漁家、農家、会社員の三つ巴【玄海東小のキセキ 第5幕】

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玄海東小のキセキ
漁家、農家、会社員の三つ巴【玄海東小のキセキ 第5幕】

福岡市と北九州市という政令指定都市に挟まれた宗像の地に足を踏み入れると、そこは、古くからの漁師の町、農家の町であり、最近では都市のべッドタウン化が進む町でもありと、多彩な表情を持つことがわかりました。玄海東小学校は、育った文化の異なる子供たちの集合体だったのです。

押し寄せる不景気の波

地域住民から「学校がおかしい」という苦情を受けた宗像の市会議員によって、玄海東小学校に異変が起きているという情報が宗像市教育委員会主幹指導主事の脇田哲郎にもたらされた。2008年10月上旬に行われた市教委の学校訪問は定例的な行事であったが、学校が荒れているならば早く訪問するほうがよいと判断した脇田は訪問時期を10月末から10月上旬に前倒ししたのだった。

玄海東小学校に学校訪問に訪れた教育長以下10人は、授業中なのに私語で騒がしく、教科書を開いていないような6年生のクラスや、3年生のようにけんかが起きるようなクラスのありさまを見せつけられた。その光景を見た教育長が思わず、「なぜこれほどまでに荒れるのか」と嘆いた。

脇田は、おそらく保護者の多くも学校の荒れに気づいていただろうと語った。そして、当時の保護者ふたりに会わせてくれるという。

会えたのは肌寒い2022年3月のことだった。JR鹿児島本線の赤間駅を降りて待ち合わせ場所の喫茶店に向かった。赤間は福岡市と北九州市という政令指定都市の中間に位置する宗像市の中心地で大都市のベッドタウンとして発展してきた。特急が停車する赤間駅の北口にはバスターミナルがあり、南口にはロータリーがある。そして、南口から歩いて5分のところにショッピングモールがある。しかし、駅周辺の店舗は少なく、人の姿はまばらだった。新型コロナウイルス感染症の影響で駅近にあったビジネスホテルも閉館に追い込まれたらしい。

店に入ると脇田はまだ来ておらず、ふたりの女性客が赤いビロード地のソファに座っていた。安永和美と三藤(さんとう)章子だった。安永の髪はソバージュをかけていて長く、三藤は髪を短かめにしていた。どちらもスニーカーを履き、快活で健康そうな第一印象だった。

ふたりとも福岡県出身。安永は宗像市赤間、三藤は北九州市小倉の生まれだった。玄海東小学校の隣にある玄海東幼稚園(現・玄海ゆりの樹幼稚園)に互いの長男が同期入園したことで、専業主婦のふたりは親しくなった。2008年当時、2年生だった安永の長男真斗尉(まとい)と三藤の長男温哉(はるちか)はもう23歳になったという。

安永の家は米農家で、生産する米は地元のブランド米「夢つくし」だそうだ。三藤の家は漁業を営んでいた。宗像市の鐘崎(かねざき)漁港で水揚げされるのは、サバやアジなどの青魚やヤリイカが中心だが、フグの養殖でも知られている。

「ここらへんは、お米はおいしいし、鐘崎の魚を食べたら、ほかの魚が食べられなくなりますよ」と三藤が言うと、「でも、米づくりは儲からないし、魚が獲れなくなったから漁師もきついよ」と安永は現実的なことを言った。

確かに第一次産業は大変だと思う。2021年度版「食料・農業・農村白書」によれば、売り上げが100万円未満の農家が最も多く、農家の約43%に上る。これに農産物を販売していない農家を加えると、約52%になる。1農家当たり平均の農業所得においては、2013年の約143万円から、2020年の約123万円へと減少している。

一方、福岡県における漁業生産量の推移を見ても、漁業経営が厳しいことがわかる。2020年に農林水産省九州農政局統計部が作成した資料によれば、福岡県の海面漁業および養殖業の生産量は、2008年の約10万トンから、2018年には6万9100トンにまで減少した。

米のひとり当たりの年間消費量は、1962年の約111キログラムから、2021年には51.5キログラムまで半減している(2023年2月号『aff』、農林水産省発表)。それと同様に漁業のほうも、1年間のひとり当たりの魚介類消費量は、2001年の40.2キログラムをピークに、2018年には23.9キログラムに減少している(2019年、水産庁「数字で理解する水産業」)。

それを裏づけるようなデータが世界銀行の報告にある。世界の漁業および養殖業の見通しを調査したレポート「FISH TO 2030」(2008年)によれば、世界でも日本の漁獲量だけが減少しているのだ。例えば、北米地域の漁獲量は2010年の622万6000トンから、2020年には631万9000トンと増加しているのに、日本の漁獲量は2010年の516万9000トンに対して、2020年には491万1000トンにまで低下。将来的にはさらに減少するという予測が出ている。

