恩師や優れた実践記録との出会いが育んだ国語教師への志 【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第19回】
今回からは、秋田県の教育専門監や秋田県教育委員会の指導主事で国語科教育を担当し、現在は秋田大学教育文化学部附属小学校の副校長をしている京野真樹先生のインタビューを紹介していきます。初回は、もともと教員志望ではなかった京野先生が、国語を専門教科とする教員を志すようになった、大学時代の出会いを中心に紹介します。
目次
恩師との出会い
私は大学時代、教育学部で国語科教育を学びましたが、実は高校は理系コースでした。特に理由があったわけではなく、友達の多くが理系コースを選んだからです。ところが、なぜか理系コースへの進級後、国語の授業がおもしろくなりました。また、それ以前から得意としていたのは英語で、言語系に関しては何か特別な勉強法を取り入れたというのではなく、自然に分かる感じだったので、「相性のようなものがあるのかな」と思い、漠然とではあったものの、地元大学の教育学部の中学校英語専攻への進学を考えるようになりました。とは言っても、教員になろうというつもりはさらさらありませんでした。地元の大学ならお金もかからないし、4年間、大学生活を楽しんで、その間に自分に合った職種を見定め、就職しようというくらいの気持ちでいました。
ところが、大学入試では、得意の英語と国語の結果が良かったものの、他教科が足を引っ張り、思うほどの点数が取れませんでした。中学校課程英語専攻は教育学部の中でも最も得点を要するところだったこともあり、よほど2次試験で好成績を残さなければ、入学できそうにもありません。浪人する経済的余裕もないことは分かっていたため、「英語の次に得意な国語にするか」という、実に軽い気持ちで小学校課程国語副専攻を選ぶことになりました。
大学入学後の1、2年はのんきに大学生活を謳歌していたのですが、たまたま2年生の夏頃に、私の入学と同じ年に茨城大学教育学部附属中学校教諭から異動していらした大内善一先生(当時は講師。後に茨城大学名誉教授)と、学生たちとの飲み会の席でご一緒する機会を得ました。大内先生は作文教育がご専門の先生で、「京野くん、君は将来どんな教師になりたいんだ?」「どんな国語の授業を目指しているんだ?」と声をかけてくださったのです。当然、まったく答えられることもないわけで、浅はかな私は、「いや、教員になるつもりは今のところないのです」と正直に答えました。さらにその当時、教育学部の国語科ながら文学青年崩れの学生が多い状況(当時の私にはそう見えただけです)について、「彼らは本当に教師になりたいんですかね?」と、自分のことは棚に上げて周囲の学生への批判までする、どうしようもない学生でした。しかし、大内先生は非常に度量の広い方だったので、「そのとおり、ここは教員を目指す学部だからね。文学の素地は大切だが、それだけじゃいかんのだよ。そう思うなら、うちの研究室に来なさいよ」と声をかけてくださいました。当時はまだ、卒論のためのゼミの先生を決めるには少し早い時期だったのですが、よく自分の面倒を見てくださった先輩が大内先生のゼミに在籍していたこともあり、その先輩を通じて改めて紹介をしていただき、大内先生のゼミに通うようになりました。
大内先生は、当時の教育系大学の教員養成の在り方に問題意識をおもちでした。後に、県や市の教育委員会に働きかけて、教育学部と県教委との連携を深めるお仕事でも大きな功績を残されています。大内先生の教員養成への情熱はすさまじく、大学の授業でも、後に受け継がれるような様々な改革を行われました。
私が2年次の時。学生が附属校や公立校の教室をお借りして授業実習をする講座で、1単位が取得できるようになったのは大内先生のおかげです。2年次の学生が、グループで数か月かけて1つの指導案をつくり、実際に小・中学生を相手に3人でリレー授業を提示。その後、リフレクションを通して授業づくりについての学びを深めるという取組でした。
大内先生は、ある日研究室にお邪魔した私にその試みの有効性や先進性を熱く語られ、授業者決定の講義よりも前に、「京野くん、やったらいいよ。今度、授業者を決めるときに立候補しなさい」と勧めてくださいました。いわゆる根回しです。私は当時、物珍しいことが好きでしたから、その第1号の栄誉をいただけることに喜んで、「やります」と手を挙げました。
今でも覚えていますが、同期の仲間2人と取り組んだのは、民話教材をベースにした文学教材「あとかくしの雪」の授業でした。どのような授業だったのか、内容はほとんど覚えていないのですが、中心人物である農民が、地主の畑から大根を盗む様子を動作化したことだけは覚えています。のちにこれが、自分の授業づくりの中核をなすことになるとは、当時は思いもしませんでした。
