥には、本来もっと切実な問題がある。私たちは目の前にいる人をどこまで「人間」として見ることができるのか。この授業は、1914年の戦場という極端な場所を経由することによって、その問いを現在の教室まで運んでくる。

歌によって戦争そのものを止めることはできないのかもしれない。しかし、一瞬だけ銃を置かせることはできるかもしれない。そして、銃を置いた手だからこそ、相手の手を握ることができるのだ。

この授業の題が「握手」である意味は、おそらくそこにある。

「きよしこの夜」に、戦争を止める力はあるか。きっと、多くの人は「ない」と考えると思います。音楽に国境はないといわれますが、戦争中には音楽にも規制が及びました。第2次世界大戦中の日本では、ジャズやハワイアンなどの米英音楽が「敵性音楽」とみなされ、特定のレコードの演奏や発売が禁じられました。「敵国の音楽だから」という理由で、その国の音楽を聴くことに抵抗を覚えた人もいたと思います。音楽に国境はある。だからたった一曲で戦争を止められるはずはない。そう考えるのではないでしょうか。

授業では、最初に「きよしこの夜」を聴かせます。クリスマスシーズンになればあちこちで流れる曲です。「クリスマス」に寄せる平和と安らぎへの願いを象徴する曲であるといっても過言ではないでしょう。新里さんはこの曲を、日本語版、ドイツ語版、英語版と聴かせます。繰り返し耳を傾けるうちに、教室にしっとりとした雰囲気が生まれ、これからの授業を受ける構えができていきます。こうした授業を行うときに、ふざけや悪乗りを防ぐことはとても重要なことです。言葉で「ふざけるな」と正しては教室の緊張が高まり、緩やかに自由に思考する素地が削がれてしまいます。こうして音楽の力で空気を整えることも、授業を機能させるうえで大切な環境調整です。

三つの言語で聴かせることには、もう一つ意味があると思います。言葉は違っても、そこに流れる敬虔で清らかな雰囲気は変わりません。日本語でも、ドイツ語でも、英語でも、同じものを感じる。音楽に国境はないのかもしれない。そんな思いを生徒たちの中に無意識に芽生えさせることも、新里さんは意図しているのではないでしょうか。

続いて新里さんは、「きよしこの夜」の誕生の経緯を知らせ、この曲が世界中に広まっていることを押さえます。そして、「人を惹きつける不思議な力があるかもしれない」と語ります。そう聞けば、ただのクリスマスソングだと思っていたものも、この曲には何か特別な力があるのかもしれないと感じるでしょう。それが、「戦争を止める力はあるか」と問われたとき、生徒の考えを知らず知らずのうちにほんの少し「あるのではないか」という方に傾けていく。このあたりが、なんとも戦略的で憎いところです。

次に坂本龍一が登場します。私たちの世代にとっては神のような存在であり、この授業場面であればすぐに「戦場のメリークリスマス」が連想されます。しかし、それを知らない生徒にはある程度の情報が必要です。

ご自身でも書いている通り、新里さんは昭和の音楽が大好きです。世代的には平成に青春期を過ごしているにも関わらず、昭和のヒットソングに精通しています。坂本龍一に関してもたくさんの情報をもっていると思います。そうなると、あれもこれも提示したくなるのが人情というもの。しかしそれでは説明が冗長になり焦点がぼやけてしまい、授業の核心から逸れてしまいます。こうした場面では、何をどの規模で提示するかがとても重要です。ここで坂本龍一を紹介する目的は、2001年のインタビューの言葉の重みを実感させることです。よって、坂本龍一が世界的な音楽家・ピアニストであること、世界や日本の平和のために活動していたことなどに情報を絞ります。可能であれば、演奏している映像を提示するとその偉大さがよく伝わると思います。ただ、どんな曲をどの程度流すかは難しい判断です。長すぎれば授業の中の坂本龍一率が高くなりすぎ、全体のバランスが悪くなってしまいます。新里さんが紹介する情報を絞り、坂本さんの言葉へ進んでいるところに、授業の焦点を見失わせない配慮があるのです。

