なぜ管理職と教諭はすれ違うのか【立ち位置を超えて~管理職・教諭で共創する新しい学校~ #1】
文部科学省の最新調査(令和6年度公立学校教職員人事行政状況調査、令和7年12月公表)によれば、精神疾患で病気休職した教員は、7087人。前年度から微減したものの、過去二番目の高水準です。休職に至った要因のトップ3は、「児童生徒に対する指導」が25.6%、「職場の対人関係」23.2%、「校務分掌や事務的業務」12.7%でした。
この数字が示す通り、教員の休職の理由として無視できないのは、職場の人間関係と業務的負担、つまり学校経営に関わる問題です。これを何とかするためには、管理職と教諭が一丸となって助け合える環境づくりではないでしょうか。お互いの立ち位置を超えて、新しい環境を作っていくこと。そのための方法を考えていきたいと思います。

目次
校長駆け出しだった頃の苦い思い出
午前8時15分。職員室の電話が鳴りました。受話器を取った教頭が、表情をわずかに曇らせます。
「お母さん、お電話ありがとうございます。校長に代わりますね……いえ、まずは状況を……はい、はい」
校長になりたての私は、校長席で次の打ち合わせ資料に目を落としていました。
私の方を振り向いた教頭は、声を低くしながら
「校長先生、2年3組の保護者から。お子さんが今朝、行きたくないと泣いている、と」。
私はうなずき、
「担任に伝えて」
とそれだけ言って、視線を手元に戻そうとしました。
そのとき。
職員室の奥にいた、その子の担任の若い先生と目が合いました。
彼女の表情は一瞬固まり、そして、何かを言いかけたまま、すっと顔を伏せました。
まだ校長になって間もなかった私は、学級の中で起きていることは学級担任の領分だと、そう信じて疑いませんでした。
保護者からの電話も、まず担任が受け、担任が判断し、担任が動く。
私自身が、そのようにして担任の時代を過ごしてきたからです。
だから、校長の役割は、その判断を後ろから支えることだ――そう思い込んでいました。
私は単純に、役割を持つ人に正しくロール・アサインメントをした気持ちでした。
しかし、私の言葉は、彼女には全く異なる響き方をしていました。
「やっぱり、もっと早く確証をつかむべきだった」
「気になった時点で相談しておくべきだった」
「自分の見立てが、甘かった」
そして、
「校長は、私が動くしかないと言っている」
彼女は、すでに前々から気づいていたのです。あの子が最近、給食の輪から少し外れていたこと。
連絡帳の文字が、いつもより小さかったこと。月曜の朝、目を合わせなかったこと。
肌感覚として、「何かある」と思っていたはずです。
でも、確信が持てない。だから、誰にも相談や報告ができていなかったのです。
頭の中で響く数々の自責の言葉と、校長の態度によって、彼女はすべてを自分で引き受け、自分自身で何とかするしかないと、そう思ったに違いありません。すべてを引き受けるということは、何も言えなくなるということです。
私は、彼女から言葉を奪ってしまいました。
それから校長としての経験を積んだ私は、はっきり言えます。不登校は、担任の力量で解決できる問題ではありません。家庭の事情、本人の特性、学級の空気、地域の文化。いくつもの層が絡み合っています。だからこそ、最初の窓口は、校長が引き受けるべきです。教頭が学級の指導を引き継ぎ、担任は、校長の助けを得つつ、当該の子どもに寄り添います。役割を分けるとは、そういうことです。
教頭は、校長である私に取り次ごうとしていました。それなのに、私は受話器を取らなかったのです。
不登校への対応をただ「担任の仕事」として下ろした瞬間、私は、一番大切な持ち場を放棄したことになります。
私がこの重大な事実に気づき、貴重な実践知として我が物にするまでの間、追い詰め、あるいは傷つけてきた先生たちのことを思うと、慚愧に堪えません。
立ち位置の違いとは
管理職と教諭は、同じ職員室にいます。同じ子どもを見て、同じ学校の同じ問題に、同じように悩んでいます。
