騙されたと思って特活をやってくれ【玄海東小のキセキ 第8幕】

連載
玄海東小のキセキ

宗像市教育委員会主幹指導主事の脇田哲郎は、玄海東小学校の立て直しに動く人材を探していました。市内の小学校で教務主任を務める北崎正則が適任だと教育長に進言していた脇田ですが、そのときは自分が同校の校長になるとは思っていませんでした。ところが、教育長から「どこに異動したいか」と聞かれた脇田は、自ら同校の校長になることを決めます。新しい学校経営要綱に戸惑う職員。相変わらず騒がしい子供たち。脇田の校長人生が始まりました。

面接の中心で”地元愛”を叫ぶ

2008年12月、宗像市教育委員会に人事の季節が巡ってきた。教員が異動希望を提出する時期だ。玄海東小学校を立て直すには、学校現場で中心となって動いてくれる教員を入れなければいけない。その人選を模索していた主幹指導主事の脇田哲郎の脳裏に、吉武小学校で教務主任をしている北崎正則の名前が浮かんだ。

脇田は北崎と面識はあったが、ほとんど会話を交わしたことはなかった。2005年度に脇田は福岡県教育委員会から宗像市教育委員会へと移った。宗像市の教育事情を一から学ばなければならないという意味で、脇田はいわば新参者だったから、いろいろなところに顔を出した。

2005年の10月、市内の有名な海水浴場のさつき松原海岸で、ちょうど吉武小学校が集団宿泊的行事の一環として地引き網の体験学習を行うというので、脇田は視察した。

その日の朝は秋晴れに恵まれ、海は凪いでいたから、地引き網をするには絶好の日和だった。

玄海灘に面して弓状に広がる砂浜で、子供たちが地元の人々と一緒に地引き網を一生懸命に引いている。「こりゃ、重い。魚が入っとるぞ」という地元の人の声に元気づけられて、子供たちの引く手に力が入る。

たくさんの小魚に混じってアジやイカが見えてきた。これならば子供たちも網の引きがいがある。最後のひと引きで、大きなスズキが跳ね上がると、「大漁だ!」という子供たちの歓声が上がった。

脇田が網を覗くと、体長1メートル近いスズキが見えた。それほど大きなスズキがとれるなんて珍しい。

「いま、入れたと?」

脇田の冗談に、慌てて北崎は首を振る。

「いや、違いますよ。いま、獲れたとです」

北崎はにこりともせずに答えた。脇田は北崎のことを朴訥な人だなと思ったが、ふたりの会話はそれきりだったから、脇田はそれ以来、北崎のことをすっかり忘れていた。再び出会ったのは、脇田が主幹指導主事になって2年目の2006年11月、学校管理職試験の面接試験のときだった。

教員の人事権は福岡県教育委員会が有するが、校長や教頭を目指す学校管理職試験の場合には、その候補者を面接し、推薦するのは市教委である。主幹指導主事の職務のひとつに学校管理職試験の面接の仕事があり、面接官の一員として脇田は教頭を目指す北崎と会った。

脇田は主幹指導主事として市内の小学校をくまなく見て回っていた。吉武小学校を視察したとき、北崎に対する同僚の評判は高かったことを憶えている。何かと相談に乗ってくれる、あるいは社会科見学で見学の対象になるところを一緒に探してくれるなど、教務主任として同僚のために何かと働いていることを脇田は把握していた。

面接試験ではほかの受験者が、校長を補佐するに当たってこうするとか、学校経営要綱を具体化するためにこう工夫するといった模範回答を述べるなかで、北崎が宗像のことが好きだという地元愛を語ったことが強く印象に残った。

それだから、人事が動き始める2008年12月、脇田は城月教育長に玄海東小学校再生の実行部隊を担ってもらうのは北崎が適任であると進言した。

そんな市教委の動きを知らない北崎は別の事情に迫られていた。玄海東小学校の校長もまた北崎をほしがっていたのである。吉武小学校の教務主任だった北崎は、2008年度の早い段階から「うちの学校に来てくれ」と玄海東小学校の校長に誘われ続けていたのだ。それゆえ、2009年1月に北崎は玄海東小学校への異動希望を提出していた。

ところが、3月に入ると、玄海東小学校の校長が退職するという噂が同校の近所に住む北崎に聞こえてきた。定年まで数年を残しての早期退職だった。

てっきりその校長のもとで働くと思っていた北崎は、母校が見捨てられたと思った。地元では、「校長はたった1年で辞めてしもうた」「その前の校長も2年間しかおらん。どうも長続きせんな」と、この話題で持ちきりになった。