ここまでの配慮を経て、授業は、
「『きよしこの夜』という歌には、戦争を止める力はあると思いますか?坂本さんが言うように、戦場で撃ち合っている人たちが銃を下ろしてしまう。そんな歌やメロディーはあると思いますか?」
という問いに進みます。最初の問いでは「ない」と答えた生徒も、ここで少しだけ「あるかも」に傾くかもしれません。なぜなら、坂本龍一のような偉大な音楽家が言うのだから。

そうはいっても、この段階で「あるかも」と思えるのはまだ僅か。坂本龍一の言うことはもっともかもしれないけれど理想論だろう。そういう理想はあっても現実には難しいだろう。そう考えるのが大多数ではないでしょうか。

音楽が戦争を止めるなんて、できないよね? できたらいいけど、無理だよね?理想だよね。夢だよね。そんなふうに思考させておいて、ここで一気に音楽が戦争を止めた事実を提示します。 

なんというどんでん返し! 無理だと思っていたことが実現していた。理想だと思っていたことが本当に起きていた。しかも、それは、「人間」の手によって成されたことである。人間って、捨てたものじゃない。そう感じると同時に、音楽のもつ力の偉大さに気付かされます。そして「なぜ、銃を置くことができたのか」という問いを出す前に、「どんな状況でどのように戦争を止めたのか」という問いが生徒の中にでき上がっています。このどんでん返しの構成は、主体的に問いを生み思考する仕掛けになっているのです。

その問いの触媒として、絵本が登場します。この絵本は、本当に素晴らしい絵本です。絵もことばも美しく、しっとりと語りかけてくる内容です。こうした絵本の読み聞かせは大変難しいものです。読み方や声の出し方、間のとり方によっては魅力が半減してしまうからです。半減どころか、せっかく醸成された教室の空気が壊れ、授業に浸れなくなる可能性すらあるのです。新里さんはこうしたことをよく熟知していて、絵本は読み聞かせないという選択をしています。また、坂本龍一の「戦メリ」を聴かせることでさらに雰囲気をつくり、前段で紹介した坂本龍一を離れさせない配慮もしています。些細なことのように感じるかもしれませんが、こうした細部への配慮と的確な判断が授業の機能度を高めていくことを頭に留めておきたいものです。

絵本を黙読した後、「イギリス軍とドイツ軍の兵士は、なぜ、戦争をやめることができたのでしょうか?」という問いについて考えます。大切なことは一人で思考する時間を確保し、考えを整理するために書かせる。こうしたメリハリが、その後の交流を活発で有意義なものにしていくことも添えておきます。

さて、授業の終盤です。鈴木さんの言葉を提示し、さらに、もう一度坂本龍一のインタビューの言葉を提示する。そして「争いをやめるために、私たちが人間として大切にしなくてはならないものを見つけていかなければならないのではないか」と投げかけます。戦争は悪だとは叫ばない。相手を理解することが大事だと結論付けない。でも、授業を受けた後に、他者を理解するとはどういうことかという問いが残る。

言葉が違っても美しいと思う同じ音楽がある。
音楽の後ろに同じ日常がある。
言葉も顔も住んでいる場所も慣習も文化も違っても、同じように大切な人がいる。

この授業を通して、「死ぬか生きるか」の状況下にあっても、敵を一人の人間として想像することはできる。「敵」ではなく、顔も名前も家族もある一人の人間として想像することができる。    

「敵国」ではなく、山があり川があり作物が育ち人々の営みがある一つの国として想像することもできる。そうすれば、銃を置いて握手ができる。握手をして、互いに歩み寄ることができる。

一曲の音楽から相互理解へと進むこの授業は、人は分かり合えないことがあっても分かち合うことはできる、そう示唆しているように思います。声高に戦争反対と叫ぶだけが平和じゃない。他者を一人の人間として想像する。そんな身近なところに世界平和はあるのだと教えてくれる、繊細かつ壮大な傑作授業だと思います。

堀裕嗣先生

ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

宇野弘恵

うの・ひろえ。北海道公立小学校教諭。民間教育研修などに参加、登壇し、今日的課題や教員人生を豊かにすることを学んでいる。著書に『あと30分早く帰れる! 子育て教師の超効率仕事術』(学陽書房)、『スペシャリスト直伝!高学年担任の指導の極意』『伝え方で180度変わる!未来志向の「ことばがけ」』、『生き方を考える!心に響く道徳授業』(以上明治図書出版)など多数。

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