一見ブツ切れの授業はよい? 悪い?【全国小学校授業実践レポート 取材こぼれ話⑤】
全国での取材校数900に及ぶ「教育技術」担当記者が、取材時の学校現場で見聞きした、先生方の役に立つ、ちょっとしたネタを披露します。
目次
研究授業に来ていた元校長が子供に耳打ち…
今から10数年前の頃のことです。ある学校に国語の授業改善についての取材をしに伺いました。それは管理職向けの弊社「総合教育技術」誌の取材で、中心となるのはその学校の優秀な研究主任の先生が主導している授業改善の方法についてでした。しかし、取材をお願いしたところ、「ちょうど近く、若手の先生の国語の校内研究授業を行うので、それを見に来られませんか?」と声をかけていただいたのです。私は授業を見るのが非常に好きですから、喜んで伺う旨を申し上げ、研究主任の先生にお話を伺うのはその研究会の後でということになったのです。
そこで指定された研究授業の日に学校に伺うと、研究授業は2時間あり、そのうちの1時間は中学年の国語で、説明文の段落構成図を考える授業でした。実はこのときに使われた教材は、説明文の「なか」に示されている事例の中に、小さな入れ子構造があるもので、その類の文章を初めて読んだ子供たちにとっては、少々難しいものだったのです。子供たちは全体で音読し、各自で文章を段落構成図に整理していった後に、全体で考えを出し合っていきました。
しかしどの子供からも、正しい段落構成図は出てきません。先生がいろんな子供たちから意見を聞いていきますが、どうしても出てこないのです。多くの先生方、指導に来ている退職校長、取材者の私とT副編集長が見守る中、子供たちは「ああでもない、こうでもない」と熱心に議論し、何とか正しい図を考えようとしています。少々、手詰まり感が漂っている雰囲気なのですが、子供たちは諦めません。私には、子供たちの顔に「大好きな担任の先生の研究授業で、多くの先生が見ている中、授業がうまくいかないなんて、格好悪いところを見せられない」と書いてあるように見えました。子供たちは諦めずに議論を続け、知恵を出し合うのですが、しかし、どうしても入れ子構造という発想が出てこないのです。
冷静に考えてみれば、その先生が文章の構造を考えるために必要な道具(となる指導事項)について、事前にどの程度押さえていたのか、あるいはそれが適切なものだったのかについては疑問が残ります。しかし子供たち同士で、「ここはこうじゃない?」「いや、ここはこうなっているんじゃない?」などと知恵を出し合い、議論し、思考している姿は、とてもすばらしいものでした。「本当に先生のことが好きなんだろうな」とか「先生と子供、子供同士の信頼関係がしっかりできていて、共に学ぶ姿勢ができたクラスだな」と感じられたのです。
けれども、その気持ちだけでは発想の転換はできず、結局は授業の終わりが近付いてきています。そのとき担任の先生が、前方の子供たちの意見に熱心に耳を傾けている間に、指導に来ていた退職校長が、後ろのほうに座っていた子にこっそりと正解を耳打ちしたのです。それを聞いた子は、先生を助けられると思ったのでしょう、「ハイ」と手を挙げ、「5段落のところから、6段落と7段落に…」と、その入れ子構造を示す段落構成図を描いたのです。
「おお!」と驚き、喜びの表情を示した担任の先生は、「どうしてそう考えたの?」と、ごく当然のことながら理由を聞きます。しかし答えだけを教えられていた子供は、「え~っと…」と返答に詰まってしまいました。その重い空気の中、授業終了のチャイムが鳴ったのです。
答えだけを知ることになった授業に気持ちの悪さを感じた
指導のために来ていた元校長は、「研究授業の事前研究もがんばっていたし、指導案に沿ってやり切った形をつけさせてやろう」と、きっと善意のつもりでやったのでしょう。しかし子供たちの中に、「ああそうか」と落ちることなく、ただ答えだけを知ることとなったその授業に、非常に気持ちの悪さを感じました。もちろんそれは、子供たちや担任の先生に対してではなく、その元校長に対してで、端的に言えば「余計なことを…」というところでしょうか。
先ほども触れましたが、その担任の先生と子供たちの信頼関係は非常に良好に見えました。ですから、答えを出せぬまま終われば、多くの子が「せっかくの研究授業なのに、先生がいいところを見せられる授業にならなかったな」と不完全燃焼感をもつでしょう。そして、もしかしたら何人かの子供たちは、「あそこはどうすればよかったのかな」と家でも、再び考えてみたかもしれません。そして、もしかしたら一人や二人の子は、次の時間に「先生、前の授業でやったあそこ、もしかしたらこうだったんじゃない?」と、正しい段落構成図を描いてきたのではないかと思ったのです。
それはあくまでも、私の希望的観測であり、やっぱり考えても正しい答えには辿り着かないのかもしれません。それでも、いろいろ思考した後ですから、先生が「前の時間にできなかったところだけど…」と段落構成図を描いて説明すると、「ああ、そういう構成もあるんだ」と大多数の子にすっきり落ちたはずですし、指導事項もしっかり記憶されたことでしょう。
その機会を奪ったというのが、私の見立てでした。
一見ブツ切れの授業展開も、現行学習指導要領ではむしろ一つの新たな方法
現行学習指導要領の意図を汲めば、そこはより明確になってくるでしょう。前回にも触れましたが、学習指導要領の総則には、「単元など内容のまとまりを通して」資質・能力を育むことが示されています。ですから、子供の実態を無視して「この時間内にこれを…」などと無理に急ぐ必要はありません。担任の先生は授業時数の調整ができるわけですから、「この時間にはできなかったけれど、次の時間にもう一度考え直す時間をもとう」と考えればよいのです。子供たちにとって考えるべき重要な課題となっていたのならば、それはなおさらのことでしょう。
もちろん経験が浅いと、「隣の学級に遅れてはいけない」と思って進度を気にするかもしれません。しかし、ただ教科書の内容を授業でやったからと言って、資質・能力が付くわけではありません。「資質・能力」の育成という観点から言えば、子供の実態に沿って、しっかりと学習の過程であっても、そこで終えておいて次時につなげることも大切です。
それができれば、かえって授業時間を跨いだ、子供自身の学びの過程を生むこともできます。
教室内に閉じない学び、家庭にも開いた学び、と言うと、「家庭の協力を得て…」などと、まじめに考える先生が多いのではないかと思います。それはもちろん間違いではないのだと思いますが、一見失敗したかに見える授業が、実は子供の学びを家庭にまで広げるものであれば、素敵だとは思いませんか? それを当初から意図できれば、すごいことだとは思いますが、子供の学びの実態に寄り添った結果、家庭にまで広がりをもてるなら、それはすばらしいことなのではないかと私は思います。
こうした一見ブツ切れの授業展開は、内容重視で授業者目線の以前の学習指導要領ではアウトだったのかもしれません。しかし、学習者主体の現行学習指導要領ならば、むしろ一つの新たな方法と言ってもよいのではないかと思います。重要なのは、学び手である子供の学びそのものなのですから。
子供の個性同様、先生の個性も大事!【全国小学校授業実践レポート 取材こぼれ話⑥】はこちらです。
執筆/矢ノ浦勝之