深谷圭助先生の言葉が育つ教室ー「辞書引き学習」からひらく語彙指導 #4 理科・図工・音楽の観察・鑑賞を深める「ことば」の力―見えているのに気づけないのはなぜか―

「辞書引き学習」で著名な深谷圭助先生が、「量子認知学」の考え方を基に「AI時代における語彙教育のあり方」について提案する全10回連載。安易にデジタルディバイスに頼ることなく、子どもたちの語彙力を確かに伸ばす実践を、毎回具体的に提案します。
執筆/深谷圭助(中部大学教授・『例解学習国語辞典/小学館』編集代表)
目次
理科授業「観察」をさせる前に指導しておきたいこと
小学校6年生の理科「大地のつくりと変化」の授業を参観しました。
子どもたちは、火山灰を顕微鏡で観察し、校庭の土や砂場の砂との違いを考える活動に取り組んでいました。
顕微鏡を覗き込んだある子は、こうつぶやきました。
「粒が角ばってる。ガラスのかけらみたいに、きらっと光るのもある」
一方、隣の子はしばらく覗いたあと、ノートにこう書きました。
「黒っぽい。ふつうの土とちがう」
同じ火山灰を、同じ顕微鏡で見ています。
それなのに、見えているものの「解像度」がまるで違うのです。
よく見ている子と、見えていない子。この違いはどこから生まれるのでしょうか。
これは「視力の差」ではありません。「観察の経験の差」でもないように思います。
その一つの大きな要因として考えられるのが、「観察するとき」に使う「ことば」をどれだけ持っているか、という点です。
「ことば」がないと、見えていても気づけない
例えば、火山灰を観察するとき、
「粒が細かい」
「角ばっている」「角がある」
「丸みがある」
「きらきらしている」
「ざらざらしている」
といった言葉を知っている子どもは、その言葉の一つひとつを「観察の視点」として使うことができます。
「角ばっているか、丸みがあるか」という言葉を知っていれば、粒の形に注目します。「きらきらしているか」という言葉を知っていれば、光の反射に注目します。つまり、知っている言葉の数だけ、見るべき観点が増えるのです。
一方で、こうした言葉を持っていない場合、
「なんか違う」
「黒い」
「すごい」
といった大まかな捉え方になりやすく、せっかく目の前に違いがあっても、それをはっきり捉えることが難しくなります。
「見えている」ことと「気づいている」ことは、別なのです。
近年の認知科学では、人は世界をそのまま受け取っているのではなく、既にもっている概念や言葉を手掛かりとして世界を認識していることが明らかになっています。同じものを見ても、どのような言葉を知っているかによって、気づく特徴は変わります。教育とは、新しい知識を教える営みであると同時に、新しい「見方」を子どもに与える営みでもあります。そして、その「見方」を支えているのが「ことば」なのです。
網膜には同じ像が映っていても、それを切り分け、名づけ、意味づける言葉がなければ、気づきとして立ち上がってきません。
つまり、ことばは、「見るための道具」でもあるのです。
