教諭はなぜ、職員会議で「黙った」のか ―― 「良かれ」が生み出した一方的な押しつけを脱却するには

職員会議で若手教員が発言しかけて、口を閉じました。意見がないからではなく、むしろ誰よりも具体的な気がかりを持っているにも関わらず、です。彼女を黙らせたのは、その一言を安心して出せる「場」がどこにもなかったからでした。そしてそれは、私たち管理職が、良かれと思って行ってきた振る舞いの積み重ねだったのです。第4回は一人の若手の沈黙から、職員室の心理的安全性と管理職の持ち場について考えていきたいと思います。
執筆/教育コンサルタント 田畑栄一
目次
会議の隅で、のみこまれた一言
午後4時。職員会議でのことです。
その日の議題は、来週に迫った5年生の宿泊体験学習でした。進行役の教務主任が呼びかけます。
「全体の流れはお手元の資料のとおりです。ご意見のある方はいらっしゃいますか」
数秒のあいだ、資料をめくる音と誰かの小さな咳しか聞こえません。
「特にないようですね。では、これで進めます。班編成や部屋割りなど細かなところは、5年の学年担任で詰めていってください」
そのとき、視界の隅で何かが動きかけて、止まりました。
教員3年目、5年2組の担任の三上さん(仮名)です。彼女の右手が机の上でわずかに浮きかけて――そして静かに戻りました。
彼女は何かを言いかけて、言いませんでした。
なぜ彼女は「言えなかった」のか
会議のあと、私は教頭に尋ねました。「5年2組の三上先生、何か言いたそうではありませんでしたか」
教頭は少し間を置いて答えました。「お気づきでしたか。Aさんと、以前Aさんをからかったことのある子が同じ班になりそうで。彼女は宿泊先のお風呂のことまで気にしていました」
はっとしました。第2回で書いた、あの件です。宿泊の班名簿のたった一つのマスをめぐって、彼女がひとりで悩んでいた。誰と誰を同じ班にするか――子どもの一日がまるごと入った、あの一マスです。
「では、なぜ会議で言わなかったのでしょう」
「言える形に、なっていなかったのだと思います」
言える形に、なっていなかった。考えてみれば当然です。彼女の気がかりは全体の要項への「意見」ではなく、一人の子の班と、お風呂と、不安。学年で詰める細かな話です。けれど、それを安心して出せる場所がどこにもありませんでした。全体の会議では議題が大きすぎる。もし発言すれば、自分が決まりかけた流れを止めることになる。
私の「よかれ」が、若手の口を閉ざさせる
ここで、これまでの連載で私が重ねてきた無自覚な振る舞いが、一つの線につながりました。
保護者からの電話を、事情も聞かないまま担任に回してしまったこと(第1回)。教頭を通して「ピッチを上げてください」と急かしたこと(第2回)。指導主事の訪問を前に私自身が焦り、その焦りが教頭を二度も急かしたこと(第3回)。どれも悪意ではありません。むしろ組織を回そうとする責任感から出ています。よかれと思って。けれど、その「よかれ」が積み重なって、職員会議の彼女の右手を机の上に押し戻していました。
善意に基づいているから、言っている当人は全く気づかない。それこそが、いちばん根が深いのだと思います。
心配を、先に出す
では、どうすればよいのでしょうか。
私は大きな会議の作法を変える前に、もっと小さな場を一つ用意することにしました。週に一度、放課後に持っている短い打ち合わせ。その最後の3分を「気がかりを持ち寄る3分」にあてることにしたのです。やったことは、突き詰めれば、たった三つのルールに整理できます。
💡 「気がかりを持ち寄る3分」 三つのルール
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① 順番をひっくり返す
案を示してから意見を募るのではなく、「いま、気になっている子はいますか」と、心配を先に出してもらう。 -
② 発言の意味を変える
その一言を「流れを止める邪魔」ではなく、「見落としを防ぐ貢献」として受け取る。 -
③ 禁じ手を設ける
心配を出してくれた人に、「では、あなたが担当してください」とは絶対に言わない。
順番を変えるだけで、発言の意味まで変わります。
「ご意見のある方は」と問われたとき、発言する人は「決まりかけた流れを止める人」と捉えられかねません。
しかし、「今気になっている子は」と問えば、それは「みんなが見落としかけたことを拾ってくれる人」になる。同じ発言が、邪魔から貢献へと変わるのです。