それなのに、なぜ上のようなすれ違いが起こるのでしょうか。
答えは、立ち位置が違うからです。
立ち位置が違えば、見える景色が違います。景色が違えば、感じることが違います。感じることが違えば、選ぶ言葉が違います。それだけのことです。
ところが、この「それだけのこと」が、学校の中では、しばしば大きな壁になります。
前述した通り、精神疾患で病気休職した教員の要因のうち、「児童生徒に対する指導」が25.6%、「職場の対人関係」23.2%、「校務分掌や事務的業務」12.7%でした。
「職場の対人関係」、つまり同僚や上司などの職員室の中での人間関係が、先生たちの心を深く削っているという事実。これを、私たちは正面から受け止めなければならないと思います。

校長室から見える景色、教室から見える景色
校長室から窓の外を見ると、グラウンドが見えます。子どもたちが小さく見えます。教室から窓の外を見ると、近所の家の屋根が見えます。歩く人の顔まで見えます。物理的にそうなのではありません。比喩としても、そうなのです。
管理職が日々向き合うものは、何でしょうか。
教育委員会からの通達。保護者からの相談。地域行事の調整。年間計画。予算。人事。研修計画。危機管理。コンプライアンス。そして、学校の評判。視線は遠くまで届きます。届かなければなりません。校長は、学校という船を、外海から守る船長だからです。
担任が日々向き合うものは、何でしょうか。
朝、ランドセルの紐をきちんと締められない子。給食を一口も食べない子。算数の繰り上がりでつまずいた子。昨日は仲がよかったのに、今日は口をきかない二人。連絡帳に書かれた、保護者の小さな不安。視線は手元に届きます。届かなければなりません。担任は、子どもの隣に立つ、最後のとりでだからです。
どちらが上ということはありません。どちらが偉いということもありません。
ただ、見えているものが、違うのです。ここに溝が生まれます。
「黙る教諭」を作っているのは、誰か
職員会議で発言の少ない若手を見て、「最近の若い人は受け身だ」と嘆く管理職がいます。
私もかつて、そう嘆いた一人でした。しかし、ある若手の先生に正直に問うたとき、こう返ってきました。
「言っても変わらないし、言ったら『じゃあ、あなたがやってください』と言われる。だから、言わないのです」
胸を、突かれました。組織心理学に、こういう言葉があります。
「心理的安全性」。Google の大規模研究プロジェクト「アリストテレス計画」でも、高業績チームの最大の共通因子として浮かび上がった概念です。失敗や反対意見を口にしても、罰せられない、嘲笑されない、見捨てられない――そう思える状態のことです。
学校の職員室は、果たしてこの状態にあるでしょうか。多くの職員室は、まだそこに至っていないと思います。「言ったら自分の仕事が増える」「反対したら次の異動で不利になる」「若いのに生意気だと思われる」、そう感じている先生たちが、確かに、いるのです。
「黙る教諭」を作っているのは、本人の性格ではありません。
組織の温度です。そして、その温度を最も大きく左右するのは、管理職の振る舞いです。私は、それに気づくのに、ずいぶん時間がかかりました。
「一緒に考えよう」の、たった7文字
最初の場面に戻りましょう。
朝の電話のあと、もし時間を巻き戻せるなら、私は、まず受話器を自分で取りたいと思います。
保護者の声を、校長として直接、聞きます。
「お電話ありがとうございます。校長の田畑です。お子さんのこと、どうぞ、ゆっくり聞かせてください」
一通り聞き終えたあと、教頭と相談します。学級の様子を、教頭が、そっと見に行きます。そのうえで、担任に声をかけます。
「一緒に考えよう」。
たった、7文字。
「その子のこと、最近どう感じていたの?」
「お母さんは、いま、どんな気持ちだと思う?」
「まず、何をしてあげたら、その子は安心できるかな?」
この3つを、急がず、ゆっくり聞きます。