2009年3月下旬、城月教育長は脇田を教育長室に呼んだ。城月から異動希望を聞かれた脇田は、即座に玄海東小学校に異動したいと答え、校長として学校現場に復帰することが決まった。脇田は退席しようと思って立ち上がりかけたが、座り直した。脇田は北崎の異動について聞いた。

「あの件は、どうなりましたでしょうか」

「私も脇田主幹の意見に賛成です。全力で動いています」

まっすぐに脇田を見つめる城月に嘘はないと思った。あとは県教委の人事しだいだ。

3月末になり、北崎は玄海東小学校に異動することが決まった。北崎は上司である吉武小学校の校長に聞いた。

「脇田という新しい校長は、どげな人ですか?」

「よう知らんが、市教委から降りてきた偉いさんらしか」

脇田が次の校長だと知ったとき、北崎は「へえ」と意外に思った。ここ何年も玄海東小学校の校長は校長経験者の横滑りが続いていたからだ。学校管理職試験のときの面接官のひとりだったというぐらいしか脇田のことを知らない。脇田の人柄を知りたかったのだが、上司の校長の返事はあまり要領を得なかった。

学校がつまらん玄海東小の子

2009年3月30日の夜、宗像市教育委員会のフロアの蛍光灯が、脇田のデスクだけを照らしていた。誰もいなくなった職場で、脇田は学校経営要綱の作成にとりかかっていた。校長は学校に赴任すると、前任校長がつくった学校経営要綱を踏襲するケースが多い。しかし、脇田は具体的な計画まで織り込んだ学校経営要綱を書こうと考えていた。

脇田が新しい学校経営要綱を作成する理由はふたつあった。ひとつは、2009年度は宗像市が小中一貫教育を導入する初年度だったことである。玄海中学校と本校を含む3つの小学校とで小中連携を進めることになっていた。

しかし、授業が成立しない状況で小中連携を進めることは無茶だった。小中連携が盛り込まれている前任校長作成の学校経営要綱を使うわけにはいかない。

ふたつには、目の前の荒れた子供たちをどうするかという観点から学校経営要綱を起こさなければいけないと考えたのである。

学校経営要綱の作成に残された時間は、3月30日と31日の2日間しかなかった。自宅に仕事を持ち込まないという脇田自身の流儀もあったが、執筆するには職場のほうが捗(はかど)った。

脇田は自分のデスクに向かい、玄海東小学校の子供たちを思い浮かべた。同校に28回も学校訪問した脇田が見るところ、自分が子供だった昭和30年代や昭和40年代の腕白小僧がいっぱいいるような気がした。勉強ができ、ものわかりのいい子供をよしとする教員には、玄海東小学校の子供たちは荒っぽく見えるかもしれない。しかし、その子供たちは人懐っこく、純朴な子供たちだった。

それが現状の子供たちの姿だとすると、理想の子供たちの姿は何だろうか。脇田が担任をしていた、1980年代初頭の福岡県宇美町立宇美東小学校時代の教え子たちが浮かんできた。脇田が6年1組の担任だったときのことだ。そのクラスには、まもるという特別な支援が必要な男の子がいた。

3学期の学級会で、縦割り活動(異年齢集団活動)で行った遊びを下級生に受け継がせるには、どうしたらいいかという話し合いをした。

そこで遊びをまとめた冊子をつくることに決まったとき、まもるが急に立ち上がり、「そんなこと、しとうない」と意見を出した。それに対して、ほかの子供が「5年生は今度、6年生になるけん。縦割り班をリードせないけんでしょう。だから、冊子をつくるんよ」「5年生が困らんように冊子をつくらんと」などと反論を述べたので、まもるは納得した。

ところが今度は、遊びのルールを書くだけでいいのかという論点で、子供たちの議論が紛糾した。すると、まもるが「よくわからん」と言い出したので、「どんな遊びかがわかるように遊びの絵を入れたほうがいいと思うんよ」「いや、絵だけじゃわからん。遊びのおもしろさがわかるような説明文を入れるほうがいいけん」と子供たちはまもるにその理由を懸命に伝えた。

