低学年で必ず付けたい道徳の力とは? 木村泰子×佐藤幸司対談
どんな特性の子も一緒に学ぶ学校をつくってきた木村泰子先生と、数々のオリジナル道徳教材を開発してきた佐藤幸司先生の対談です。道徳の授業の話を皮切りに、不透明な社会を生きていくことになる低学年の子供たちが付けるべき力について語り合っていただきました。
左)木村泰子(大阪市立大空小学校初代校長)
右)佐藤幸司(山形県公立小学校校長)
目次
教科書に捉われすぎない自由な発想の道徳の授業を
佐藤 今日は、木村先生と道徳の話ができるのを楽しみにしていました。
木村 私もです。実は新任のときから私の根幹にあったのが道徳でした。でも、佐藤先生のように道徳の勉強をしてきたわけではないので、特別な知識があるわけではありません。
佐藤 私も同じようなものです。初任の学校は教育委員会指定の道徳の研究校でしたが、型にはまった授業がおもしろくなくて、自分で教材をつくるようになって30年になります。
道徳が教科化されたことで、先生たちは「教科書を使わなければいけない」という縛りを自分に課しているように感じます。例えば、全校道徳(全校児童で行う道徳。佐藤先生、木村先生ともに実践)とか、教科書に捉われない形の授業がもっとあってもいいですよね。
木村 大空小は、月曜の1時間目、みんなが講堂に集まって全校道徳を行います。学校は子供や教職員、保護者や地域の人がつくっているけれど、教員とか地域の人とか肩書を取ったら、「人」が残ります。それなら、人と人とが対等に学び合う、こんな全校道徳をつくろうということからスタートしたんです。
最初に、MCの私がその日のテーマ(例えば、「わかる」と「できる」はどう違う?)をホワイトボードに書きます。このときまで、子供も教員も誰もテーマを知りません。つまり、子供も教員も対等な関係で学ぶのです。一年生から六年生までが入る無作為なグループをつくったら、自分の考えを伝え合い、みんなの考えをシェアして、何のまとめもなく教室に帰ります。そして、各教室で学習シートに自分の考えと周りの考えを書いて終わります。
佐藤 大空小の全校道徳は、子供がどう変わったかという一番大切な視点が押さえられていると思います。教科化になってから、標準授業時数を守ったかとか、内容項目をすべて扱ったかとか、評価がどうとか、そんなことばかりが注目されています。ところが、肝心の子供がどう変わって、それによって学校がどう変わったかということがおざなりになっています。子供がどう変わったかという視点を大事にしながら、道徳の授業そのものを思い切って変える必要があると思います。
私の場合は、45分の授業を凝縮したような形で、15分の全校集会を使って、全校道徳を月1回行っています。先日は、NBAに行った八村塁選手を取り上げました。印象的なエピソードを紹介した後、縦割り班で話合いをします。そのときに、「先生の言葉や自分を信じてがんばること。チームのみんなと一緒に練習に励むこと。夢をめざして努力して勉強すること。この三つの中で、自分ができそうなのはどれかな?」のように、三つくらいの選択肢を与えて、自分ならできそうなものは何かと考えさせることも有効だと思います。
子供同士の話合いを大人が邪魔していないか
木村 大空小の全校道徳は、大人(教職員や地域住民)も参加しますが、大人は大人だけでグループをつくります。最初は、子供のグループに大人も入っていましたが、あるとき、子供たちが「大人は大人でグループをつくったらどうですか」と提案してきたんです。理由を聞いたら、「大人は邪魔です」と言いました。
佐藤 子供は正直ですね(笑)。
木村 なぜ邪魔かというと、「大人は仕切りたがる」と言いました。いつもグループの中で話をしないある子を見て、大人が「この子にもしゃべらせてあげなさい」と言ったそうです。すると、そのグループのリーダー(六年生)は、こう反論したのです。「大人はみんながしゃべらないといけないと思っている。でも、あの子は黙っていても、にこにこしながら聞いている。しゃべりたくなったら自分からしゃべるだろう。もし、『あなたもしゃべり』と強制したら、あの子は来週から月曜は遅刻して全校道徳を休むだろう。この場の空気を吸ってるだけでいいんだ」と。最高でしょう?
