「インクルーシブな学級を目指して」川上康則×木村泰子対談
教育現場でよく耳にする「インクルーシブ」。でもその実態についてどこまで理解していますか? 今回ご登場いただくのは大阪市立大空小学校初代校長の木村泰子先生、特別支援学校で日々奮闘する川上康則先生。立場の異なるお二人に、障害のある子もない子も生き生きと学べる場について、思いを語ってもらいました。
右)木村泰子
きむら・やすこ。2006年に開校した大阪市立大空小学校初代校長。同校では「すべての子どもの学習権を保障すること」に尽力した。『「みんなの学校」をつくるために』、高山恵子との共著『「みんなの学校」から社会を変える』(小学館)等、著書多数。
左)川上康則
かわかみ・やすのり。東京都立矢口特別支援学校主任教諭。公認心理師。臨床発達心理士。特別支援教育士スーパーバイザー。著書は『こんなときどうする? ストーリーでわかる特別支援教育の実践』(学研プラス)、『発達につまずきがある子どもの輝かせ方 』(明治図書出版)等。
目次
インクルーシブって実際のところ…何?
木村 インクルーシブって何だろう? そもそも川上先生が思っているそれと、木村が思っているインクルーシブとが同じかどうかも分かりません。それなのに「インクルーシブ、インクルーシブ……」と言っているところが、今の教育現場の大きな落とし穴だと思うんです。
私が考えるインクルーシブとは、誰も排除しないということ。言い換えれば、みんなが自分らしく安心して学べる居場所があるということ。つまり、パブリックの学校が行うべきインクルーシブ教育とは、どんな特性や個性があろうと、「すべての子どもの学習権を保障すること」なんです。
それなのに、日本のインクルーシブ教育は障害の有無という「くくり」で捉え、「障害のある子と障害のない子を共に」という考え方をしています。これは、国際的なインクルーシブ教育の流れとは正反対です。川上先生はどうお考えですか?
川上 インクルーシブの究極の目的は、すべての子どもが多様性の枠を広げ、規格(制度的なくくり)にとらわれず、個性や人格を相互に尊重し合う社会をつくることだと考えています。そのために学校現場でできるのは、障害のこと、障害児・障害者のこと、障害者の家族のことを「知らないという障害」をなくすことではないでしょうか。
そして、大人が目指すべきは、特別支援学校・学級を、「外に追いやる」「分ける」場だとみなすのではなく、「世の中で一番頑張る子たちが、ここだからこそ、生き生きと学べる場だ」と言い切れるようにすることです。
現状、私が課題だと考えるのは、障害のある子も通常学級で学ぶべきだという姿勢は、「参加の機会は保障されているかもしれないけれど、能力の発揮には目が向けられていない」こと。
一方、特別支援学級・特別支援学校で学ぶべきという姿勢は、「個々の能力の最大限の発揮につながることを目指すものかもしれないけれど、多様性を尊重する視点に欠ける」こと。そして、「小・中学校の場合、校内で比較的パフォーマンスの低い先生が特別支援担当に回されている学校があること」ですね。
川上先生が提言する「TIQの高さ」とは
木村 川上先生の言うとおり。個別に支援が必要な子どもに関わる教員は、川上先生のよう にスキルが高い人であるべきです。大空小では、校内で一番のキーパーソンが支援担当をしていました。これが当たり前なんです。でも、全国の学校現場ではどうでしょうか。
川上 そこは課題ですよね。特別支援担当に力量の高い教員が配置されない、という全国的な現実を改めて課題として挙げておきたいですね。
木村 私が校長時代、支援担当者を選んでいた基準は、敏感な感性を持っているかどうか。人と人とが対等な関係で学び合うからこそ、学びの本質が生まれるわけです。だから支援担当者には、奢りを持たないとか、力による指導をしないとか、そういう感性が必要だと思います。
川上 同感です。私はそういった能力を「TIQ(Teacher’s IQ=川上先生の造語)が高い」と呼んでいます。 TIQ とは例えば