玄海東小学校がある宗像にも、不景気の波が押し寄せていたのだ。

脇田と保護者の間では、いまだにやりとりが続いていた。

「子供がお世話になったし、PTA活動のあとの懇親会が楽しかったから。脇田さんは記憶に残る先生よ」

安永は文教委員会、三藤は会計役員などPTA会に積極的に参加していた。安永は「私はベルマークを数えるだけだけど、三藤さんはしっかり者だからお金を数えるの」と笑った。

安永と三藤の長男が3年生になったときに、校長が脇田に交代した。すると、PTA会の雰囲気が変わった。そこは若い母親が相談する場に様変わりしたのだという。

PTA会で安永は脇田に元気がよすぎる息子の真斗尉のことを相談した。友達にけがを負わせることがよくあったからだ。

安永の息子の真斗尉はクラスで体が一番大きかった。急に友達が真斗尉の背中に乗ってきたり、腕にぶら下がってきたりした友達をはねのけたら、その友達が転んですり傷を負ったりしたのだ。真斗尉はクラスの友達から悪者のレッテルを貼られてしまった。

そんなとき、出来事は起きた。

「消火器の栓を抜いたら、どうなるやろか」

そう思いついた真斗尉が実際に行動に移してしまった。消火器は1階の職員室近くにあった。消火器からバーッと粉が吹き出し、職員室や保健室の前の廊下や壁が真っ白になった。後始末が大変で担任からさんざん叱られたらしい。

安永がその顛末を話すと、脇田はこう言ったという。

「子供はそのくらい元気がいいほうがいいんじゃないですか。好奇心は大事です。私ならば叱らんかもしれない」

その言葉でいっぺんに安永は気が楽になった。「この人は保護者としてでなく、人間として受け止めてくれる」と思った。

写真左から2番目が、消火器の栓を抜いた安永真斗尉、1番目は三藤温哉、3番目は温哉の弟の亮吾、4番目は温哉の父の正一。正一が所有する章栄丸にて。

幼稚園から中学校まで同じ人間関係

「地域の母親の間では、早くから3年生のクラスが騒がしいという噂が出とった」

三藤は玄海東小学校の荒れについて語り始めた。

ところが、子供が持って帰る学校だよりや学級だよりには、子供たちに問題行動があるとか、何か注意を呼びかけるような話はなく、日ごろの取り組みの様子など当たり障りのない内容が続いていた。

宗像市では毎月1回、市内すべての小学校で学校公開日がある。いわゆる授業参観日なのだが、保護者は午前でも午後でも都合のいい時間に学校を訪れることができ、自分の子供がいるクラスだけでなく、ほかの学年のクラスも見て回ることができるという特色があった。参観の時間が指定されていないのが保護者に好評だった。

安永と三藤は、2008年11月の学校公開日には、「自分の子のクラスだけでなく、3年生のクラスを見ようと決めた。

11月の学校公開日に安永と三藤が参観した3年生のクラスはふたりの想像をはるかに超えていた。とにかく騒がしい。授業中だというのに、クラスの子供のおしゃべりが止まらない。

「突然、叫び声が上がったんです」

三藤によれば、教室の外壁側にある窓がひとつ開放されており、その窓枠に跨った男の子が雄叫びを上げたのだという。教室は2階にあるから、落ちたら危険だ。その男の子は三藤が住む県営住宅の子だった。幼稚園のころは息子の温哉と一緒に遊び、道で会えば挨拶する子が、なぜ叫ばずにいられないのか。

「あの子がこんなふうになるなんて」

その男の子の変わりように三藤は衝撃を受けた。すぐに補助に入っている先生が慌てて彼を窓から引き剥がした。

一方、安永は子供の泣き声が気になった。黒板の脇にあるオルガンの下に潜って女の子がふたり泣いていた。「授業中になぜ泣くの」と安永は思った。そこへ、教室の後方で椅子を放り投げる男の子も現れたので呆気にとられた。

「3年生のクラスは、どうなっとん?」

これが3年生のクラスを見たときの光景だった。たかだか8歳の子供が、授業ができないほど騒ぐことがにわかに信じられなかったと安永と三藤は語った。

ふたりはもちろん自分たちの息子がいる2年生のクラスを見た。問題行動をする子供が見当たらなかったのでほっとした。だが、それも束の間、わが子も成長すると、この3年生のようになるのだろうかという疑念が湧いた。

その学校公開日から帰宅したときのことだ。三藤は「あのお兄ちゃんが授業中に叫んでいたよ」と3年生の様子を語って聞かせると息子の温哉に尋ねた。

「あんたたちは大丈夫ね」

すると、幼い温哉は母親の目を見て答えた。

「おれたちは大丈夫よ」

息子の言葉に安心したと三藤は言った。

玄海東小学校の子供たちはもともと元気がよかったと安永は振り返った。

「親の職業によって子供はだいたい漁師の子、農家の子、サラリーマンの子の3つのグループに分かれるんだけど、幼稚園のころは皆、裸足で駆けずり回っていた。山猿が集団で幼稚園から小学校に上がっていくようなものと私らは思っとった」

