働き方改革は「教師のときめき」から
「働き方改革」の推進によって合理性ばかりが重視されつつある風潮に警鐘を鳴らすのは、 NPO授業づくりネットワーク理事長・石川 晋さん。教師の仕事は、自分自身が感じる「ときめき」に支えられたものになるべきだと主張します。決められたものをこなしていくだけの日々にお疲れ気味の先生! ぜひ読んでみてください。
執筆/NPO授業づくりネットワーク理事長・石川 晋
いしかわ・しん。1967年北海道旭川市生まれ。1989年北海道中学校教員として採用。オホーツク、旭川、十勝の中学校を歴任。北海道上士幌町立上士幌中学校を2017年3月に退職。その後、幼稚園から小中高、大学などを1年間に160校訪問し、国語・道徳・合唱の授業を220時間以上実施している。
目次
合理性ばかりを重視する今の風潮に違和感
学校を離れた僕は、なんでも適当に言える立場と見られているらしい。編集部からの依頼も「学校教員ではない石川さんの目から学校内では言いにくいことをどうぞ言ってください」ということだった。
本当は僕はすぐにでも学校に戻ろうと思っていて、言わば、学校と外との「間」で働く微妙な存在なのだ。が、まあ編集部の願い通り、学校の中では言いにくいことをちゃんと言おうと思う。
近藤麻理恵さん(こんまりさん)の片付け術は今やアメリカにも広がったらしい。日本での人気は一旦落ち着いたのかなと思っていたら、今度はアメリカから逆輸入で、再び日本でも話題沸騰である。片付けたいものが多いんだな、みんな。片付けられなくて困っても、いる。
「ときめくモノだけを残す」と言うこんまりさんの手法は実に分かりやすく、しかもかなりの程度で妥当で、すごい。でも、学校にこんまりさんの手法を導入したら、学校は今や学校ごと全部処分されてしまいそうな場所である。
なにしろ学校にはときめかないものがいっぱいだ。春先から一年生と二年生の先生が果てしなく打ち合わせをして、なんとか実施に漕ぎ着ける学校探検、なんのために学ぶのか分からない数式、黙ってほうきの手を動かせと言われる無言清掃、長々と話す学校長の話を我慢して聞かせなければならない全校集会、自分の準備はできているのに適当にやって遅れている仲間を待たねばならない「いただきます」、文字も読めない子どもに司会をさせる朝の会……。
でも、こうして考えてみると、学校はときめかないからといって投げ捨てちゃいけないもので満ちている場所でもあるんだ。列挙したものだって、それぞれの先生はそれぞれの願いや思いを重ねて実践している(はずだ)。
僕はかつて、学校にはいらないものだらけだから、できるだけ捨てようよと一所懸命旗振りをしてきた一人だった。でも、昨今の薄っぺらなエビデンス主義に基づく合理性重視の流れを受けて、働き方改革の美名の下で、なんでもかんでも捨てようとする学校に大きな違和感も感じている。
例えば「教材研究をする時間すらない、だから○○をやめよう」みたいな話。十分に過酷な労働条件で働く先生に同情しつつ、「本当ですか、それ?」とも思う。部活動削減も然り。もともと部活なんてなければよい派である僕でさえ、何かのせいで何かができないみたいな話のエビデンスはどこにあるのですか、と問いたくなる。そもそも学校っていうのは、人生の中で無駄なことにあくせくできる二度とない尊い場所だというのに……。
みんなにワクワクをもたらす、ときめく教師の伝染力
僕には一つ違いの弟がいる。彼の小学校高学年の担任は、片山巌先生という異能の方だった。北海道の旭川という雪深い場所だ。後に全国レベルの小学校バレーチーム監督として名を馳せ、名セッターとして知られた大懸郁久美選手を育てた人でもある。その片山先生は、冬になると毎週末、子どもたちを近くのスキー場へ連れていく。彼の行動力に惹かれたたくさんの保護者も行動を共にしていた。僕もちゃっかり弟をだしにして彼のスキー場遊びに同行していた。
寝食を惜しんで雪遊びをする彼は、保護者からも子どもたちからも絶大な人気だった。校内の軋轢などもあったのかもしれない。しかし、こういう仕事だか遊びだか分からない「間」のあたりで教育活動を行っている先生は、かつては結構普通にいたものと思う。彼は、もちろん誰よりもその活動を楽しんでいた。要するに彼自身がときめきながらやっていたのである。そのときめきの伝染力はすごくて、みんながまさにワクワクドキドキしながら彼に付き従っていたのだ。
自分のときめきに基づいてやってごらんよ
元来、教師は勤務時間の基準も曖昧だ。持ち帰りやプラスワンの仕事に支えられてきた側面があることは否めない。だからそれを是正しようという動きには僕も賛成である。しかし、では、かつての教員がそれらを嫌がっていたかと言うと、多分概ねそうではなかったように思う。それは、教師の仕事は、多くは教師自身のときめきをベースにして進められていくものだったからだ。
そう考えてくると、先生方が次々とあれもこれもやめましょう、捨てましょうというのは、教師の仕事からときめきが失われてしまっているからに違いない。ときめきを失った先生・学校なら、こんまりさんの言うように、今やなんでもかんでも捨てられそうだ、自分自身まで、ね。僕は、確かに捨てなくちゃいけないものがたくさんあることを認める。でも、最優先は、まず学校の仕事が教師一人一人のときめきに支えられたものになるように、みんなで考え直すことだと思う。
下駄箱に全てのクラスが入学までに名前シールを貼る。学級通信の号数を合わせる。同じ道徳の授業を全部のクラスでやる……そういう自縄自縛に捉われず、「みんな自分のときめきに基づいてやってごらんよ」と、この際言いたい。荒唐無稽に思われるかもしれないが、ときめきもなく言われるがままにこなしていく日々に決別できなければ、学校は一つずつ捨てていって、やがて魂まで捨ててしまう場所になる。
イラスト/大橋明子
『教育技術 小一小二』2020年2月号より