一人一人に処方箋を書くようにして個に応じる 【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第20回】

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授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」

前回、京野真樹先生が、大学での恩師との出会いや卒論での斎藤喜博、武田常夫両氏について研究したことを通して、教師を志すに至った過程を紹介しました。今回は、実際に教員になった後の現場での苦労と、2人の校長先生との出会いを通して学んだことについて紹介していきます。

京野真樹副校長

「あんな先生、他に見たことなかった」

実際に教員になって現場に出てみると、まず学級づくりでとても苦労をしました。初任時の担任は5年生でした。学級崩壊するというほどではないにせよ、どこへ向かって何をやっているのか分からないようなまとまらない状態で、同僚の先生方からはとても心配されていました。当時の石井憲輔校長は、県の国語研究会で副会長をなさっておられる、地元では有名な先生だったのですが、その石井先生ですら、採用からしばらく経った後に、「あなたは最初、どうなることかと心配していました」と言われたほどです。

私は大学での研究を通して、「武田常夫先生のような国語の授業をできるようになりたい」という思いだけで教員になりました。学級経営という言葉すら知りませんでした。教材研究だけきちんとやっていれば、子供たちは理想の学びをしてくれるものだと思っていたのです。学びに向かうための学級経営がしっかりできていないと授業が成立しないということを、先輩方からはよく言われました。

ただ、この考えは後々、ガラッと変わります。今は「授業がちゃんとしていないと、いい学級になりませんよ」と若い先生方に話しています。当時の私の授業は、教材研究オタクが学校の先生になって独りよがりな授業をするとこういうことになるという典型でした。授業を大事にするという点では間違っていなかったと思いますが、今から考えれば、学びの主体である子供へのきめ細かなまなざしが不十分だったのだと考えています。

その当時、私の周りの先生は、子供たちと良い人間関係をつくって、良いクラスをつくって、子供たちが幸せな学校生活を送れるようにするというようなイメージで、日々の教育活動の充実を図っていた方々が大半でした。私のように「こんな授業がしたい」「こんな授業で子供たちの可能性を広げたい」と、授業を突き詰めて考える人は、どちらかというと少数派でした。そのため、当時の校長先生は心配しつつもおもしろがってくださり、「あなたみたいに能書きばかりのおもしろいやつは久しぶりに見た」と言って大笑いし、温かく見守りながら本当に好き放題やらせてくださいました。そして、「あなたのやりたい、武田常夫先生みたいな国語の授業を、目の前の子供たちの実態に合わせてやるなら、こんなふうにしたらいいんじゃないか?」と、ヒントをたくさんくださいました。

学級づくりの土台がないまま、「良い授業をしよう」という思いばかりで、シャカリキになっている初任時代でしたが、だんだん子供たちもそういう私の個性を理解してくれて、授業に乗ってくるようになりました。学級らしくなってきたなと感じるようになったのは、採用されて4~5年経った頃です。特に、学級経営を勉強して何かを工夫したわけではなかったのですが、どの子に対しても先入観なくフラットに接していたことが、学級をつくる上で効果的だったのだと思います。当時、私は自分の言うことを聞くいい子よりも、ちょくちょく問題を起す、個性的な子が好きだったのです。優等生ばかりほめない変わった先生だけど、なんだかいいな、と思ってもらえたのだと思います。学校の近くのアパートで初めての一人暮らしを満喫し、休日もいたずらばかりするヤンチャなクラスの子供たちと一緒に、ガキ大将のように遊ぶ生活をしていました。

その当時の私の周囲の教員は(そして今も多くの教員は)自分の言うことをよく聞く優秀な子を大事にし、その子をモデルにして、他の子もそこへ引き上げていこうとする傾向がありました。それは、決して間違いではないのですが、そればかりしていると、自分にとって都合の良い子ばかりを大事にしているように見える場合もあります。

