青山新吾×月本直美×川野吏恵「学級・学校の枠を超えたインクルーシブ教育を【前編】~特別支援学級と通常学級の交流及び共同学習はどうあるべきか~」
特別支援の現場で分厚い研究と実践を重ねてきた3人、青山新吾先生(ノートルダム清心女子大学准教授)、月本直美先生(岡山県立特別支援学校教頭/取材時・岡山県公立小学校教諭)、川野吏恵先生(岡山県高等学校教職員組合書記長/取材時・岡山県公立盲学校教諭)による鼎談を全2回でお届けします。「通常学級のよい実践=インクルーシブ」という思考の枠組みに囚われない提案です。前編では、特別支援学級と通常の学級、特別支援学校と地域の小学校の交流及び共同学習はどうあるべきなのかなどについて考えていきます。
目次
自由度や個別性の担保された協働性がポイント
青山 最近、本や雑誌など通常学級の先生方向けの発信物の中に、「インクルーシブな学級経営や授業づくりをしている」という実践例を目にする機会が増えました。でも、その発信者たちが、彼らのやり方だけをインクルーシブだと発信し、影響力をもってしまうことはリスクが高いと感じています。
「通常学級の質のよい実践=インクルーシブ教育」ではありません。インクルーシブとは、もっと広い視野で考えるべき話だということを、はじめにお話ししておきたいと思います。
川野 通常学級での実践の質を上げることは必要ですが、それは入り口に過ぎません。その子がいちばん幸せに生きられる場所はどこかを探すことが、インクルーシブの本質だと思います。
青山 一人一人の将来的な自立を視野に入れた支援が必要だということですが、当然それは子どもの実態によって異なります。障害の実態が同程度であっても、一人一人への対応は違います。
川野 子どもが違えば、教師のやるべきことが違う、というのは当たり前ですよね。ですから、私は子どもに聞くようにしています。「分からないことは子どもたちに聞く」という視点が大事なのは、盲学校でも通常学級でも変わらないのではないでしょうか。
青山 極端な例を言うと、農家の生まれで将来の働き口が確保されている子どもと、転勤族のサラリーマンの子どもに同じくらいの障害の実態があった場合、その子の教育がどうあるべきかを同列で考えること自体に無理があります。前者は、子どもの発達軸よりも、生育環境や地域の特性などに重きを置きながら、将来的にその地域で生きていく力を育む必要があるでしょう。教師はそこまでを考慮して、学齢期の教育、学ぶ場所、過ごし方を考えていく必要があります。
――月本先生は特別支援学級の担任も、通常学級の担任も両方経験されています。学級経営と手厚い個別支援とをどう両立してこられたのでしょうか。
月本 そこは毎年いちばん悩むところです。とは言え、通常学級の担任である限り、学級経営をしていくなかで、その後で困っている子に何ができるかを考えています。私が直接関わる方法もあるし、周囲の子どもたちが関わっていく方法もあります。何が使えるか、どんな方法が取れるかは、その年、その時、その子どもたちによって違うので、その都度相応しい支援を工夫しています。授業だけで足りなければ、保護者の許可を得て、放課後学習等も行います。
大切なのは、支援を必要とする子が、「できない子」というレッテルを貼られないようにすること。「〇〇さんにはこんなよいところがあるよね」と言葉で伝え、その子が活躍する場面をつくるようにしています。その前提として、「誰だって得意なことも、苦手なこともある」ことを学級開きで伝え、何かトラブルが起きたときにも毎回伝えていました。
青山 支援を必要とする子のため、学級に協働性という視点を取り入れることは大切です。しかし、対人関係が苦手な子にとって、協働性はリスクにもなり得る。だから、場面によっては一人で学ぶことも許されるといった、自由度や個別性の担保された協働性がポイントでしょうね。
通常学級における個別支援の中身を言ったとき、大きく二つに分かれます。一つは、認知的な能力の問題からくる学力の低さの話をしている場合。もう一つは、例えば、弱視で見えにくさがあって、教材をうまく捉えられないから授業が分からないといった場合。それらは質が違うのだということをはっきりと認識し、区別すべきだと考えています。
全体的に認知レベルがかなり低い子どもが、通常学級の中だけでやれることには限界がある、と私は思っています。そうした子への教育と、後者のような子に対して合理的配慮として何ができるのかということは、分けて考えなければならないのです。それらを一緒にされてしまうと、通常学級の担任は辛くなるばかりです。「限界がある」ということを前提に考えていくのが大切だと思います。
交流が「障害理解」だけで終わっていないか
――「通常学級での良い実践= インクルーシブ」という思考の枠組みにとらわれない取組として、どのようなものが考えられますか?