きむら・やすこ●大阪市立大空小学校初代校長として、すべての子供の学習権を保障する学校を具現化した。『「みんなの学校」から社会を変える』(高山恵子との共著/小学館)ほか、著書多数。
佐藤 大空小の子供たちは自主性が素晴らしいですね。子供の自主性は大事だけれど、低学年には指導も必要というのが私の考えです。袖崎小は何年か前に子供の生活態度が落ち着かない時期がありました。そのときに、まず生活の規律を保つことを目的に、「袖崎スタンダード」という名前を付けて、規律を視覚的に分かりやすく定めました。例えば、下足箱への靴の入れ方や、引き出しの中の整理整頓などです。それが定着して学校の伝統となっています。「袖崎スタンダード」が基になって、子供たちの自主的な活動があるのだと思います。
もちろん、規律をやみくもに教え込むのではありません。規律の先にある道徳的なこともつなげて教えなければ、形だけになってしまいますから。なぜ友達の発表は静かに聞かなければならないかを考えるときに、「友達の話を聞かないのは、友達を大事にしないことなんだ」と教えれば、子供はちゃんと聞きます。
若い先生がやりがちな失敗は、スタンダードを成功させなければならないと思うあまり、細かいことをあれこれ注意してしまうことです。あっちも注意するからこっちも注意しなければならない。子供は無視されることを嫌うので、自分に注目してほしくて悪さをする。悪さをすれば先生がかまってくれるという悪い学習をして、やがて学級崩壊を招くことになります。学級づくりの基本は、「これだけは守ってもらう」という太い柱がまずあって、そこに細かいルールがつながっているんですよね。
低学年に大切なのは「自己決定」と「安心」
木村 学習規律やスタンダードは何のためにあるのか。佐藤先生もおっしゃるように、その先にある目的を子供たちが分かるなら、このスタンダードは成功します。でも、スタンダードありきになったら、それができる子とできない子の格差が生まれます。
スタンダードよりも前に、一年生のすべての子供に必要なことは、教室の中にはいろんな友達がいて、周りの友達の声をいっぱい聞きながら、みんなで一緒にいろんなことを考えたりお話ししたりするのは楽しいということを、身をもって感じさせることではないでしょうか。
座れる子は座ったらいいし、立ち歩いている子はそれでもいい。大空小では、二年生になったら勝手に座れるようになっていきました。
でも、結果を目的にしたら、座っていられない子は教師に怒られる、それを見て周りの子はその子を格下に見ていく。こんな集団をつくってはいけません。私はスタンダードを否定しているのではありません。スタンダードありきになったら、特性のある子が(特別支援学級等に)排除されて、結果として周りの子が本来身に付けるはずだった力を奪ってしまうことになるんです。
―低学年の担任が子供たちに一番付けなければいけない力は何でしょうか?
木村 大空小の根幹には、「たった一つの約束(自分がされて嫌なことは人にしない・言わない)」が、常にありました。大空小の約束事はこれだけしかないんです。この約束って、例えば、道徳の最上位の目的でもあると思うんです。私は新任のときから、学級の目標もずっとこれでした。「たった一つの約束」は、人と人とがつながりながら、幸せになるために絶対に必要な大事な力。これを一年生から徹底するから、それが当たり前になって、「安心」できる6年間を過ごせるわけです。
この約束はどんな学習よりも大事です。だから、算数の授業中に約束を破るような言動があれば、すぐに授業を止めて、「今のことを考えよう」って、みんなで集まって話合いをします。授業を進めなければならないから、休み時間に言おうなんて考えていたら、子供はもうそのことを忘れていますね。
佐藤 袖崎小では、子供に「ちっちゃな自己決定」をしてもらうことを大事にしています。例えば、登校しぶりがあったとき、無理に登校させなくてもいいという流れが全国的に広がっています。命の危険があるような場合は別ですけど、子供って本当は学校に行きたいと思っているはずなんです。だから、保護者から「今日は学校に行きたくないと言っています」という電話があったときに、「では、今日はちょっと休ませてください」なんて言わないよう、担任に徹底させています。保護者に「自立の問題なので、今、ちっちゃな自己決定をさせてください」と伝えます。その後、子供に電話を代わってもらって、「おなかが痛いんだね。じゃあ、何時間目から来られそう?」とか、「給食前に、家の人から迎えに来てもらおうか?」とか、自分がレベルアップできる選択肢を与えて、ちっちゃな自己決定をしてもらうんです。その自己決定を段々レベルアップしていくと、大抵の子は立ち直ります。