それに対して、私は電気プラグに金具を突っ込んで学校中を停電させるような子をおもしろがって、休み時間に一緒に遊びました。授業中もそういう子たちの発言をないがしろにせず、「なるほど、おもしろいな」と思いながら聞きました。いわゆる学力上位の子供が、そのような子供たちの発言にハッとさせられるという真実が潜んでいることが多かったのです。当時担任した子供たちと同窓会やSNSなどで話をすると、「あんな先生、他に見たことなかった」とよく言われます。どうやら、当時も「うちの先生、変わっているよ」と、保護者や他の先生方に吹聴していたそうです。それくらい、それまで大事にされたことのない子や、はみ出している子のほうに軸足を置いていたのです。それは現在でもずっと変わらない私の授業づくりと学級経営の基本的な姿勢になっているように感じています。

当時の私は言うならば、「全ての子供をひいきしよう」と考えていたのだと思います。子供は一人一人個性が違うので、その子のペースでその子のやりたいことを、その子なりの方法で解決していくのだということに全力を注ぐ、良きアドバイザーを目指していました。多くの場合、ヤンチャな子や規制の枠組みからはみ出した子の学びは、なかなか他の子と同じようには日の目を見ません。ですから、あえてそのような意外性のある考え方を軸にして、授業を展開することを感覚的にやっていました。今でも、その考え方はずっと変わっていません。

常日頃、自分の学校の先生方には、「一人一人に違った処方箋を書けるような先生になってほしい」と話しています。一人一人個性の違う子供に合った処方箋を書いて、どうやって周囲の人と関わりながら、一人で生きていけるようにするかということを、本気で考えてほしいということです。

一人一人に処方箋を書くようにして個に応じることの重要性を思い知るきっかけは、やはり新任時の石井憲輔校長の、あるいじめへの対応から学んだことでした。学級経営という考え方すらもち合わせていなかった新任の頃の私は、当時のクラス内にあったいじめも、どのように解決したらよいか分からず、手をこまねいていました。ある日、石井先生が、「いじめられている子はこういう子だから、こう言ったほうがいい。いじめているこの子たちはこういう考え方の子だから、こんなふうに話したほうがいい」とアドバイスしてくださいました。驚いたことに、石井先生のご助言は、両者に対してまったく真逆の内容でした。私は、「えっ、そんな真逆のことを別々に言っても大丈夫なんですか?」と問い返しました。すると、石井先生はにっこり笑って、「そうしないと解決しないよ」とおっしゃいました。半信半疑で言われた通りにそれぞれの子供たちに接したのですが、ものの数週間で見事に解決したのには驚きました。この経験をするまで、担任というものは、どの子に対しても同じ指導をするものだと思っていました。子供の個性や状況に合わせてそれぞれに異なる助言をする(個別の処方箋を書く)ことで、クラスという多様な個性が集まる場所を機能させる方法があるということを、そのとき初めて知りました。

まだ若手教師だった頃の京野先生。2年生を対象に国語の授業を行っている。

子供の考え方の本質を理解することが大切

教員になって8年目で、現在、勤務している附属小学校に教員として異動になりました。11年間の在籍期間でしたが、その間に学んだことは、子供たちの言動の背景や要因を深く掘り起こして、その子の考え方の本質を理解することの大切さでした。

当時の附属小学校の副校長は、濱田純先生という方でした。後に、秋田県の教育次長になられた方です。濱田先生は、現役教員だった時代に、生活科や理科の実践で全国に名の知られた先生でしたが、実は、「教授学研究の会」のメンバーであり、斎藤喜博先生に直接学んだ方でもありました。47歳という異例の若さで附属小の副校長になられ、7年間という異例の長い期間、副校長を務められました。その間、濱田先生からは、子供が何気なく起こした行動や何気なくつぶやいた言葉の背景を深く探ることの大切さや、子供の心の奥底に眠っているものを引き出す手立てについて、たくさんのことを学ばせていただきました。

