常に「子どもが主語」の特別支援を行うために
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- 大切なあなたへ花束を
特別支援を必要とする子どもたちに、然るべき配慮をすることは当たり前のことです。しかし、やり方を誤れば、子どもを隔離することになり、子どもたちの分断を招きかねません。これは本当に子どもたちのための支援なのか。それとも、「お為ごかし」なのか…。支援の「主語」を見極めなければならないと、宮岡先生は語ります。木村泰子先生に師事し、現在は「みんなの学校マイスター」として講演活動や各校の支援で大活躍中です。
【連載】大切なあなたへ花束を #09
執筆/みんなの学校マイスター・宮岡愛子
クラスの一員であるということ
ある小学校のエピソードです。新1年生の入学式が終わり、はじめての保護者会が開かれます。
そこに新1年生とその保護者が集まりました。
前に立ったのは、その学校の特別支援のコーディネーターです。
コーディネーターの先生は、こんな話をしました。
「今日入学したお友達の中には、いろいろな個性があるお友達がいます。〇〇さんは、必要があれば、違う教室で学ぶこともあるけれども、その子たちも、みんな1年1組の一員です」
1年生も、保護者の皆さんも、じっと聞いていました。
そして、授業が始まり、みんなと同じように教室で学んでいる最中のことです。
教室で退屈すると、立ち歩きだす子がいます。
その姿を横目で見ながらも、誰も何も言いません。先生も、子どもたちも。
無視しているのでしょうか? いえいえ、そうではありません。
みんな、その子が立ち歩きを始め、少し時間がたって落ち着いてきたかな? となる頃合いを見計らっていたのです。ある友だちが声をかけます。
「すわろか?」
すると、その子は座り、またちょっと落ち着くのです。
そんなふうに、クラスの全員が、その子と一緒にいることや、時には気をかける必要があることを当たり前のように受け止めていました。
だから、その子はときどき特別支援学級の教室で学ぶこともあったのですが、
「ちょっと行ってくるわ」
「おはようおかえり」
というように、その子は一時的に中座しているだけで、またすぐこのクラスに戻ってくる、クラスの一員であると、みんなが思っていました。
その子は、運動会では、もちろんまっすぐ走ることはできませんでした。
コースを離れて、いろいろなところに走っていきました。
運動会では多くの保護者や地域の方が見に来ています。子どもや先生たちばかりでなく、多くの人たちが、その姿を見守っていました。
やがて高学年になり、成長したその子は、徒競走でコースの上をまっすぐ走ることができるようになりました。
順位なんか関係ありません。同じクラス、同じ学年の子どもはもちろん、保護者のみなさんも地域のみなさんも、拍手喝采でその子のゴールを祝福したことはいうまでもありません。
そして、みんなと一緒に卒業していきました。
子どもたちを分断してしまうことは支援ですか?
別の小学校でのことです。前出の子のように特性があり、特別支援学級で学ぶ子どもがいました。
やはり、ある時間になると、「いってきます」とみんなに話して、特別支援学級に行くのです。
周りの子どもたちは「いってらっしゃい」と応えます。
さあ、授業が始まりました。途中でペアで話し合おうか、グループで伝え合おうかとなったとき、ふっと気づくと、隣の席の人がいないのです。困った先生は、そしたら、同じように一人になっている子どもに座席を移動しましょうと伝えました。授業の終わり、特別支援学級で学んでいた子どもが教室へ戻ってきました。
「ただいま」
しかし、授業は続いています。「おかえり」の声はありませんでした。
そればかりではなく、自分の席に違う友達が座って学んでいるのを目の当たりにしました。
「自分が戻ってきても座るところがないやん」
…そんなことが積み重なって、その子は、いわゆる通常の学級に戻ることがしんどくなっていきました。
またある子は、通常の学級にいたらトラブルをおこすことがたびたびありました。
その子の先生は、その子を守り、周りの子どもとのトラブルを避けさせたい気持ちが強かったのだろうと思います。特別支援学級に入ることをすすめました。
そして、みんなのいる教室から分離され、それが当たり前となって、通常の教室に戻ることができなくなっていきました。
この分離された子どもたちは、
「特別支援学級のほうが楽しいねん。教室にはあんまりおりたくないねん」
と私にこっそり話してくれました。
通常学級の教室では、友だちとのつながりが少なくなっているのを感じていたのです。
通常学級の子どもたちも、特性のある友だちのことが気にならなくなっているようでした。
本当なら特別支援学級から戻ってきている時間なのに、
「○○さん、もどってないな。なんでかな。迎えにいこうかな」
「まだかな。早く帰ってきたらいいのに」
というような言葉はまったく出なくなりました。
そんな教室で過ごしたらどうなるでしょう? ここは自分の居場所ではない、と感じ取るのではないでしょうか。だから、いっそう落ち着かずに立ち歩いてしまうのです。
それを見た周りの子どもたちは、「迷惑やな」と口には出しませんが、明らかに否定的な雰囲気を漂わせます。
「自分たちと同じようにできなければ、どこかへ行ってほしい」という空気が伝わってくるのです。
そして、何か問題があると、その子のせいにするようにもなっていきました。
配慮を要する子どもを違う教室へ追いやると、教室には黙って話を聞く子どもだけになり、先生にとってほっとする学級になるかもしれません。
しかし、子どもたちの間につながりができないまま、進級していったらどうなるでしょうか。
そんな、孤立するだけの場所に行きたいと思うでしょうか?
合理的配慮は、様々な特性を持つ人たちが共生していくうえで、絶対に必要なことです。
しかし、学校において、その「合理的配慮」は、特に主語が教師である場合には、「違いがあったら排除する」ということになってしまう恐れがあることを、私たちは肝に銘じておく必要があります。
未来の共生社会を作るために
これからの時代は、多様性を認め合い、共生社会となっていくのは、確実です。
「みんないっしょがあたりまえ」の学校では、トラブルがあってもそれを学びに変え、世の中にはいろいろな人がいることを理解し、折り合いをつけて、行動する力を身につけていけることでしょう。
誰一人取り残さないためには、子どものころからお互いの違いを知り、いろいろな人がいるから楽しい、いろいろな人がいるのが当たり前ということを小学校から実感することが必要だと思っています。
イラスト/フジコ
宮岡愛子(みやおか・あいこ)
みんなの学校マイスター
私立の小学校教員として教職をスタートするが、後に大阪市の教員となり、38年間務める。教員時代に木村泰子氏と出会い、その後、木村氏の「みんなの学校」に学ぶ。大阪市小学校の校長としての9年間は「すべての子どもの学習権を保障する」学校づくりに取り組んだ。現在は、「みんなの学校マイスター」として活動している。