ページの本文です

【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第75回】今どきの教育と敗戦前の教育(その3) ─「教えない」が「教える」怯えを生む─

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
関連タグ

植草学園大学名誉教授

野口芳宏
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」バナー

国語の授業名人・野口芳宏先生が、65年以上にわたる実践の蓄積に基づき、不易の教育論を綴る連載です。第2部では今どきの教育と戦前の教育とを比較吟味し、戦後80年の教育の功罪について考えていきます。「謙虚に教わる」こと、「自信をもって子供を善へと導く」ことの大切さを再認識させてくれる、硬派なメッセージです。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、65年以上にわたり、教育実践に携わる。1996年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。

8、「教わる」ことの重み

「私は高校生の時代に恩師から『先ず自らの心身を清め、これを以て人心を浄化し、これをもって国家を厳浄せよ』と教えられました。自らの心を清めることが、国家を浄化することになると諭されたのです。」(A)

「そこで古人の教えを伝える本を沢山読みました。繰り返して読むことによって、文言の上では分かるようになりました。しかし、残念なことに著者はいつも遠くにあり、懐に入ることは叶いませんでした。」(B)

右の引用は、A、Bともにイエローハットの創業者であり、トイレ掃除の「日本を美しくする会」の相談役であった鍵山秀三郎先生が書かれた文章の一部である。

Aには、「教えられたこと」「諭されたこと」が思い出として綴られている。この教えに出合い、共鳴、共感、納得されたのであろう、「諭された」と書いている。

「教えられ」たことによって、「納得」し、早速Bにあるように「古人の教えを伝える本を沢山読み」始めることになったのだ。そうして「繰り返して読むことによって、文言の上では分かるようにな」ったのだが、それはあくまでも、言葉の上の表面的理解に過ぎない。「著者はいつも遠くにあり、懐に入ることは叶いませんでした」と述懐している。

実は、この引用は、江戸時代の儒学者である佐藤一齊の『言志四録』を、今の人にも分かるようにと、解釈と解説を併記しながらテキスト化した一書への「推薦の言葉」の一部分である。テキスト化した一書の著者は、「はじめに」の中で次のように書いている。

「原著は、人生の処世訓である為、身近な話題が随所に出てきます。そして日常の些細な出来事の中に様々な教訓が潜んでいる事に気付かされます。時には思わず、我が意を得たりと膝を叩いて大いに納得し、又或る時は深いため息を誘い、又或る時は大いに唸らされることも屡々体験したことでした。」  (C)

「二百年ほど前の大儒佐藤一齊先生が後世の為に書き遺して下さった『言葉』に是非触れ、その言霊を体感して頂き、さらにそれをご自身の人生に生かして頂ければ望外の喜びであります。」        (D)

Cでは、佐藤一齊先生の言葉に触れることの喜びや、共感、共鳴、自省などに出合える幸せを述べている。「読書」は、読者が、著者から「教えを受けること」「教わること」、時には「対話」をすることである。佐藤一齊の弟子は3000人に及んだとも言われている。弟子達は、教わる喜び、学ぶ喜びに浸ったことであろう。

Dでは、読書を通して、佐藤一齊という碩学の「懐に入る」ことを体感して欲しいと述べている。「学ぶ」とは「教わる」ことでもある。次は、息抜きの蛇足である。

今の学生には殆ど親しみがなかろうけれど、卆寿になった私が学生だった頃には、酒を飲むと決まってデカンショ節を歌ったものだった。「高歌放吟」とも「放歌高吟」とも言って楽しんだものだった。その一節にこんなのがあった。

「勉強する奴は/頭が悪い。ヨイ、ヨイ。
 勉強しない奴は、なお悪い。
 ヨーイ、ヨーイ、デッカンショッ。」

もともとは旧制高等学校でよく歌ったらしい。蛇足の蛇足だが、デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルの三賢者の頭文字だと、したり顔に話す先輩がいたが、真偽の程は定かではない。ここにも「学ぶ」「教わる」ことの大切さが説かれている。

9、「教えて考えさせる」の批判に対する野口の反批判

市川伸一先生の「教えて考えさせる」という主張は、簡潔明快な真実を表している。当然の真理で、まさに不易の名言、真言である。「真言宗」の宗祖は弘法大師だ。

ところが、この主張には次のような批判があるそうだ。「教えない」という言葉でネット検索をすると出てくる。いくつか引いて、その真偽を考えてみたい。AIによるその概要としては「詰めこみへの逆戻り」や「形式化」、「子供の主体的な試行錯誤や発見の機会が減るのではないか」という危惧があるようだ。「主な批判的観点」について私見を述べる。批判、反響を待ちたい。

①「教えこみ」への逆戻り、固定化

「従来の『自力解決』を重視した授業(「教えない教育」)から転換した結果、教師が手取り、足取り教えるスタイルになり、子供が自律的に考える機会や自力で発見する喜びを奪う。」

ここでは、「教えこみ」や「手取り、足取り教えるスタイル」が、「自力解決」の機会や喜びを「奪う」ことになるという理由で、「悪」と決めつけられている。これは誤りであろう。

何にでも「程度」や「限界」は存在する。「教えこむ」ことは悪ではない。「教えただけ」ではなく「教えこむ」「詰めこむ」ことが大切な場合は、いくらでも存在する。掛け算九九や、漢字の読み書きはその例に入るだろう。楽器の演奏やハードル走などにも当てはまるかも知れない。「固定化」が「頑(かたくな)」を意味するならどんな場合でも望ましくない。「自力解決」も「固定化」すれば、独断、独善、排他に陥るだろう。

