それは一体誰のための特別支援なの? 学校が変わらないのはなぜ…?
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- 大切なあなたへ花束を


SDGsで示されている社会の未来図。それは、誰もが差別なく、公正かつ平等に過ごしていける社会です。それは言い換えれば、みんないっしょが当たり前の社会、ということではないでしょうか。その大切な考えを子どもたちといっしょに学んでいけるのが小学校という場であるべきですが、なかなか難しい状況にあるのだと宮岡先生は言います。何が問題なのか、先生の話に耳を傾けてみましょう。宮岡先生は木村泰子先生に師事し、現在は「みんなの学校マイスター」として講演活動や各校の支援で大活躍中です。
【連載】大切なあなたへ花束を #11
執筆/みんなの学校マイスター・宮岡愛子
それは一体誰のため?
今、私はサポーターとしていくつかの学校に行っていますが、インクルーシブ教育に先進的であると言われている大阪府の小学校でも、まだまだ特別支援の子どもたちが分けられている、と感じる場面が少なくありません。
どうして「みんないっしょが当たり前」は広がっていかないのだろう…。そんな思いを胸に毎日を過ごす中、とある勉強会で木村泰子さんと対話する機会がありました。
私の抱いていた思いは、会に参加した他の先生も同じだったようです。
メンバーのみんなが、思いを口にしていきます。
「共に学ぶって、なかなか広まらないですよね」
「みんなの学校の映画が公開されてから10年、でも変わらない学校がたくさんあります」
「分けることが当たり前になっています。分けて少しでもその子ができることをふやすのが合理的配慮と思っているようです」
みんなの発言が終わると、泰子さんはこう言われました。
「なぜ、広がらないのか? を考えてみませんか?」
その質問なら、どんどん答えが出てきます。
●支援学級の子どもが、授業中に立ち歩いたら、自分の授業が面白くないと思われる。また、ほかの子も立ち歩くことが心配。
●ざわざわしたら、隣のクラスに迷惑がかかる。
●支援の子には同じ学年の課題は難しすぎて、授業中に「わからん」と叫ばれたら、自分のプライドが傷つく。
●勝手なことをして、うるさくなって収拾がつかなくなると困る。
●授業中になにもわからないことが、その子にとって苦痛である。
出揃った意見に共通するもの。これって、すべて教師が主語の考えではありませんか?
子どもはそんなことを考えているのでしょうか。
それなら、授業を変えればいいのです。子ども主体に変えればいいのです。
実際にこんなことがありました。
社会の時間です。支援学級に在籍している子どもだけが集められて、授業を受けていました。その理由は、「10点や、20点のテストを持って帰ったら、保護者が残念に思う」というものでした。だから個別に対応し、きちんと教えているのだと。誰に対して授業をしているのでしょうか。
そしたら、テストを変えればいいのです。