遊びを紹介する冊子をつくる段になると、「まもるは、絵を描くのが上手やろ。絵を描いて」と仕事を任されたまもるは、夢中になって遊びの絵を描いた。まもるが文章を書くのが苦手なことをクラスのみんなが知っていた。

特別な支援が必要な子だろうと、対等に意見を出し合って合意を形成するまで持っていき、困ったときには助け合い、各自が必要な役割を果たすという姿がそこにあった。

脇田があの手この手で特別活動の手法を駆使して子供たち同士をかかわらせた結果の姿だった。玄海東小学校の子供をこんな子供にしたいと脇田は思った。

理想の子供たちを念頭に置いて、脇田は玄海東小学校の子供たちの意識調査の分析に入った。最も荒れていた3年生の子供たちの内面を知りたかった。

2008年度に行われた「宗像市学習意識調査」によれば、「学校生活は楽しいか」という質問に対して「とても楽しい」と答えたのは、市内の3年生の場合には51%と半数を超えたが、同校の3年生は29%に留まった。その反対に「楽しくない」と答えたのは、市内の3年生は2%に過ぎず、同校の3年生は16%に上った。

「自分にはよいところがあるか」という質問に対して「よいところがある」と答えたのは、市内の3年生は28%、同校の3年生は13%で、「よいところがない」と答えたのは、市内の3年生は7%に対して、同校の3年生は17%であった(下記グラフ参照)。

2008年度「宗像市学習意識調査」より
2008年度「宗像市学習意識調査」より

このときの3年生は、学校生活を楽しく思う子供や、自分にはよいところがあると思う子供の割合が、市内の3年生と比べて低かった。要するに、同校の3年生は学校がおもしろくないのだ。

いついじめられるかわからないし、けんかがすぐに起こる。クラスで安心して過ごすことができなければ、クラスは楽しい場所にはならない。褒められるよりも叱られてばかりの子供たちは、自分に対する肯定的な見方をすることがしだいにできなくなったのではないかと脇田は理解した。

脇田は玄海東小学校再生のキーワードを「かかわり」に決めた。2006年度から2008年度まで脇田は、2008年度改訂に向けた学習指導要領解説特別活動編作成協力者を務めた。このキーワードは、その学習指導要領の特別活動編の目標として新しく立てられた「人間関係の形成」という用語に期せずして合致するものになった。

学校教育目標として「ふるさとを愛し、ふるさとに誇りを持って生きる子供の育成」を掲げ、学校経営の重点目標を「かかわりを深める教育活動の充実」とした。その重点目標を達成する方法には、「子供相互のかかわりを深める教育活動」と「地域のひと、もの、ことにかかわる教育活動」を行うという両輪を立てた。

具体的には、「子供相互のかかわりを深める教育活動」では、主に学級会や児童会活動としての縦割り活動を行い、「地域のひと、もの、ことにかかわる教育活動」では、地域の家に泊まる長期宿泊体験、地元の祭りである鐘崎祇園(かねざきぎおん)山笠への参加、保護者や地域が参加する運動会、地域と共催する文化祭の実施を考えた。

翌31日の夕方5時を過ぎた。そろそろ学校経営要綱の続きにとりかかろうと、脇田がメモをデスクのうえに広げていると、部下の指導主事がそっと集まってきた。

「脇田主幹、最後の晩なのに、何をしとられるですか」

そのなかのひとりが、そう脇田に声をかけた。大変な小学校の校長になることを皆、知っていた。

「新しい学校経営要綱を書いとると。せいぜい、あなたたちから指導されんようにするよ」

その場の一同に笑みがこぼれた。しかし、それは冗談ではなく、脇田の本音だった。どんな校長人生になるのか、不安がなかったといえば嘘になる。

校長、朝の交差点に立つ

冬の1月も学校下の交差点で子供を迎える脇田。玄界灘から吹く北風が体にこたえた。
冬の1月も学校下の交差点で子供を迎える脇田。玄界灘から吹く北風が体にこたえた。

2009年4月1日は、雨がちらつき、肌寒い日だった。校長が初めて全職員と対面する新年度が始まった。

脇田は校長室に呼んだ北崎を笑顔で出迎えた。

「北崎さん、玄東を頼みます。教務主任をお願いします」

脇田が北崎にかけたのは、そのひと言だけだった。年長の先輩に頼むと言われた北崎は、脇田に横山有(たもつ)教育長の面影を見た。以前、学力が低迷していた玄海東小学校に異動になったとき、当時の横山教育長から、「頼むぞ」と言われたことを思い出した。