青山 特別支援学級と通常の学級、特別支援学校と居住地の学校との交流及び共同学習、特別支援学校のセンター的機能の充実などですね。その辺りの具体は、まずは月本先生から……。
月本 特別支援学級と通常学級の交流及び共同学習は、交流先の担任と特別支援学級の担任で事前に打ち合わせを行います。その時間にどんなことをやるのか、特別支援学級担任が「多分ここはできるけど、ここは難しいかもしれない」と伝えたり、通常学級担任から「難しそうなら、ここは一度支援学級に戻ってもかまわないから、ここからはまた交流しましょう」などと提案したりしつつ、1時間の流れの中での動きやその時間のその子の目標を確認します。授業が始まれば、通常学級担任に任せて、特別支援学級の担任は基本的には後方から見守り、必要な場面で支援します。
その子がクラスの一員として育つように、他の子から認められることが大切です。決して「いない方がいい」という発想にならないように、「あの子と一緒にやると面白い」とか、その存在価値を周りの子が認識できるようにしたいと考えています。私は、通常学級の子どもたちの前で「何でこんなことで怒るのかなあ」とか言ってしまいます(笑)。その後に、「でも、何で怒っているか分かる?」と、少しずつ理解してもらえるよう問いかけています。
川野 特別支援学校と居住地の小学校との交流及び共同学習は、年3回程度行われています。私は、この頻度では足りないと感じています。もちろん交流することのリスクはあるでしょう。子どもたち同士が関わりをもつ時、悪意ではなくてもいろいろなことが起こりますから。事前に教員同士がどんなに綿密に打ち合わせをしていても、避けて通れない摩擦もあるでしょう。いじめなど、度を越したことは論外として、交流することで多少の傷つきがあったとしても、それを子どもの学びにしていきたいと考えています。そう考えると年3回ではとても足りません。
ある日の交流時、交流先の学校でフルーツバスケットをしたのですが、その学級には「隣の席に移るのは禁止」というルールがありました。当日のルール確認の際に「今日は隣に移るのもありにします」と言うと、数人の男子が「禁止の方が面白いのに何で?」と納得しません。交流先の先生も私も、どう進めようかと迷っていたその時、参観していた盲学校の保護者が、「ちょっといいかな? みんな、左目つぶってみて。うちの子は左目が見えません。右目をうっすら開けてみて。右目もそれ(うっすら開けた状態)よりももっと見えません。この状態では向かいの席が空いているかどうか分からないよね。隣もありにしたら一緒に遊べるから、今日はそうしてほしい」と説明してくれました。この時は保護者に助けられましたが、ゆくゆくは本人が自分で説明できるようにしていきたいと考えています。
青山 安易には言えませんが、通常学級の子どもたちが育っていれば、保護者や教師が出なくても、子どもたちだけで解決できる場合もあると思います。そうした場合、「視覚障害の友達が来るから、その障害を理解して、一緒に遊ぶ方法を考える」という前提ではなくて、「多様な人がいる中でいい時間にするにはどうすればいいのか」という前提が必要です。つまり、多様な人とともに歩むという視点が不可欠です。
川野 盲学校は少人数の中で学習しているので、地域の学校に行って学ぶことで「いろいろな子がいるんだ」とか、「こういう考えもあるんだな」と、多くのことを吸収してきます。
今、担任している6年生の子どもは、交流することで自分が置かれている状況について気付いていきました。その子はレンズや書見台などの道具を使っていますが、「あっちの学校の子たちはこの道具を使うの?」と尋ねてくるようになったのです。「使わないよ。でも、あなたたちはあっちの学校のみんなと同じように楽な姿勢を保つために書見台が必要だし、みんなと同じものを見たいでしょ? だからレンズを使うんだよね」と説明しました。交流先では、「私はこういう道具を使うと上手に見えます」と、自分の言葉で自己紹介させます。このように、障害も含めて自身を肯定的に受け止めていく場面を増やしたいと思っています。
ただし、交流及び共同学習が誰にとっても有効なわけではありません。特別支援学校の少人数の中だからこそ、主体的に学習できる子もいます。
青山 交流及び共同学習は、特別支援学校の子どもから見れば、書見台がなぜ必要なのかとか、自分のことを理解し、適切に表現できるプロセスです。一方、地域の学校の子どもたちから見れば、障害のある子どもを理解するプロセスになっています。そのことは確かに意味があるでしょう。
でも、できれば単なる「障害理解」の時間として終わらせず、もう一つ上の視点に立ち、「支援学校の子は自分のことを理解して、自分がどうやったら学べるかを表現している。だから、通常学級の子どもたちも自分のことを知って、それを必要に応じて表現できる力を付けよう」と考え、そうした学びの時間にするべきなのです。
それは「障害理解」ではなく、「自己理解、自己認知、その表出」という学びになります。教師も子どもも、そうした視点がもてると、交流及び共同学習がより深い学びになると思います。
取材・文/長昌之 撮影/西村智晴
『小六教育技術』2017年11月号より