濱田先生が副校長としてなさった最初の重要なお仕事の一つが、斎藤喜博先生のもとで学び、各教科の指導で頭角を表した群馬県の先生方を7~8名、附属小に招聘されたことでした。当時の附属小には、30代前半の若い教員がたくさんいて活気にあふれてはいましたが、附属の伝統とも言える優れた教育課程を受け継ぐほどに成熟していたとは言えませんでした。そこで、当時すでにご退職され、「教授学研究の会」で講師をされるなど、後進の育成に力を注がれていた斎藤喜博門下の先生方を、我々附属教員のメンターとして付けてくださったのです。多い方で、7年間、隔月で群馬と秋田を往復され、一度いらっしゃると1週間、全ての学年にご指導に入られました。

残念ながら大学時代に卒業論文の研究対象となった武田常夫先生はご逝去された後でしたし、国語の先生はいらっしゃらなかったのですが、そのことを武田先生とご同僚だった先生方にお伝えすると、誰もが「あなたは武田さんの研究をしたんだって?」と声をかけてくださいました。自分の研究について概要をお話しすると、「武田さんのこのときの授業はこうだったよ」とか、「武田さんの学級経営はこうだったよ」とか、「武田さんにこんな助言をもらったことがあるよ」とか、いろいろと武田先生のことを教えてくださいました。そして、「私は専門が違うし、武田さんほどではないけどね」と謙遜されながら、私がやっている国語の授業にも関わり、武田先生から学んだことを実践して見せてくださいました。

その先生方が授業に手を入れてくださると、「うちの学級の子供ってこんなことを考えて、こんなふうに話すことができたんだ」と担任の自分が驚くくらい、深い言葉や考えが引き出されました。秋田のことも子供たちのことも、私よりも知らない先生方が、軽々とそうした事実を見せてくださることに、激しい衝撃を受けました。そして、30代になって、それなりに授業ができるようになってきたと思っていた私が、「まだまだ勉強しなければいけない」と改めて思うようになりました。それとともに、大学時代に大内先生に導かれて出会った武田常夫先生とのご縁がそれから10年以上を経てつながっていることに、不思議な縁を感じずにはいられませんでした。「追い求めていれば、いつか道は一つになる」そんなことも感じるようになりました。

斎藤喜博門下の先生方からは、このような直接的な刺激を受けただけでなく、そのメンターのもとで力を付けた附属小の同僚からも、間接的に刺激を受けることも多々ありました。私とは専門の異なる音楽・算数・図工・体育などたくさんの教科で、着実に実践を積み重ねていく同僚の姿を見て、さらにがんばろうという気持ちになっていきました。

もちろん、副校長の濱田先生からは、直接、学ばせていただくこともたくさんありました。数えきれないくらいお酒をご馳走になりながらお話を伺ってきましたが、そのたびに「彼のあの授業はああだった」とか「あの子供の発言をどう捉えるか」といった話を通して、自分の底の浅い見方を更新してくださいました。そうした自他の授業のリフレクション(省察)を通して、知らず知らずのうちに、授業の見方、そして何よりも子供の言動の背景にあるものや、それらの見とり方、引き出し方について、今につながる確かさや深さ、鋭さを身に付けていくことができました。

大学時代の大内善一先生、初任校の頃の石井憲輔校長、そして、附属小の副校長だった濱田純先生から、学級経営や授業づくりの手立てを通して、子供をどう見とり、可能性を引き出すかについて学んでいきました。このような出会いのおかげで、教員になってからの17~8年間で、今の私の教育に対する考え方の基盤が形づくられてきたと思います。

今回は、京野先生が初任校の校長や附属小学校時代の副校長から学んだことを紹介していきました。次回は、後に秋田県の教育専門監として自身の授業づくりを再整理していった過程や、若い先生方へのメッセージを紹介していきます。

【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、8月10日公開予定です。

執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之

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