脇田は職員会議に向かった。再建に当たる教員チームは総勢14名。校長の脇田哲郎、北崎正則、担任候補の女性ベテラン教諭2名が玄海東小学校に赴任した。前任校長は退職し、前任の教務主任は転任したが、教頭やほかの担任は留任したので、前年度から顔ぶれががらっと変わったわけではない。

おもむろに立ち上がった脇田は、前任校長が作成した学校経営要綱を使用しないと宣言し、職員の前で新しい学校経営要綱を発表した。

そうすると、その要綱を見終えた、ある男性の担任が手を挙げた。

「本校の子供たちは学力が低いのに、特別活動をやるとですか」

その担任が至極当然のように質問するので、脇田は正面から答えず、問い返した。

「荒れた学校のままでいいですか?」

その担任だけでなく、ほかの担任も首を振る。

「前年度、みなさんは子供たちに、あれをするな、これをするな、と強く叱ってきました。そんな状況で学力向上を望めますか」

担任たちは望めるはずがないことをわかっている。だが、特別活動を行うことに納得がいかないのだ。脇田はさらに問いかけた。

「学校を嫌いになった子供たちは、学校を離れていきます。どこに行きますか」
 担任たちは何を言い始めるのかという表情をした。黙って脇田の話が続くのを待っている。

「大きなショッピングセンターにたむろするようになります。そうなったら、もう子供たちは学校や教師にかかわろうとしません。だから、相互交流を図る特別活動を行うのです」

脇田は自分の考えを丁寧に話した。

「騙されたと思って特別活動をやってください。一緒に楽しいことがいっぱいある学校にしていきましょう」

教員は平均年齢50歳代のベテランぞろいだった。自分なりの指導方法を確立している教員ばかりである。指導方法を変える必要はなく、発想を切り替えて学校経営要綱に記した特別活動に取り組んでもらえばいい。そう考えた脇田は、くどくどと語らず、簡単な約束を守ってもらうことにした。

ひとつは、子供を褒めることである。職員室で決して子供の悪口や繰り言を言わないことや、子供や保護者のせいにしないことを約束してほしいと告げた。

前年度、3年生のクラスは騒がしいグループと比較的騒がしくないグループのふたつに分けられた。騒がしいグループは校舎の3階に移動していた。そういった処置をすること自体が、公然と3年生の子供たちは悪いというレッテルを貼っていることになる。脇田は子供たちを肯定的に見る方向へと担任の姿勢を変えてもらいたかった。

もうひとつは、全校を挙げて学校の体質を改善していくということである。どのクラスでも、けんかはすぐ起こるし、靴隠しや物隠しが頻繁に起きていた。それが起きたのは、そのクラスの担任の問題だという雰囲気を学校のなかにつくりたくなかった。職員全員でこの学校をよくしていこうというチームの意識をつくりたかったのだ

最後に脇田はこう締めくくった。

「職員のみなさんが不祥事を起こしたら、みなさんが辞めるのではなく、私が辞めます。責任は私がとるので、私の好きなようにやらせてください」

4月6日の始業式を迎えた。朝、午前7時に脇田は玄海東小学校に着いた。

県道から学校へと入る道には、信号機のついた交差点がある。学校からその交差点に出て、左折すれば漁師が多く住む岬地区に行き、右折すれば農家の多い池野地区に向かう。脇田が到着したときには、交差点に人はいなかったが、いつの間にか、地域の人が交通安全のために、その交差点に立っていた。時刻を見たら、午前7時半だった。

「ああ、地域の方が立ってくださるんだ」

午前8時ごろから子供たちが登校をし始めた。自分も校長としてやらなければいけない。そう思った脇田は、始業式の翌日の朝7時半から地域の人と一緒に交差点に立つことにした。

ところが、翌週13日の月曜日に交差点に行くと、誰もいない。始業式から1週間限定の当番だった。しかし、脇田はそれを止めるつもりはなかった。子供たちが「おはよう」の挨拶をしないことが気になったからだ。脇田は交差点にひとりで立った。

脇田が子供たちに「おはよう」と声をかけても、子供たちは無視した。友達とのおしゃべりは止まらない。挨拶を交わすために子供を立ち止まらせると、「どこのおじさん?」という顔をする。耳元で「おはよう」と大きな声を出すと、ようやく「ああ、おはよう」と答えた。まるっきり大人が見えていないのだ。

