コロナ禍の今こそ、小中学校の道徳の時間に「公共」を学ぼう

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コロナ禍により、人々の生活や常識がこれまでとは一変しました。このような時代の変化を受け、学校にはどんな道徳の授業が求められるのでしょうか。文部科学省の元官僚で、道徳教科書に関する著作もある星槎大学客員教授の寺脇研氏に聞きました。

寺脇 研先生

寺脇 研(てらわき・けん) 星槎大学教育大学院客員教授。1952年福岡市生まれ。東京大学法学部卒業後、1975年文部省(現・文部科学省)入省。初等中等教育局職業教育課長、生涯学習局生涯学習振興課長、大臣官房審議官、文化庁文化部長等を歴任。2006年に退官し、現在は京都芸術大学客員教授でもある。『危ない「道徳教科書」』(宝島社)ほか著書多数。

「公共」とは何か

コロナ禍の今こそ、新型コロナウイルスを教材にして「考え、議論する道徳」を実践する絶好のチャンスだと思います。ただし、小中学校の子どもたちが、道徳の時間に学ぶべきなのは、いわゆる昔からの道徳ではなく、「公共」なのです。

2022年度より、高校では公民科の必修科目として「公共」が新設されます。高校の新しい学習指導要領には、科目「公共」の目標として、「社会的な見方・考え方を働かせ、現代の諸課題を追究したり解決したりする活動を通して、広い視野に立ち、グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の有為な形成者に必要な公民としての資質・能力を育成することを目指す」とあります。

ひとことで言えば、現代社会の諸課題の解決に向け、自己と社会の関わり方を踏まえ、社会に参画する主体として自立することや、他者と協働してよりよい社会を形成することを学ぶ、ということです。自分と社会、自分と他人について考えるという意味では、小中学校の道徳を受け継ぐ概念です。小学校や中学校の先生方にも、高校の学習指導要領や解説書の公共の項目をぜひ読んでみてほしいと思います。

小中学生に学んでほしい「公共」とは何かをわかりやすく説明するために、私が子どもに道徳の授業をするときによく使う話をご紹介します。

ここにまんじゅうが1個あります。3人の子どもがいるとしたら、どうやって食べますか。3等分して食べるという方法もあります。しかし、3人のうちの1人が昨日から何も食べていなくてお腹が空いており、残りの2人は今、ご飯を食べたばかりだったとしたら話は違ってきます。3人で話し合ったとしたら、空腹の人に全部あげよう、という話になると思うのです。

または、電車の座席が1つ空いているとします。そこへ元気そうな若者とお年寄りが乗ってきました。この場合、普通に考えたら若者は遠慮し、お年寄りが座るでしょう。しかし、一見、元気そうに見える若者が、実はその日、体調が悪くて立っているのがつらかったとしたら、どうでしょうか。それでもお年寄りに席を譲らなければいけないでしょうか。

このように、公共には絶対的な答えはありません。「君は正しいです」と先生は言えませんが、それでいいのです。

公共は時代によって変わる

しかも、公共は時代によって変化するものです。戦前は、大日本帝国憲法下の公共の教育が「修身」という名において行われていました。その後、戦後民主主義の中では、高度経済成長を背景にして、国民がみんなで頑張っていくための公共の教育が、正式な教科ではない形の道徳の中で行われてきたのです。

そして今、新型コロナウイルスの感染拡大により、人々の生活が大きく変わりました。例えば、これまでは毎日会社に行っていた多くの父親、母親が、家で仕事をするようになりました。大人たちの働き方が変われば、家族の生活も変わります。それによって公共の形も変わったことを、誰もが認識せざるを得ない状況になっています。

コロナの時代の新しい公共は、戦前の天皇を中心に据えた公共とも、戦後の公共とも異なります。ですから、教科化された道徳で、新型コロナウイルスを教材として、新しい公共について子どもたちがみんなで考えてみる必要があるのです。

