石井英真准教授⑶|ビッグアイディアで内容の重点化、構造化を図り、深い学びを実現 【教育キーパーソンにインタビュー! 令和の教育課程「その課題と未来」#09】

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教育キーパーソンにインタビュー! 令和の教育課程「その課題と未来」
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石井京都大学准教授
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前回は、京都大学の石井英真准教授にカリキュラムやカリキュラム・マネジメントといったことを中心に話を伺いました。今回は、カリキュラム・オーバーロードという視点から、教科書や単元づくり・授業づくりの課題などについて伺います。

「単元や題材など内容や時間のまとまり」を意識することを再確認

有識者会議では、カリキュラム・オーバーロードやワーク・オーバーロードについても議論がなされましたが、現行の学習指導要領で問題だったのは、「どのように学ぶか」と「何ができるようになるか」の2つが先行したために、「何を学ぶか」に十分にメスを入れきれなかったことです。

現行への改訂時には、2000年代初頭の内容削減による学力低下論争のこともあり、また、安易に削減することには慎重であるべきでもあり、重点化、構造化をすることが必要でした。学び深め、見方・考え方を働かせることが大事なのであれば、各教科の本質を踏まえた上で、各教科では何を大事にするのかという内容論レベルでの重点化・構造化の議論がなされるべきだったのですが、それが十分にはなされませんでした。

有識者会議の中で「教科書が厚くなった」という話も出ましたが、実は内容と教材レベル、つまり教科の中身のレベルに関してはほとんど変わっていません(資料1参照)。「〇〇な学び」について教科書会社が実装した分が分厚くなっていることが大きいのです。そのように新しい内容の提案がないことが授業づくりをこぢんまりさせてしまっているし、先生方の学びも方法面ばかりに向かわせているように思います。

【資料1】標準授業時数と教科書ページ数の変遷

資料1
教科書のページ数は増えているというが、その増加分は…(文部科学省作成資料より抜粋)。

さらに、日本では1時間の授業の中にすべて落とし込もうとする指向性が強いことも課題です。それは戦前から、「何のために何を教えるのか」というカリキュラム・レベルが国に近いところによって、ほぼ決められてきた歴史によるところがあります。戦後間もない新教育のときに初めて、「何のために何を教えるのか」ということが現場サイドで議論できたわけですが、その後、学習指導要領の法的拘束力の問題もあり、カリキュラム・レベルのところがある程度固められてきました。

ただし、授業の方法面のところは自分たちの専門性を発揮できるので、民間団体も含め、授業研究が展開されてきたわけです。その頃は、まだ教材論も含めた提案をしてきていたのですが、前回お話ししたような経緯があって現場も萎縮し、授業論が表層的な教育技術や学習形態といったところへ貶められてしまいました。そうすると、1時間の授業でどうこなしていくかという話になり、新しい教材の提案もすることが減ってきて教科書をなぞる感じになります。その状況に適応する形で教科書会社も「この教科書通りにやったらある程度授業が流せます」というような、教科書の指導書化を進めてきました。

本当は教材やそれとの出合わせ方をしっかり工夫すれば、自ずと子供たちの思考が喚起されて授業が流れ始め、自然と先生の手を離れていくものです。そこから「主体的・対話的で深い学び」というのは自ずと生まれてくるものですが、教材論や内容論が弱くなったため、無理やり示されたプロセスを辿らなければならないという要求が強まり、授業が硬直化してしまっているように思います。それを1時間でやろうとすればなおさらです。

ですから、日本におけるカリキュラム・オーバーロード問題は、文字通りの内容の過積載ということよりも、現場の負担感の増大ということが大きいと思います。実際に学習指導要領自体は、一般に思われているほど多いものではないかもしれません(解説は分厚いけれども、法的拘束力はありません)。しかし、現場は教科書を見るから「分厚くなったな」と感じるわけですが、それは先のような「〇〇な学び」に関する部分が多く、内容それ自体が多いとは限らないのです。

しかし「〇〇な学び」を1時間主義で、すべて落とし込んでやろうとするから大変になる、というのが、カリキュラム・オーバーロード(というよりも負担感増大)の主たる要因だと思います。ですからこの機会に改めて、学習指導要領に示されている「単元や題材など内容や時間のまとまり」を意識することを再確認することが大事です。