授業後、大内先生は「非常に良い授業だった」と手放しでほめてくださったのですが、自分は何が良かったのか、さっぱり実感が湧きませんでした。私以外の2人の授業者はバリバリの教員志望の学生でした。その2人を差しおいて私をほめてくださったのには、若干の申しわけなさを感じたことが記憶に残っています。当時をふり返ると、教員志望ではなかった私をその気にさせる、大内先生の策略だったのかもしれません。その策略にはまったわけではないと思いますが、想定外に好感触を得たことが、「学校の先生って、もしかしたらおもしろいかもしれない」という気持ちの端緒になったことは確かです。
しかしその後、3年次になって初めての教育実習に臨んだ際は、配属された学級の子供たちが、教員らしくない私をとてもおもしろがった上、私も調子に乗って他言するにはあまりにも恥ずかしいことばかりしたため、指導担当の先生には呆れられてしまいました。その先生にいろいろと諭されて実習校を後にした私は、「ああ、やっぱり教員は向いてないな」と、後がないところに追い込まれてしまいました。
優れた実践記録との出合い
3年次の後期には、卒業論文のテーマを決めなければなりません。しかし、私は国語科教育についてそれほど真剣に学んだことがありませんでしたし、どんな研究分野があるかすらよく分かっていませんでした。そのため何をやったらよいか、ノーアイデアで、大内先生の研究室を訪ねたところ、先生は私のそんな様子を察しておられたようで、「君はこれを読みなさい。これを読んで、国語の授業者がどのような意識で授業づくりに取り組み、実践者として成長しているのか分析して論文を書きなさい」と言われ、1冊の本を渡されました。
手渡された本は、「イメージを育てる文学の授業」(武田常夫著、国土社、1973年)でした。著者である武田先生は、戦後三大教育者として名高い斎藤喜博先生の一番弟子と言われた方でした。武田先生は、斎藤先生の学校づくりが全国に知れ渡るようになった群馬県の島小学校に勤務され、斎藤先生のご指導のもと、その実力が開花し、国語科授業の達人としてその名を知られるようになりました。「イメージを育てる文学の授業」は、その島小学校での実践を経て、斎藤先生が最後に校長を務められた境小学校で、国語科の授業実践に取り組まれた際の記録です。武田先生も、この実践を最後に群馬県の指導主事になられ、学校現場を離れたことが、そのあとがきから分かります。
早速、その授業記録を読んでみると、何か1本のドラマを見ているような授業ばかりで、夢中になって読み耽ったことを覚えています。何よりも衝撃を受けたのは、私のそれまでの国語科授業のイメージが、大きく覆ったことです。その頃の私は、例えば文学教材の授業であれば、授業者が発した問いに対する答えは、その授業者がもっているたった1つの答えしかなく、その答えに最も近い発言や記述が認められるという授業観しかもち合わせていませんでした(実際、今もそのように考えている学生さんに会うことがあります)。この話の冒頭で「高校時代に国語の授業がおもしろくなった」と話したのも、先生が求める答えを当てることがうまかったからなのです。
ところが、武田先生の授業では、1つの発問が多様な子供の学びの文脈で、多様かつ豊かな解釈を引き出し、生み出すものでした。例えば「大造じいさんとガン」の授業記録では、「このときの大造じいさんの気持ちは?」というように、場面ごとの登場人物の気持ちを問うのではなく、傷付いた残雪に大造じいさんが手を伸ばす描写に着目し、「大造じいさんは、残雪にどっちの手をのばしましたか?」と問うのです。「何だ? この発問は…」と思いながら読み進めていくと、子供たちは「両手」と答えます。そして、その理由についても「えらいやつだと思いながら…」「抱きかかえるように」「勇気に感心しながら…」などと、銘々に実に豊かな言葉で語るのです。
この授業に代表されるように、武田常夫先生の国語科授業の醍醐味は、指導の技術的にはかなり分析的なのですが、その奥に眠っている子供なりの深い解釈を効果的に引き出している点にありました。誰も考えないような視点から、しかしその物語の核になるようなところに鋭く入り込み、視覚に訴えるような具体的な発問を強みとする授業でした。当時、斎藤喜博先生が目指した授業の本質を、最も見事に体現していた授業だったと思います。「国語の授業ってこういう奥深いものなのか」私の体に震えが走り、自分の中にまったく新しい授業観が形成され始めたのは、「イメージを育てる文学の授業」に出合った、まさにこのときでした。
