授業がうまくいかなかったことを子供のせいにする先生の授業は良くない【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第42回】

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授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」

青森県公立小学校勤務の浅田鶴予先生は、地元大学の算数教育の専門家もその授業力を高く評価する先生で、現在は自治体の教育研究会、算数科部会の研究部長も務め、若手の育成にも携わっています。その浅田先生がどのようにして授業づくりや学級づくりを学び、教師力を身に付けていったのかを紹介していきます。

青森県公立小学校の浅田鶴予教諭。

小学校の卒業アルバムにはすでに「小学校の先生になりたい」

私は小学校の卒業アルバムにはすでに、「小学校の先生になりたい」と書いていたくらいで、子供時代に教員になろうと考えていました。それは「すてきな先生との出会いがあったから!」というような感動的な理由があるわけではなく、両親や祖母が教員だったという環境によるところが大きかったと思います。

現在は小学校で算数を専門教科としていますが、大学卒業時には小学校と中学校・高校の英語免許を取得しました。実は学生時代には数学が得意ではなく、高校時代に200点満点で30点を取ったこともあったくらいだったのです。子供時代には文学が好きで、中学で英語に出合い、「英語を使う仕事につきたいな」と思うようになりました。人と話すのが好きなこともあり、学生の頃には航空会社の受付で外国の方をアテンドするような仕事をしたいと思っていたのです。しかし、生まれ育った青森県という立地を考えると、そのような仕事につくことはむずかしいものですし、教員という仕事は安定しているため、周囲でも教員志望の友達は少なくありませんでした。そのため次第に好きな英語を生かし、「中・高の英語教員になろう」と考えるようになっていったのです。

ただし、大学受験前にひと悶着ありました。私は英語の教員になりたかったので、文学部の英文学科に行きたかったのですが、中・高は学校数も採用人数も少ないため、私の両親は就職を心配して、小学校の教員養成課程に進むことを望んでいました。そこで、当時の担任の先生が配慮して、私の志望する地元大学に入学した教え子の学生さんに聞いてくださり、小学校教員養成過程に入っても中・高の英語免許が取れることを聞いてきてくださいました。それで、小学校教員養成課程で英語を学ぶことにし、大学に入学したのです。

ところが、3年次の教育実習でちょっとした出会いがあって、私の心が大きく動きました。大学の附属小学校で指導教諭になった2年生の先生は当時、始まって間もない生活科がご専門の方だったのですが、その先生の算数の授業がとてもおもしろかったのです。私の最後の提案授業は算数で、「かさ」の普遍単位を導入するところでした。水の量を比べるのに「かさ」を量る共通のマスが必要だとなった場面で、「白衣を着た博士が『傘』を持って登場して、その傘を開いたら『かさ』を量るデシリットルマスが出てくるようにしたらどう?」などとおっしゃるような、指導教諭の先生だったのです。そうした授業を子供たちも楽しんで学んでいましたし、2年生でとてもかわいかったため、それまで中・高の教員になると言っていたのに、小学校の教員になりたいと思うようになりました。そんなきっかけで小学校の教員になり、算数の道に入っていくようになりました。

人によって多様な立場があるとか、大事なものが違うとかが見えてくる

大学卒業後、スムーズに小学校の教員になれたのですが、私がラッキーだったのは、初任時に担任した2年生の子供たちを3年、4年ともち上がり、異動した2校目では5年、6年ともち上がり、その次は1年、2年と担任し…と、初任から6年間で全学年を担任したことです。そのため特別な教材研究をしなくても、学年の系統性を無理なく体験的に学ぶことができました。加えて、講師経験がなく教員になったのですが、子供の頃から両親の話を聞いていたためか、授業自体に苦労することなく比較的スムーズに入っていくことができた…と、初任から何年間は思っていたのです。

ところが、2校目に異動した後に友人関係でとても悩むことがあり、そのときに自分の生き方をふり返ってみる機会がありました。その際、私は自分が直さなければならないところ、学ばなければならないことに気付けていなかったということが見えてきたのです。初任校では子供たちにも保護者の方にも恵まれ、周囲の先輩方にも恵まれたためにあまり苦労することがなかっただけだと気付いたわけです。

学級づくりや授業づくりで悩んでいたという2校目時代の写真。縦割り班活動で、子供たちと一緒に食事を作って食べている浅田先生。

2校目は初任校に比べると勉強が苦手な子供も多く、家庭学習や生活習慣などで「こんなことをご家庭でも協力を…」とお願いすると、保護者は「でもね先生、うちの子は…」「でも、うちでは…」とできない理由を話される。当時の私をふり返ると本当にひどいものだったと思うのですが、それを聞きながら、私は「保護者の話を聞くということは、相手の悪いところに目をつぶって許すことだ」と思っていたくらいでした。

しかし、人間関係で悩むことによって、人によって多様な立場があるとか、大事なものが違うとか、たいていの保護者はがんばりたいと思っていても状況が整わずにがんばれないということが見えてきます。そのように自分の見方が変わってくると、保護者と次第に心が通じ合うようになり、「そうですね。大変ですよね。では一緒にできることを考えていきませんか」と、相手の状況を受け止めながら対話し、提案ができるようになっていきました。

そのため1年の担任になった6年目に、ある保護者から「先生が子供のことをこんなにかわいがってくれる人だとは思いませんでした」と言われました。5、6年を担任している私を見ていて、すごく厳しい先生だと思っておられたため、お子さんが1年生に入学するときに心配をしておられたようなのです。

1枚目同様に苦労していたという、2校目時代の着衣泳指導の1コマ。

なぜ分からない、できないのか、その原因を見とっていく目を育むことも必要

そのように色眼鏡を外して自分の授業を顧みると、それまでちゃんとできていたと思っていた私の授業は、ひどいものだったなと思います。子供を見る目も育っていないので、同じ「できない」にもいろんな理由があることに気付けなかったのです。

例えば作文が書けないにしても、「書きたくない」「書くことがない」「書きたいことはあるけれど、書き方が分からない」などいろいろな原因があります。それをひと括りにして、できないのは子供が悪いと思い、「なんで、こういう当たり前のことができないの?」と思っていました。乱暴に言えば、子供たちが分からないのは、子供たちのせいや前の担任の先生のせいだと思っていたのです。子供や保護者に要求するばかりで、自分の指導を顧みて自分が努力すること、工夫することができていなかったと思います。

最近、立場上いろんな先生の授業を見ていて感じるのは、当時の私のように授業がうまくいかなかったことを子供のせいにする先生の授業は良くないということです。自分が担任する以上は、その子供たちが分かるように授業づくりをしなければならないし、なぜ分からない、できないのか、その原因を見とっていく目を育むことも必要です。それをしていない先生の授業は分からないし、おもしろくない。それに気付かず、子供や保護者や周囲の人の責任にしてしまっているうちは、なかなか授業も良いものにはならないのだと思います。

今回は浅田先生が小学校の教師を目指すようになった経緯や若手時代の失敗を中心に話を進めていきました。次回は経験を積み、次第に算数の専門性を高めるようになっていった過程を紹介していきます。

【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、2月2日公開予定です。

執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之

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