- 視野が広く状況判断に優れている
- 瞬発力があり判断に迷いがない
- 人とつながる力や冷静さを持ち合わせている
ことなどを指します。つまり、教員として一番必要な資質や能力です。それなのに、 TIQの高さは採用の際には問われませんし、その後に研修で学ぶこともありません。
木村 TIQ を上げるには、日常の全ての出来事について、自分の考えを持つことが必要ですね。
川上 そうですね。例えば、何か知りたいことがあった時に、1冊の本を読んで分かった気になるのではなく、それに関する本をたくさん読むとか、それに関することをいろいろな人に聞いてみるとか。そうやって、努力しながら自分で考えて身に付けたものは必ず力になりますよね。
どんな特性の子も同じ教室で学ぶ大空小
木村 大空小にはいわゆる特別支援学級がありません。みんなと一緒にいなければならないとか、椅子に座って勉強しなければならないとか、そういう画一的な教育が子どもたちを苦しめているわけですよね。そうではなくて、個々に自分ができる学びをしたっていいわけです。
でもそれは、個別の部屋(特別支援学級等)ではなく、みんなの中(通常学級)でもできる、というのが私の考えです。みんなの中でできない時にだけ、その子に必要な場や必要な支援をつくっていけばいいという発想ですね。
入学以来5年間不登校で、六年生の4月から大空小に転校してきた子がいました。当然、教室に入れるわけがありません。その子は一日目、職員室の後ろに放置された汚い机と椅子をウェットティッシュで一生懸命拭くことから始めました。ようやく綺麗になると一瞬座って、すぐに家に帰りました。
何日かすると、その机に置いてあるカレンダーに、何時に来て何時に帰るかを自分で書くようになりました。つまり、自分で条件を決めて、自分なりに学び始めたのです。5年間ずっと傷ついてきて、こだわりが山ほどあるこの子を、絶対にみんなと同じ教室の中で学ばせなければならないということではありません。
この子が六年生だった1年間、特別支援教育のノウハウでどんな支援ができるのかと考えましたが、大空小にはそんな能力のある者は誰もいませんでした。ですから、その時大事にしたのは、その子が家を出て、外を歩いて、校門をくぐって職員室に来ても、「僕は侵害されない」と思えるようにすることだけでした。
Q ここでお二人に質問!
通常学級を「よりインクルーシブにする」ために一番大切なことは何ですか?
▼木村先生の回答
▼川上先生の回答
↑川上先生が「風」という言葉を書くと、すぐに木村先生が、「大空小ではそれを『空気』という言葉で表現していました」と反応。そこから、活発な対話が生まれていきました。
力による指導は断捨離しよう
川上 追手門学院小学校の多賀一郎先生が教師の在り方を説明する際に、「風」という言葉を使われていて、そこからヒントを得たのですが、例えばきつい言葉で学級に尖った風を吹かせる先生、それから、不穏な風を吹かせる先生がいます。
そういう方は、自分のそうした関わりが子どものパニックを誘発することなどに無自覚です。ほめているつもりで「頑張れ、頑張れ」と熱過ぎる風を吹かせる先生もいますよね。
よりインクルーシブな学級をつくるためには、無風な状態もつくれるし、柔らかな風もつくれる――自分が吹かせる「風」について自覚し、コントロールできる能力が必要なのだと思います。
木村 大空小では、その「風」を「空気」と呼んでいました。「空気をつくろう」が合言葉でした。指示・号令・命令を断捨離すれば、学びの空気をつくることができます。
例えば、朝会で講堂に全校児童が集まったら、まず「気を付け」と号令をかけるでしょう。どんな風を吹かせているのって思いますね。そうではなく、前に立って黙っていれば、(子どもたちが勝手に学習する姿勢を整えて)空気がピタッと止まる瞬間があるんです。
