「教育勅語」再考、再読のすすめ(中) ー「教育勅語」批判への反批判ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第43回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第43回は、【「教育勅語」再考、再読のすすめ(中) ー「教育勅語」批判への反批判ー】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。
目次
4 閣僚の「教育勅語」の「再評価」
ある地方新聞が「教育勅語」に関する解説記事を掲載した。「相次ぐ閣僚の再評価発言」というテーマで、当時の次のような要人の発言を紹介している。
①文部科学大臣 下村博文氏
「内容は至極まっとうだ。その後の使い方が問題だった。」
(2014年4月)
②内閣官房長官 菅義偉氏
「憲法や教育基本法に反しないような形での教材使用は否定しない。」
(2017年3月)
③文部科学大臣 松野博一氏
「適切な配慮の下で授業に活用することは問題ない。教師の考え方の問題。」
(2017年3月)
④防衛大臣 稲田朋美氏
「全くの誤りというのは違う。日本が道義国家を目指すべきだという精神は変わらない。」
(2017年3月)
⑤文部科学大臣 柴山昌彦氏
「現代風にアレンジした形で道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている。」
(2018年10月)
これらの要人の発言は、いずれも至極真っ当、格別の異議はない、というのが私の受けとめ方である。「教育勅語」に関する発言なので文部科学大臣が多くなったのは自然であり、当然である。
但(ただ)し、前回にも触れたことだが、昭和23年6月に、衆参両院ともにそれぞれ「教育勅語」の排除、失効を決議しているので、法律的にはその「決議」そのものの撤回、あるいは失効の手続き、あるいは再決議が必要になるのかもしれない。目下のところ、そういう発言は誰からもなされていないようである。また、それは「法律論」であって「教育論」とは別である。今回の某地方新聞の解説は、「教育論」としての扱いである。私も「教育論」として以下を述べていきたい。
それぞれの要人の実際の答弁はもっと長い筈であり、ここに紹介したのは、執筆した解説者の要約、ないしはキーフレーズであることも付記しておこう。
さて、読者諸賢は、これら要人の答弁、発言をどのように受けとめられるであろうか。むろんその前提として「教育勅語」の原文、本文を十分に読んでおかなければ話にならないが……。
5 解説者による「解説」の一端
1「解説」のリードの文末
「──現行憲法の下でも道徳を学ぶ環境は確実に整いつつあります。にもかかわらず、教育勅語をわざわざ持ち出し、さらに道徳を説こうとする意欲の強さが気がかりです。」
このリードの文意は、「(現在でも)道徳を学ぶ環境は確実に整いつつある」のに、「教育勅語をわざわざ持ち出し」、「さらに道徳を説こうとする意欲の強さ」が、「気がかりです。」ということになろう。
解説者は、「道徳を学ぶ環境は確実に整いつつある」と把握しているらしいが、もしそうなら、何も「特別の教科」にしたり、教科書を作ったりする必要はないだろう。「今のままではいけない」という危機感が「さらに道徳を説こうとする意欲の強さ」として表れたと私は見る。解説者は、その「意欲の強さが気がかり」だと言うのだ。そして、その「気がかり」の内容を解説していくという構成をとっている。
私は、解説者の解説のあり方の方がよっぽど「気がかり」なのである。だが、読者の皆さんはフリーな立場で御批判戴きたい。
2 主権在君から主権在民へ、論
解説者は、「主権在君から主権在民に生まれ変わった現行憲法と、教育勅語が根本からなじまないのは当たり前なのです。」と書いている。そうだろうか。
現行憲法は確かに「主権在民」を第1条で明記した。だが、そのことによって、そのとたんに「教育勅語」が「根本から」現行憲法とは「なじまなく」なるのだろうか。「なじまないのは当たり前なのです。」と言えるのだろうか。違う。「憲法」は法律である。「教育勅語」は法律ではない。「教育勅語」は、天皇の名において日本の教育の根本的なあり方を説いた「教育論」である。「なじまない」というのは解説者の個人的考えに過ぎぬ。「当たり前」ではない。
だからこそ、要人や識者は、「教育勅語」に示されている大切な、そして不変の、まさに、「普遍的価値」は受け継いでいこう、全否定すべきではない、と言うのである。現行憲法下でも十分に「なじむ」内容までも全否定すべきではないと言うのだ。この考え方の方がよっぽど「当たり前」だ。
3 天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
これは「教育勅語」の中の文言だが、解説者は「(永遠に続く天皇家の運命を助けなければならない)」と口訳している。扶翼は「かばい助ける」ことだが、「皇運」は「天皇家の運命」のみを意味するものではない。明治憲法下における「皇運」はそのまま「国運」を意味した。「臣民」は「明治憲法の下で、日本の人民。天皇、皇公族以外の者」つまり「国民」と同義なのだ。「皇民」という言い方もしたが、当時にあっては現代の国民と全く同義である。
私ならば「天地が果てなく広がり続くように、我らが日本国の運命を挙って庇い、助け合っていこう」と訳したい。
ある言葉がその時代の中でどのような意味を持っていたかを考えずに、今の感覚で文字面だけから表層的な判断をする軽挙は慎まねばなるまい。
「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」の文言を解説者は「お前たち臣民は…」と口訳している。
「万世一系」「神聖ニシテ侵スベカラザル」天皇のお言葉を、「お前たち」などという低俗な口訳で「解説」するセンスの方が私にはよっぽど「気がかり」になる。
「あくまで皇室の繁栄を目的に、(十二徳を)身につける必要があるということなのです。」という「解説」に至っては、かなりの見当違いという外はない。
4「教育勅語」の本質を横に置いて?