木村 いいですね。子供は、1日休んだら、1年休みます。
授業の最大の目的は子供同士をつなぐこと
佐藤 自己決定でいうと、「選択制の宿題」も行っていました。計算ドリル20問の宿題を出すときに、「難しかったら1問とびでもいいよ。あるいは、1、5、10、15、20でもいいよ」と、自己決定させるのです。選択制にすると、子供ってがんばります。「大丈夫、できる」と言って、全部やってくる子が多かったです。それに、1問とびでやってくる子がいても、周りの子が「ずるい」とは言いません。
あとは、学校で過ごす時間の大多数が授業ですから、授業で子供同士をつなぐことが大切ですね。発言や意見をつないでいくことが、子供同士をつなぐことにつながります。
さとう・こうじ●山形県公立小学校校長。500本以上の小学校用道徳教材を開発してきた「道徳のチカラ」代表。『道徳の授業がもっとうまくなる50の技』(明治図書出版)ほか、著書多数。
木村 だからこそ、今までのような一方的な教え込みの一斉授業をしていてはいけない。教科指導は手段であって、目的は教科指導の中でどれだけ子供同士をつなげたかなのです。
佐藤 例えば、「僕も〇〇さんと同じで……」という発言があったら、「今の発言のどこがよかったか分かるかな」と子供に問いかけると、「〇〇さんも、と言いました」と返ってきます。「よく聞いていたね。気付いたあなたも偉いし、その言葉を言った××さんも、〇〇さんの言葉を聞いていたからそう言えたんだね」って、毎時間こういう小さいつながりをつくっていくと、1年間経ったときには太いつながりになっています。
また、子供の発言をできるだけ板書してあげることも大事にしていました。特に道徳では、一生懸命考えた答えなら間違いないんだよと教えます。先生が自分の意見を板書してくれただけで子供は嬉しいし、その板書から学びが広がっていきます。
木村 佐藤先生の言ったことを一年生の子が指摘したことがあります。「先生って正解をもっているから、当たりだったら黒板に書いてくれるけれど、外れだったら『なるほど』で終わる」と言いました。教師のもっている正解を当てる授業をどんなにやったところで、子供が自分の考えをもつようにはなりません。道徳は最たる正解のない授業です。だって、人が幸せになるために正解なんてないでしょう。
佐藤 だから、子供に聞くことです。中には、教師が驚くような意見も出てきます。子供は自分の経験に基づく子供なりの考えをもっていて、教材の内容項目よりも子供の考えのほうが大事なことだってありますから。
木村 そうなんです。教師だって子供に学ぶべきなんです。教えるという姿勢から子供に学ぶという姿勢に教師が変わらなければ、道徳の授業はできないと私は思っています。
―最後に、低学年を担任する先生方にメッセージをお願いします。
木村 これだけ多様化した価値観の中で、それぞれ考え方の違う保護者に6年間育てられた子供が、一年生として入学してくるわけです。だから、みんなが同じようになるわけがありません。誰一人一緒だったらおかしいのです。学校の中で一番統率がとれないのが一年生です。自分の教えやすいような型にはめ込もうなんて考えないことです。
全国の学校を訪問していて、力で押さえ付けるから一年生だけはお行儀よくしていて、学年が上がるにつれて乱れていく光景をよく目にします。本来の姿は、一年生は走り回っている子がいっぱいいるけれど、学年が上がるにつれて落ち着いてくる。これが普通です。
そんなことからひも解くと、一年生を担当する先生にとって、一番のキーワードは、「安心」ではないかと思います。子供は安心していたら、毎日楽しく学校に来ます。だから、子供が安心するためには、どんな自分であったらいいのかを考えることです。困っている子に、周りの子が「大丈夫」って言えるつながりが一年生でできたら、その子たちは6年間心配ありません。でも、困っている子を先生が迷惑な子と捉えて、「何してんの」と言っていたら、一年生は必ず大人のまねをします。
佐藤 子供が一番自信を付ける言葉は、「あなたなら大丈夫」です。低学年のうちから、こういう言葉をたくさんかけてください。
取材・文/長 昌之 撮影/西村智晴
『教育技術 小一小二』2019年4/5月号より