三藤はそうそうと頷いた。

子供たちは、別に対立しているわけではないが、三つ巴の関係にあるというのだ。

およそ南北に走る県道502号線には、玄海東小学校前というT字路がある。子供たちは校門からすぐのT字路で、漁師の子は左に曲がって北に帰り、農家やサラリーマンの子は右に曲がって南に帰っていく。

「グループは3つに分かれるんだけど……」と安永は続けた。

「子供たちは幼稚園に入る3歳から中学校を卒業する15歳まで同じ顔ぶれで過ごすので、人間関係が窮屈な面があると思う」

漁師や農家など家業が形づくる文化がそれぞれの地域にはある。その異なった文化を背景に持った子供たちの人間関係が固定化しているというのだ。

3年生のクラスを参観したふたりの保護者の意見は一致していた。

「とにかく普通の学校にしてほしい」

ただそれだけだった。

「あのころは、まだふたりとも新米の母親だったよね」

安永と三藤は顔を見合わせて振り返った。

都会の風を吹き込むな!

安永の紹介で保護者の荒井かおりにも会った。荒井の子供は現在36歳。若くして結婚したので、保護者としては安永や三藤よりも先輩ということになる。

荒井は大阪市北区の生まれ。「大阪の読売テレビ放送でプロデューサーをしていた父親とバスガイドの母親から生まれたんです」と自己紹介した。低く声量のある声がこちらに響いた。大きな瞳ではきはきとした口調が印象的だった。実家は大阪の繁華街・梅田まで歩ける距離だというから都会っ子である。子供を自然のなかで育てようと、母親の姉が住む宗像市へと引っ越してきた転居組で自営業を営んでいた。

自分の息子が玄海東幼稚園にいるときにはPTA副会長を務め、玄海東小学校に進んでからはPTA広報委員会で活動するなど、学校や地域とのかかわりが深かった。

荒井の長男が玄海東幼稚園の年長組に転入したときのことである。PTA会が開かれ、PTAの勧誘があったが、なかなか参加する人がいない。そこで、荒井が率先して「やります」というと、隣に座っていた保護者がポツリと言った。

「好きやね。自分から手を挙げて」

「引っ越してきたばかりなので、子供が友達をつくるなら自分も、と思って……」

荒井は笑顔を浮かべて答えた。

玄海東幼稚園の年度末の恒例行事に、PTA主催の学芸会があった。PTAの有志が園児に芝居を演じて見せるのだ。どんな芝居をするかというと、例年、桃太郎を上演しているという。そのときは、「そうか、おとぎ話を演じるんだ」とやり過ごした荒井だった。

すぐに親しいママ友ができた。おしゃべりの最中、荒井が何かの拍子に、「フリーアナウンサーをしていた」と話すと、そのママ友が、「自分は脚本家になりたかった」と返してきた。すると、話題はPTAの芝居の話に変わった。「桃太郎の芝居じゃ、おもしろくないね」ということになり、そこで浮かんできたのが、漫画家・武内直子のヒット作『美少女戦士セーラームーン』だった。

「今度のお芝居で、桃から生まれたセーラームーンをやるっていうのはどう?」

「おもしろそうじゃない。私が脚本を書くわ。主役はあなたね」

すぐに台本と配役が決まり、手づくりの衣装を用意した。芝居を見せると、園児たちは歓声を上げてはしゃぎ、転げ回った。それ以来、セーラームーンが荒井のニックネームになった。園児たちはもう大人になっているが、町で荒井を見かけたその大人から、いまだに「セーラームーン、元気?」と呼ばれるくらいだ。

「少しは親同士の結束が図れたかな」といい気持ちでいる荒井に、芝居を見ていた保護者が近づいてきて、耳元でこう囁いた。

「都会の風を吹き込まんでくれる」

冷や水を浴びせられたように荒井は感じた。みんなでやろうと同意して演じた芝居ではなかったのか。地域に受け継がれてきたものを守ればいいんだということを無言のうちに教えられた気がした。

自分の子が玄海東小学校に在籍中に荒井はバツイチになった。そうすると、瞬く間にその噂が広まった。なぜそれに気づいたかというと、離婚して何日も経たないうちにPTA会に出席したら、一部の保護者から挨拶を無視されたのでわかったのだ。なぜ無視されるのだろうと不思議に思っていると、「離婚したのは男癖が悪いからだという尾ひれまでついとるよ」とママ友がこっそり教えてくれた。誰にも離婚したことをしゃべっていない荒井は、ポカンと狐につままれたような気分になった。

「ほかの田舎もそうだと思いますが、ここは保守的な土地柄。慣れるのに時間がかかりました」

いまでは海山の幸が豊かなこの町が好きになったと言って荒井は微笑んだ。

このような地域のうえに玄海東小学校は存在していた。

その学校とはほんの目と鼻の先に居を構えるひとりの小学校教師がいた。

2008年秋、近隣の小学校に勤務していたその男はときおり、玄海東小学校の校舎を寂しい表情で見つめていた。

ライター/高瀬康志 イラスト/菅原清貴 ※文中の敬称は省略させていただきました。

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