もうひとつ、「自力解決を重視した授業」という文言に対して括弧付きで「教えない授業」と書いてあるが、「自力解決イコール教えない授業」というのは甚だしい誤解あるいは牽強付会である。自力解決を全く伴わない教育や授業など存在しないし、私は見たこともない。自力解決は、いかなる指導の中にも存在可能であるし、実在する。批判にも議論にもならない指摘だと思う。

②「形式的」な展開への懸念

「『説明→確認→深め』のステップを踏むこと自体が目的化し、実際には子供の理解が伴っていないのに、「教えたつもり」になっているケースがある。」

授業展開のステップにはいろいろのスタイルがある。それは方法だから当然だ。方法が目的化すれば、本末の転倒になる。それは、「教えて考えさせる」ことの批判にはならない。「教えない授業」だって、その方法が目的化すれば自己崩壊を免れまい。「形式的な展開への懸念」は「教えない授業」にも存在する。当たり前のことだ。批判の体をなしていない独善的言辞であろう。

③ 個別対応の限界

「全員が一斉に同じプロセスを踏むため、すでに理解している子には退屈で、理解の遅い子にはまだ難しい、といった多様な学習進度への対応が難しい。」

「個別対応の限界」を望ましく解消する授業などというものが存在するのだろうか。見せて貰いたいものだが、具現、明示はできまい。「限界」は全てに存在するからだ。

昭和40年代の初め頃「落ちこぼれ」問題が世情を騒がせたことがある。私は「落ちこぼれを無くすことも作らないことも不可能だ」と公言し、顰蹙を買ったことがある。私は、「本音、実感」を述べたまでのことなのだが、大変なバッシングを受けた。世論、世情の大半が私を責める形になった。だが、誰ひとり「落ちこぼれを作らなかった」と公言する者はなかった。みんな「裸の王様」をほめちぎる一時的な嘘つきになって身を守ったのだ。こういう判断癖を、私は「観念的机上論」と呼んでいる。頭の中だけで考える妄想である。

私は専ら、「本音、実感、我がハート」に忠実でありたいと考えている。それを私は「体験的実感論」と呼んでいる。「落ちこぼれを作らない」「見切り発車をしない」というのは、一人残らずを医学部に合格させる位困難な絵空事である。

教育界には、まことしやかな美辞麗句がいつもブームを作って、肝腎の子供が犠牲や被害者になる。不登校、苛め、暴力、自殺の「過去最多」は、被害者である子供らの、大人や学校や文科省に対する、「体を張った告発」ではないのか。スローガンは美しいが、子供の現実は悲惨である。「個別的対応の限界」の語を以て「教えて考えさせるという主張」の批判をするのは、「天に唾する」の愚ではないか。

閑話休題、話を本節に戻さねばなるまい。「教えて考えさせる授業」の「主なデメリット」という見出しで、AIは次のようにも記す。

④ 授業時間の不足

「知識の定着に時間を要し、進度が遅れがちになるため、受験や全範囲の消化が難しい場合がある。」

これは「教えて考えさせる授業」に限らない。学校はいつだって「時間不足」である。働き方改革のお蔭で「楽になった」「ゆとりが生まれた」という話は聞いたことがない。「教えないで時間が余る」なら、ますます「不登校、苛め、暴力」の子供三悪が「過去最多」の記録を作るだろう。子供の「体を張った告発」がますます増えることだろう。

⑤ 準備の負担増

「準備・指導の難易度が高い」「教師のスキル向上と準備に膨大な時間と労力がかかる。」

──とAIにあるが、そんなことはいつの時代にも教員の課題であるし、あるべきだ。また「教えない授業」などということを誰も言わなかった時代の教員は、みんな当然のことのようにデメリットなど感ずることなく、少なくとも今よりはマシな授業をやってきたし、やっていたのである。この指摘も「教えて考えさせる」という主張のデメリットや批判にはならない。

⑥ 生徒の主体性に依存する

「やる気のない生徒や主体的に考えるのが苦手な生徒は、授業の議論に附いていけず、単なるおしゃべりに終わるリスクがある。」

これは、妙な指摘だ。こういう状況だから「教える」「導く」ことが必要になるのだ。さらに「教えこんで」やらなければ子供は路頭に迷いこんでしまうのだ。「教えない授業」こそが「生徒の主体性に依存」しすぎているのではないか。いわゆる「子供中心主義」である。「子供は無限の可能性を秘めている」「子供は自ら伸びようとしている」「子供には思いがけない主体性、自主性、自学の力がある。その力を引き出す支援と援助こそが必要である。教えこむのは時代遅れの考えだ」という「新しい考え方」こそが今の現場を混乱させている──と私は見ている。

イメージイラスト

10、根底にある私の「子供観」

教育についての「新しい考え方」は「子供の主体性、自主性、個性の伸長」を標榜し、「子供中心主義」(私はこれを「子供天使観」と呼ぶ)を広める結果を生んでいる。「人学ばざれば禽獣に同じ」と言う。「学ぶ」とは「進んで教えを受けること」であり、「教わらないこと」ではない。

「子供天使観」「子供中心主義」は「子供の無限の可能性」に期待を掛けているが、「無限の可能性」は、「無限の善」と「無限の悪」の二つを秘めている。「悪を戒め、善を伸ばす」ことによってのみヒトは人間に成長するのだ。教育とは善への導きなのだ。「教える」「教わる」ことこそが、不易の教育真理なのだ。

野口芳宏 先生

イラスト/すがわらけいこ 写真/櫻井智雄


この記事をシェアしよう!

フッターです。