それは、重度の自閉の子だろうと、どんな子でも同じです。そして、その時は子どもも教員も安心するんです。空気がつくれるようになって、やっと力による指導を捨てることができました。
川上 通常学級に限らず、特別支援学校でもあり得ることですが、教室がマルトリートメント(不適切な関わり)の場になっていることがあります。教室の中にいい風が吹いていないと、子どもたちは絶対にいい顔はしません。
木村 私にとって、学級をインクルーシブにするために大切なことは、「子どもと子どもをつなぐ」ことだけです。そのためには義務教育のスタートである一年生が勝負です。いろいろな子どもたちが義務教育に入ってきます。発達障害というレッテルを貼られた子もたくさん入学してきます。
発達障害は脳の器質的障害だと言われるけれど、検査では明確に診断できない、と私は思っています。5歳児、6歳児の行動はどうやってつくられるか。その子がそれまでに生きてきた環境の、周囲の人間の影響が大きいはずです。
それなのに早期発見・治療とか言って、特別支援学校や特別支援学級に行かされ、一年生の段階からみんなが一緒にいるのが当たり前という空気を吸えません。
だから、特別支援教育をしたい人はそれでいいけれど、せめて一年生の1年間だけは、みんなが一緒にいることを当たり前にするべきです。少なくともその段階では通常学級も特別支援学級もつくってはいけない。
一年生のうちに「みんな一緒に学ぶ」意識を
川上 以前、「教育技術」の取材で、一年生の1年間は、全員が特別支援学校を経験すればいいと話したことがあります。発想は同じですよね。
木村 同じです。学ぶ場所は通常学級でも特別支援学級でもどこでもいいんです。一年生の時に「みんな一緒に学ぶのが当たり前」という意識を付けることが大切で、一年生で身に付けば、それ以降その意識は失われません。
一年生が1学級であれば、それだけで一つにまとまります。2学級あるなら二つの教室を行き来すればいい。先生たちも担任制度をやめる。担任の自分がやらなければならないと思うから、トラブルを子どものせいにして学級から排除したくなります。担当制にして、自分が無理だと思ったら、授業者もどんどん交代すればいいんです。
大空小には教職員だけでなく、地域の人たちがたくさん入ってくれて、困っている子に関わってくれます。例えば算数の苦手な五年生が自ら職員室に来て九九のプリントで学んでいたら、地域のじいちゃんが丸付けをしてくれます。
その時、花丸を付けた横に、植木鉢まで描いてくれる。これが子どもの心に響くんですね。地域の人々の方が、こういう知恵を持っているものなんです。
川上先生は今、障害のある子どものために一生懸命、特別支援教育をされていますよね。それは手段ですよね。その目的は何?
川上 子どもたちに幸せになってほしい、ということです。特別支援学校であろうと、通常学級であろうと、教師みんなが願うべきことですよね。
木村 そこも一致していますね。公教育が子どもに付けるべきなのは、10年後の社会で生きて働く力。ただ、それは障害のある子が自立するということではなく、周りの子が育って社会的障壁をなくすことだと考えています。
川上 これまで私は、インクルーシブを文字通り「包摂」という意味で捉えてきていて、いかに包み込むのかを考え続けていました。でも、大空小のお話を聞いていると、許容度というか間口が広いですよね。
学校が開かれていて、多くの大人が子どもに関わっている。だから今日、木村先生と対談して、「波紋」のように広がっていくのが本当のインクルーシブなのかなと感じたところでした。どんどん外に開いていくイメージを持った方がいいのではないかと。
木村 私の言うスーツケースと風呂敷の発想と同じです。スーツケースでも包み込むことはできるけれど、子どもをその形にはめ込むことになる。でも、風呂敷なら形を変えてどんどん広げていける。全ての教員は、スーツケースを、風呂敷の発想に変えていく必要があります。
撮影/西村智晴 構成・文/長昌之
『教育技術 小一小二』2019年10月号より