指導の型で見失う「子どもありき」の視点とは

学級経営・特別活動を長年、研究・実践してきた稲垣孝章先生が、教育現場で見て気になったことについて、ズバリと切り込みます。
文・稲垣孝章(元・埼玉県公立小学校校長)

目次
金太郎飴的な指導方法の気味悪さ
ある中学生の保護者が次のような話をしてくれました。
「中学校一年生の文集を見たところ、ある小学校から来た子どもたちの作文が、どれも全く同じ論旨の展開で、そっくりな論調でした。書き出しから体験までの叙述もそっくりで、『私はこの体験で三つのことを学びました』という三つという数までも同じで気味が悪くなりました。
この学校でどういう指導を受けていたのか、気になりました」という話です。
他にも、ある学級の絵画が人物像の描き方、構図アングル、色使いまで印刷したように同じで気になったという話もあります。
基礎基本の定着を図るという意味では、大切な指導かもしれませんが、どこを切っても金太郎飴のような指導方法に疑問を抱く人は少なくありません。型から入り、型から抜けなければ、子どもたちの個性を伸長する教育とはなり得ないのだと思います。
タイマーで時間管理する授業への疑問
ある教室で、教師がキッチンタイマーを黒板にセットして、進度を分単位で区切って授業を進めている光景がありました。
ある学習をしていても、タイマーがピピッと鳴ったら次の内容に移ります。半分程度の子どもが理解していないようでも、ピピッと鳴ったら次に進みます。このような光景を見た時、保護者はどのように感じるのでしょうか。
「教材ありき、指導方法ありき、授業の進度ありき」等、要はすべてが教師側の論理なのだと思います。
悲しいかな、そこには最も大切な『子どもありき』の視点が見失われているのだと思います。様々な手法に惑わされることなく、まず原点である子どもの実態から授業を構想していきたいものです。