新しい公共にどう対応するか

今、我々が考えなくてはいけないのは、コロナ時代の公共にどう対応するかということです。例えば、親が家でテレワークをしています。このとき、親は家族のために頑張って仕事をしているのだから、子どもは静かにしていなさい、というのが従来の道徳的な考え方です。しかし、休校中に外に出られなかった子どもたちは、家の中で遊びたかったわけです。

ある自治体では、テレワークをするための公共スペースをつくり、新たな公共をつくりだしました。家にいると気が散って仕事に集中できないので、家の近所の公共施設に出勤し、そこでテレワークをして夕方になったら家に帰ってくる、という生活を始めた人がいます。ホテルのデイユースプランを利用した人もいますし、カラオケボックスや喫茶店で仕事をした人もいました。

そんな中で子どもたちも、今の公共にどう対応するかを考え、議論する必要があります。学校再開後は、学校の中の公共が変わりました。以前は、いじめをなくすためにもコミュニケーションが大事です、スキンシップが大事です、と先生たちが言っていたにもかかわらず、今はソーシャルディスタンスを取らなくてはいけなくなりました。給食の時間に黙って食べなくてはいけなくなりました。このような変化で混乱する子どもたちも、公共を学ぶことで、そういうことだったのか、それではしょうがないな、我慢しなければいけないな、などと感じることができるはずです。

学校の中で、1年生は1年生なりに、6年生は6年生なりに議論してもいいと思いますし、あるいは異学年で、通学班のような集団で議論をしてもいいと思います。サラリーマンが多く住んでいる地域にある学校と、農家が多い地域にある学校では、全く違う公共があるはずです。

教科書に縛られなくていい

「道徳は教科になったのだから、授業では必ず教科書を使わなければいけない」と思っている先生もいるでしょう。しかし、そもそも教科書というのは全国一律で同じことを学ぶための装置です。コロナ下の新しい公共は、この装置と全く合わないものになっているのです。

ですから、道徳の教科書に縛られる必要はありません。残念ながら過去に、「教科書を一切使わない」ことを公言する教員が少なからずいたために、教科書の使用義務の話が出てきたのです。これに関しては、「一切使用しない」ことはよくないと言っているのであって、教科書に書いてあることを残らず全部教えなければいけないとは、文部科学省は一度も言ったことがありません。教科書を消化することは目的ではなく、あくまでも手段です。目的は学習指導要領に定められた内容について子どもが「考え、議論する」ことです。教科書という手段を使ってもいいのですが、それ以外の手段でもそれは可能です。目的と手段を履き違えないでほしいと思います。

項目は、結果的に後からついてくるものでもあります。「今日はこの項目を学びましょう」などと授業の最初に宣言しなくていいのです。そうではなく、その日の議論の中で、3つの項目に該当する話が出ていたのであれば、そのことを子どもたちと確認し、45分の授業の中で、その3つの項目を15分ずつ学習したとカウントすればいいのです。これがカリキュラム・マネジメントというものでしょう。

ゼロか100ではない

管理職には、子どもたちが今、学ばなくてはいけないのは、道徳ではなくて「公共」であることを認識してもらいたいと思います。今の日本ではゼロか100かの議論になりすぎているように思います。それは戦後の日本の教育が白か黒か、〇か×かをずっと問うてきたからでもあります。大人たちには、その考え方がこびりついていますから、これからも簡単には変わらないでしょう。だからせめて、子どもたちにはゼロか100かではない、その中間のどこを選ぶのがいいのかという公共への対応の仕方を学ばせてやってほしいのです。

そのことは、コロナが終息し、再びたくさんの外国人が日本に来て暮らすようになったときにきっと役立ちます。結局、外国人も新型コロナウイルスも同じことだと思うのです。差別とは、該当者を排除しようとすることですが、排除するのではなく、どうやったら両者にとってよりよい社会を形成していけるのか、その方法を議論によって探っていくことが重要なのです。

取材・文/林 孝美

『総合教育技術』2020年12月号より

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