低学年や高学年を問わず、「おはよう」と何度声をかけても返事のないときには、その子を呼び止めてこう言った。

「大人が挨拶しよるときには、ちゃんと挨拶しましょう」

その子が「おはよう」と言うまで笑顔で挨拶しつづけた。そうすると、1年生が「おはようございます!」と挨拶を返すようになった。脇田は「よくできましたね」と1年生を褒めた。

1年生が登校する際には、連れ添ってきた母親が交差点から離れた場所で子供を自家用車から降ろし、ひとりで登校するように促す光景が見られた。しかし、1年生のなかには、母親から離れられなくて泣く子がいる。

そんなとき、脇田は「あの子を迎えに行こう」と交差点にいた子供たちに呼びかけた。子供たちが駆け寄ると、その子は泣き止み、みんなで「おはよう」と挨拶して校門に向かった。

毎朝、子供たちの顔を見ていると、表情の違いがわかるようになった。あるとき、低学年の女の子のりおんが、いつも元気がいいのに暗い表情で交差点に現れたので、すぐに脇田は担任にそのことを伝えた。すると、昨日まで仲がよかった友達と言い争いをしていたことがわかった。

「これは、いい児童観察になる」

脇田は朝の交差点に立つのも悪くないと思った。朝の挨拶を交わして子供に変化が見られるたびに、脇田は担任にその子に留意するように促した。

脇田は出張がある日でも、交差点に立ってから出張に向かった。そのように徹底して行ってひと月が経ったころ、登校して来た6年生の女の子が脇田に質問した。

「どうして校長先生は自動車にも頭を下げると?」

「信号でちゃんと止まってくれたから、ありがとうとお礼を言うのは当たり前たい」

脇田はようやく子供たちに校長と認められたかな、と思った。県道を行き交うクルマのドライバーは、脇田が頭を下げると怪訝(けげん)な顔をしたが、しだいに玄海東小学校の校長が交差点に立っていることがわかると、会釈を返した。

その交差点に名前はなかった。しかし、脇田が毎朝、子供たちを出迎えるようになってから、その交差点は「学校下の交差点」と保護者から呼ばれるようになった。脇田は玄海東小学校に勤務した5年間、学校下の交差点に立ち続けることになる。

始業式が始まった。そのために体育館に集まった子供たちは、相変わらず騒がしかった。静かにしなさいと何度言っても静かにならない。その子供たちを見ていた脇田は、全校朝会をすることを思いつく。

始業式の翌日から朝の出迎えと併行して、毎朝、全校朝会という名前で、簡単な集団行動を行うことにした。子供たちは廊下に並び、体育館に向かい、整列して校長の挨拶を聞き、そして回れ右をして教室に戻るというだけなのだが、無言で行うのが条件だ。活動時間は始業前の朝の15分間を使った。

朝の挨拶をしたあと、子供たちが無言で行動できたときには、「今日はちゃんとやれましたね。明日も頑張りましょう」と言い、子供たちが私語を止めなかったり、整列が乱れたりしたときには、「無言で行えませんでした。明日、頑張りましょう」と述べるにとどめた。子供たちが人の話を聞けるようになるまで、長く話そうとは思わなかった。

人の話を聞けない子供たち、集団行動ができない子供たちには、「こうしなさい」と口頭で指導しても聞く耳を持たない。みんなと一緒に行動するときには、実際にこのようにやるのだということをして見せるほうが早い。

しかし、子供たちが静かになったのは全校朝会の15分間だけで、授業中はうるさかった。担任に叱られ続けて、やっと子供たちは静かになった。

脇田は校長になることが決まったとき、保護者の不動産屋の紹介で東福間駅の近くにアパートの一室を借りた。自宅から玄海東小学校までクルマで1時間半かかった。校長はいざというとき、すぐに学校に駆けつけなければならない。学校危機管理の責任を持つという意味でそうしたのだが、それ以外にも地域の人と親しく接したいという考えがあったからだ。毎朝、学校下の交差点に立つなど、全力で校長の仕事に打ち込むには都合がよかった。

勤務日にはそのアパートに泊まり、週末の休日には自宅で過ごした。

「なぜこんなに担任の言うことを聞けんのか……」

2DKのその部屋で、脇田のひとり悩む日々が始まった。

ライター/高瀬康志 イラスト/菅原清貴 ※文中の敬称は省略させていただきました。

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