解説者は、「教育勅語」の本質を「あくまでも皇室の繁栄を目的に、(十二徳を)身につける」ことと把握しているようだが、これもまた大きな見当外れである。
「教育勅語」の本質は、稲田朋美氏の発言にある「日本が道義国家を目指すべきだという精神」の共有にある。
因(ちな)みに、皇室の本質は、「一貫して、国民と苦楽を共にしようとする精神の継承」ととらえるのが最も妥当なところではなかろうか。この皇室の精神は、「君臣一体」「君民一如」「大御民」「大御心」などの言葉にもよく表れている。
解説者の言に戻ろう。解説記事の3段抜きのタイトルは次のようにある。
「徳目」の普遍性強調 本質は無視
このタイトルに直接関係する記事中の文言を引こう。
そうであれば、教育勅語の本質を横に置いたまま、徳目部分だけを評価することに無理がないでしょうか。
ここにある「そうであれば」というのは、「あくまで皇室の繁栄を目的に、身につける必要があるということ」を指している。次の「教育勅語の本質」も同フレーズを指している。この辺りの文脈は解説者の一人合点であり、誤認、誤解としか言いようがない。その前提に立って「徳目部分だけを評価することに無理がないでしょうか。」と問いかけているのだが、前提が誤認に基づく以上「無理がある」という結論は崩れざるを得まい。
5「歴史の負の遺産」か
次の二つの記事本文を最後に引用は止め、まとめを書きたい。
㋐教育勅語に代わる教育基本法が成立した翌年の1948年、衆議院は教育勅語の排除を決議、参議院は失効を決議します。ともに全会一致でした。衆議院決議では『その指導原理的性格を認めないことを宣言する』ともうたうなど、教育勅語はきっぱり否定されたのです。
㋑繰り返される教育勅語の容認発言は、こうした動きとつながっているように見えます。教育勅語は『歴史の負の遺産』です。
㋐に「ともに全会一致でした。」とあるがこれが「敗戦」という悲劇の実相の一端である。「反対」することは絶対にできない「占領下」での決議なのである。この状況については前回の稿に述べている。
㋑の「歴史の負の遺産」という断定は妥当なのだろうか、とのみ書いておきたい。
6 之ヲ古今ニ通シテ謬ラス
やや長い引用とコメントになったが、ここに引用した内容が、今の世論の大方の傾向だと私は考えている。「大方の傾向」には合わせておいた方が楽なのだ。大方の傾向に合わせていくのが大衆である。
「大衆化」という言葉がある。
一般民衆に広まり、親しまれるものとなること。また、そのようなものにすること。(『広辞苑』)
とある。「売る」「売れる」ようにするには「大衆化」しなければならない。大衆化すれば広まり、親しまれ、よく売れる。それはそれとして必ずしも悪とは言えない。
しかし、教育や政治、学問や科学の世界では迎合主義は禁物だ。正邪、正誤の峻別がその生命、本質であるからだ。
「衆愚政治」という言葉もある。
多数の愚民による政治の意で、民主政治の蔑称。もと、古代ギリシア、アテナイの民主政治の堕落形態を指した。」(『広辞苑』)
とある。そうなってはならない。
政府の要人ともなれば、自国の命運を担う、あるいは左右する重責を持つ立場にある。ポピュリズムは禁忌である。何が本当に大切か。何がいけないのか。国家百年の大計を熟考し、その指針を示さねばならない。それを示したのが「教育勅語」なのだ。
やや長い引用に示したような解釈が大方の傾向かもしれないが、果たしてどれほどの人が原典「教育勅語」の本文を読んでいるだろうか。熟読しているだろうか。「歴史の負の遺産」と断ずる解説者は「教育勅語」にこめられた思いや成立に至る吟味の綿密さなどの事情を御存知なのだろうか。「教育勅語」の結びの言葉と拙訳を紹介する。
斯(コ)ノ道ハ實(ジツ)ニ我カ皇祖皇宗(コウソウ)ノ遺訓(イクン)ニシテ子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬(アヤマ)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖(モト)ラス朕爾(チンナンジ)臣民ト倶ニ拳々(ケンケン)服膺(フクヨウ)シテ咸其(ミナソノ)德ヲ一(イツ)ニセンコトヲ庶幾(コイネガ)フ
〈拙訳〉このような考え方、生き方は代々の皇室が長く守り、伝え実践してきた教えである。同時にそれは子々孫々国民全てが共に固く守り合っていくべきことだ。この教えは、昔も、今も、これからもずっと守っていって間違いのないことであり、また、日本だけでなく、世界のどの国に示しても胸を張れる正しい考え方なのだ。天皇は、国民の皆さんと共に、この遺訓を心から大切に守り、胸の底深く刻みたい。そして、国民の全てが心を一つにして幸せになるようにと心から願っている。
(次回に続く)
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2020年11月号より