三つめの禁じ手は、自分に課しました。第1回のあの一言こそ、教諭の口をいちばん重くする一言だったからです。心配が出たら、まず「出してくれて、ありがとうございます。それはこの場の全員で考える課題にします」と受けます。一人に背負わせず、真ん中のテーブルに置いて、最初の一言の値段を下げる。私の工夫は、これだけです。
その3分は、だれの手にもある
ここで、正直に打ち明けておきたいことがあります。この三つのルールは、校長だからできたことなのでしょうか。私は、そうは思いません。
順番をひっくり返すのに、校長の権限はいりません。学年の打ち合わせで、若手の先生自身が「案を出す前に、気になっている子を先に出しませんか」と一言そえるだけで、その場の順番は変わります。同僚が心配を口にしたとき、隣の席の誰かが「それ、拾ってくれてありがとう」と受ければ、その一言はもう邪魔ではなく貢献になる。禁じ手も、同僚どうしで守れる約束です。管理職の合図を待つ必要はありません。
現に、あの右手を最初に動かしたのは、私ではありません。三上さん自身でした。私は放課後の3分という入口を用意しただけで、そこを半歩、踏み越えたのは彼女です。心配を「どうしよう」と一人で抱えるのではなく、「一緒に考えてほしい」と相談の形にして差し出す。その半歩がなければ、どんな場も動きません。
場をひらくのは、管理職の歩み寄りだけではないのです。管理職が入口を広げ、教諭が半歩を踏み出す。その両方がそろって初めて、沈黙は言葉に変わります。この三つのルールは、明日の学年会でも、隣の席でも、誰の手からでも始められるのです。
お互いの歩み寄りは、今日初めて明日から成果を呼ぶようなものではありませんから、焦らなくても大丈夫です。『今日も一日お疲れ様でした』などと、笑顔で声を掛け合うような空気を作ろうと意識していれば、いずれ必ず実現します。
教室の「当たり前」を大人の職員室に
この「気がかりを先に」を続けているうちに、あることに気づきました。これは、まったく新しいことではないのです。先生方が毎日、教室で子どもたちにやっていることでした。
算数の「間違えてもいいから、出してごらん」。学級会の「反対の意見も、大事な意見だよ」。先生方は子どもが安心して手を挙げられるように、いつも最初の一言の値段を下げています。間違いを責めず、声を出したこと自体をまず認める。それが教室の、当たり前の風景です。私が打ち合わせの3分でやろうとしたのは、その教室の当たり前を大人の職員室に持ち込むことでした。子どもにできて、大人にできないはずがありません。
そしてこれは子どもたちにも届きます。立場の違う大人が安心して心配を出し合い、聴き合っている。その姿はそれ自体が、子どもにとってのいちばんの教材です。人を信じる力、思いを言葉にする力、他者と折り合う力。テストでは測れないそれらの力は、そういう大人の姿の隣で育ちます。職員室の温度は、教室に伝わるのです。
戻らなかった右手
そして実践のときです。放課後の職員会議。最後の3分です。私は決めておいた問いを置きました。
「いま、気になっている子はいますか?」
数秒の沈黙のあと、5年2組の担任がまた右手を浮かせました。
今度は、戻りませんでした。
「あの……気がかりな子のことで、一つ相談させてください。宿泊の、お風呂のことなのですが」。小さくても、はっきりとした声でした。
私は、うなずきました。「出してくれて、ありがとうございます。聞かせてください」
彼女は、Aさんのことを、ぽつぽつと話しました。私はさえぎらずに、最後まで聞きました。そして口にしたのは、たったこれだけです。
「わかりました。それは、あなた一人で抱える話ではありませんね。みんなでやりましょう」
彼女の肩から、力がすっと抜けるのが見えました。のみこまれていた一言が、ようやくテーブルの上に出てきた瞬間でした。
管理職の持ち場
その夜、私は校長室で一人、自分にできることを考えました。班をどう組んで、その子たちとどう過ごすのかは、担任の先生方しかできません。子どもの顔を知らない私が口を出しても、いいことは一つもありません。お風呂の具体的な配慮も、体のことは養護教諭のほうがずっと頼りになる。私が代わってやれることではないのです。
では、校長にしかできないことは何か。二つ、思い当たりました。
まず、養護教諭に当日支援に入ってもらえるよう、引率の体制と人の配置を組むこと。
次に、宿泊先に学校として対応する場合、その窓口に立つこと。
どちらも担任一人では動かしにくい〈人〉と〈外〉のことです。
翌朝、私は養護教諭と学年主任に声をかけ、Aさんの宿泊体験学習での配慮方法を相談しました。
次に宿泊先へ、入浴に配慮を要する子どもがいるので、他の子どもと入浴時間を分ける可能性があることを電話しました。