大くくりな、メタなコンセプトをベースにして考えていく

そのときに、単元を構想するためのビッグアイディア(中核的な概念や方略)を中心にして、各教科の内容を重点化、構造化していくことが不可欠です。「主体的・対話的で深い学び」はひと言で言い換えれば、「問いと答えの間が長い学びをしていきましょう」ということだと思います。正解主義の浅い学びではなく、内容を重点化して時間をかけて深く学ぶことが重要です。

less is more という言葉がありますが、それは「少ないことが良い」という意味ではなく、「(重点的なことを)少なく深く学ぶことによって、結果としてたくさん学べる」ということです。例えば、卒業論文を書くときには、1つのことを突き詰めて深く学ぶことで、結果的に多くのことを学ぶことになります。このように、深さを追究することで広さも一定担保できるということが、less is more なのです。

例えば明治維新について学ぶときに、起こった具体的な事実を多数なぞっても明治維新とは何か分かりません。知識は関連付けないと深く学べないのです。そこで、明治維新とは何かと言えば、日本の近代化なわけですから、「近代化とはどういうことか?」と考えるのです。そうすると、政治制度における封建制から議会制民主主義への変化が起こっているし、同様のことはヨーロッパでも起こっていることが分かります。そこで「ああ、政治の近代化は日本でもヨーロッパでも同じなんだ」と理解する。それが概念形成です。

さらに「近代化とは何か?」と深めていく中で、政治だけでなく産業でも変化が起こっているし、そう考えていくと「文化はどうなのだろうか?」と問いが展開していきます。そのように多様なことが関連付けられながら概念形成され、結果として多くのことを学ぶことができるわけです。このようにして、学校として責任をもって投げかける内容や問いを厳選することが大事です。ただし、その結果として学習者が学んだ学習内容量を一定程度担保し、かつ重点化した内容による学びの深さを担保することで、「思考力・判断力・表現力等」の育成につなげていくのです(資料2参照)。

【資料2】「本質的な問い」による単元の構造化のイメージ

資料2
「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会」における、石井准教授発表資料より抜粋。

このように「ビッグアイディアによって、内容の重点化、構造化を図り、深い学びを実現する」ことが非常に重要なのですが、ビッグアイディアというと「何かまた新しいことを…」と思う先生もおられるかもしれません。しかし、ビッグアイディアという言葉を使わなくても、実は理科や社会科など日本の教科学習はもともと概念ベースに近いのです。

理科ならば、粒子とかエネルギーとか、大きな概念によってカリキュラムが構成されています。社会科に関しても、先にお話しした「近代化とは何か」とか「民主主義とは何か」というような大きな問いを基に議論し、探究的に学んでいくことの蓄積はあるわけです。数学なら、関数的な見方というのはビッグアイディアの一種です。実は体育は概念ベースで、ゴール型という大きなコンセプトだけがあります。

国語も概念、あるいは方略ベース(ビッグアイディア・ベース)に近く、「話すこと・聞くこと」「読むこと」「書くこと」で整理されており、例えば「読むこと」で文学作品を読むとすれば、読む作品は「ごんぎつね」でも「やまなし」でも、ねらいに即したものであれば何でもよいのです。メタな概念で考えていくことによって、個別の素材は入れ換え可能にすることができます。そのような発想は先に説明した体育では割となじみ深いものでしょうし、家庭科だってできるでしょう。そのように、概念ベースは学びを深めるだけでなく、先生の裁量も広げていくのです。

ですから、ビッグアイディアとか概念ベースというと、目新しく感じられるかもしれません。しかし「大くくりな、メタなコンセプトをベースにして考えていきましょう」と捉えてもらえば、もともとやってきたこととのつながりも見えてくるでしょう。先生の裁量を広げるには、ビッグアイディアが効果的だし、かつそれは「深さ志向」につながりえます。もちろん、教科の特性がありますので、各教科で実際に実装して「深さ志向」の学びになっていくような、象徴的な学びの事例が出てくればよいのではないかと思います。

執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之

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