今、「令和の日本型教育」として「個別最適な学び」と「協働的な学び」による授業改善が提唱されています。斎藤喜博先生や武田常夫先生は、その典型となるような授業実践を、すでにこのときに行っていたのだと考えています。例えば、斎藤先生が発足され、多くの実践者や研究者が集った「教授学研究の会」では、「組織学習」という学習過程及び指導方法の理論が提唱されました。それは、1つの教材について子供たち一人一人が立てた問いについて問題解決に取り組むところから始まります。次第に、質の高い問いが絞られてくると、問い別に追究していた小集団同士の意見交流を通して解決します。それでも考えが分かれる、最後の最もむずかしい問いは、武田先生のコーディネートによる一斉授業で、全員で解決に向かいます。それぞれの子供がそれぞれに問題解決してきた文脈について伝え合う中で、最後に残った問題を全員でダイナミックに解決していくという、問題解決的な学習の典型とも言えるような授業でした。まるでオーケストラの演奏のようなこの授業の魅力に心を奪われた私は、いつしか、武田先生と肩を並べられるような授業ができるようになることが永遠のテーマになりました。
そんな武田先生の授業に衝撃を受け、私は3年次の秋から4年次の秋にかけて、武田先生や斎藤先生のご著書の数々を入手しては、ひたすら読み耽りました。斎藤喜博先生の著作集や「教授学研究の会」の機関誌は、大学図書館の書庫に十分な蔵書がありました。しかし、武田先生のご著書は全くなく、書店に問い合わせても絶版になっていたものがほとんどでした。手に入らなかったご著書の多くは、国立国会図書館から取り寄せ、全ページのコピーを取ってから返しました。何万円ものコピー代をかけて、私が大学の向かいのコンビニで延々と大量のコピーをするため、「コピー機を半日占領している者がいる」と、クレームが来たこともありました。それでも構わず、文献に没頭した時代でした。
そうしているうちに、自然と武田先生や斎藤喜博先生になったつもりで国語の授業を語れるつもりになってしまいました。どの文献のどのページに何が書いてあるかくらいは、パッと開くことができるほどでした。それまで読書習慣が皆無と言ってよかった私は、そのせいで、しばらく本に付箋を貼ったり線を引いたり、書き込みをするなどの読書術を知らずに過ごしたほどです。文献の内容が頭にすっかり入ってしまった私は、卒業論文のストーリーを頭の中に完成させてしまっていました。そこから数か月、食事の時にペンを箸に持ちかえるだけ、あとは机に向かって原稿用紙に頭の中のストーリーを書きだす作業に没頭しました。そのおかげで、腱鞘炎と腰痛が今も抱える持病のようになってしまったほどです。
でき上がった卒論は、10の視点から武田先生の授業を分析した、「武田常夫の国語科授業」です。600字詰め原稿用紙で約270枚。あまりに厚かったので、提出先の学務課の職員から「百科事典みたい」と笑われました。ご指導くださった大内先生は、この卒論について「引用の仕方はまだまだ勉強しなければならないし、誤字脱字も多いけれど、10の視点の設定といい、分析の深さといい、内容は本当にすばらしい」とほめてくださいました。あまりに気に入ってくださったのか、後に大内先生が茨城大学にご異動されるとき、一緒に持っていかれたほどです。そのため、秋田大学の卒業論文が保管されている書庫には、私の卒業論文は現存していません。現在でも、年に1度は大内先生にお会いしますが、一緒にお酒を飲むと、「あの卒論は…」と思い出話に花を咲かせてくださいます。
そのようにして、学生時代に大内先生に出会い、大内先生に自分の資質をうまくおだてられ、ほめられて教員を目指すようになりました。卒論を書く過程で斎藤喜博先生や武田常夫先生のご著書にも出合わせていただき、生意気にもそうした先生方になったつもりで授業を語るようになったことが、知らず知らずのうちに教員を志すきっかけになりました。ろくに受験勉強をしなかったのにも関わらず、なんとか教員採用試験に合格できたのも、大量採用時代だったというだけの理由だけでは決してなかったように思います。
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今回は、教員志望ではなかった京野先生が、恩師や先達との出会いを通し、教員の道へ進んでいった過程を紹介しました。次回は、現場に出てからの学級づくりの考え方を中心に話を聞いていきます。
【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、8月3日公開予定です。
執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之